漫画家になりたかった子供は夢ばかりみる③

子供の夢には、憧れがいっぱい詰まっている。
お花屋さん、ケーキ屋さん、看護婦さん、世界を守るヒーロー、学校の先生などなど。甥っ子が幼い時には、「大きくなったら、何になりたい」の質問に、「パンダ」と答えたことを、彼はきっと覚えていない。なれるか、なれないか、ではない。ただ、心に浮かんだ素敵なものが、子供の夢なのかもしれない。

私はいつ、漫画家を目指そうと思ったのか、正直、まったく覚えていない。気がついたら、ノートに落書きをしていた。小学生の頃だ。当時の流行りだった漫画にそっくりな、主人公やら脇役やらをイラストで描いて、その周囲に設定なんかも書いていた。ノート丸ごと一冊、そんな落書きで埋まった。気分はすっかり漫画家だったが、まともなストーリーを考えたことはなかった。

卒業文集に、たしか私は、将来は有名な漫画家になります、と書いた。無茶苦茶だ。しかし私は、就職し、才能と努力と執着が足りないと漫画家の道を諦めるまで、本気でそう思っていたのだから、まだまだ子供だった当時、それは手に届きそうな夢だった。

その頃、私は漫画を買ってもらえなかったので、ほぼほぼアニメで育ち、友人から雑誌を見せてもらっていた。少女漫画ばかりだったが、漫画という表現方法を、そこで知ったし、面白いと思った。コマ割りや見開き、緻密な背景、魅力的なキャラクターと筋の通った展開。漫画を描くには、相応の技術が必要なのだと、さも知見を得たかのような思いだった。

中学には美術部しかなく、そこに入部するのもなんだかはばかられ、運動部を選んだ。本心では、さほど絵がうまくないこと、ことさら芸術面では知識も技巧もおそまつであることは、分かっていたし、私が磨きたいのは油絵でも水彩画でもないといきがってもいた。あの時、素直に基礎を学んでいたら、と今になって後悔しているが、それはそれとして、自由気ままな体操部での活動も楽しかったので、どちらを取るなど考えても仕方ない。

高校では、美術部のほかに、商業美術部があった。最初は、なんの部活か謎だったが、基本はポスターなどのデザインを取り扱い、実態としてはフリーダムにイラストや漫画を描いていると教えてもらった。
もちろん、私は飛びついた。ここが欲しかった場所だと喜んだ。部員数名の、小さな集まりなのも嬉しかった。人付き合いは苦ではないが、それはそれとして、やはり疲れる。先輩も優しく、ここならば趣味と実益をかねるだろうと、はじめての部室訪問で即、部員になった。

このあたりで、私は本格的に二次創作にのめり込むのだが、漫画を描いた気になっても所詮は二次創作だ。キャラクターを借り、設定を借り、関係性を勝手に妄想し、なにひとつ自分の独自性はない。かろうじてあるとしたら、カップリングにした、ありもしない妄想で、それでも私は、ここからのし上がっていけると未来に夢を見た。

時は流れ、先輩が卒業し、後輩が入ってきた。部のお約束で、最初だけ定規を使ったゴシック体や明朝体の練習を指南し、あとは部室に置いた一冊のスケッチブックの説明をした。それは各々が気が向いた時、気軽になんでも描いていい自由帳で、数本の鉛筆、ホルベインの絵の具、歴代の部員が揃えていったパステルと一緒に置いてあった。そもそも、部室に来る者もまばらで、暇つぶしでもあったのだろう。

ある日、私はそのスケッチブックを見た。後輩のイラストが新しく追加されていた。お菓子のひよ子が、鉛筆書きで、とてもリアルに描いてあった。
しかもそのひよ子の絵は、まるまるとしたひよ子、すこしかじられたひよ子、半分くらい食べられたひよ子、と、5段階くらいに変化したものだった。さらにラストは、ちょうどひよ子が一羽いるくらいのスペースを、白紙にして、一連の物語のようになっていた。

私は、そのイラストを眺めながら、ひどく動揺し、なぜか感動した。ひよ子という菓子が辿る一生を、まざまざとそこに感じた。見せ方に驚いた。彼女は文字も、余計な描写もなく、緻密にありのままを紙面に残した。それは、よくある表現だったかもしれないが、スケッチブックに描いたということは、単に時間をもてあましていただけで、多分、なんとなく思い立ったのだろう。本気でひよ子を描くならば、部室に様々な道具があったのだから。

この出来事で、私は中学生に親友だった、ひとりの人物を思い出した。彼女は、とりたてて目立つ存在ではなかったが、なにかとユニークだった。私に戸川純さんを教えてくれたのも、彼女だ。洋楽ばかり聴いていた私が、はじめて触れた邦楽だった。
なにかの課題で、キャンバスに絵を描くよう言われ、私は風景画を選んだ。空と草花と遠くに高台。なんてことはない、描きやすくて分かりやすい絵だった。
彼女は、キャンバスのど真ん中に、さるぼぼを描いた。大きくも、小さくもないサイズで、余白がたっぷりあったが、彼女はそれ以上、なにも足さなかった。まるで空間になにかあるような、しかし見たままなにもないような、とても不思議な絵だった。

この親友のキャンバスに、私は己のセンスのなさを痛感した。羨望と、いくらかの嫉妬にとらわれた。
元から彼女と私は発想が違っていた。白い紙があれば、そこは埋めなくてはならないという私の常識と、見せたいものを中心にし他はどうとでも受け取ればいい常識を持つ彼女。敵わないと思った。私が頑張ったところで、魅力的な構図や全体像は、彼女のふとした構想に負けるだろう。私は、10代半ばで本当は自らの限界を知っていた。

私は、画力も欲しかったが、それ以上に目を見張る感性が欲しかったのかもしれない。多少はデッサンに難があっても、それを上回る面白さ奇抜さがあれば、もしかしたら夢に近づけたのでは、と憧れたのだ。羨ましかったのだ。

成人後、絵や漫画が上手い友人が何人もできた。ある人はポーズを脳内で決めると3Dで、どこからの視点でも想像できると言った。またある人は、ざっくり紙面に線を引くと、全体が決まると言っていた。素晴らしいが、私には妬ましくさえある才能だった。

では、文章を書くようになったら、その葛藤はなくなったかというと、そんなことはない。書きたくて書きたくて、同人誌をつくる予定も、個人サイトを更新する時期でもなくとも、ひたすら書いていたが、出来上がった瞬間のハイテンションから、いきなり『下手だった。つまらなかった。表に出さずに自分だけで楽しんでいたら良かった』と落ち込んで、恥ずかしくて、時に作品を削除して、なにをやってるのだろうと自問自答することもある。かろうじて、友達たちからよかったよ、面白かったよ、と感想をもらえて、ほっと嬉しさに安堵した。読んでもらえたのは幸せなんだと思えた。

幼い頃の目指した自分と、今の自分は違う。いい大人になってしまったので、パンダになれるなんてことも念頭にない。
だけど、漫画家になりたかった私の夢は、今はひとり、ふたりでいい、私のつたない作品を喜んでくれる誰かがいてくれたら、きっとそれでいいのだ。
夢は、いくつになっても見ていい自身の未来なのだ。

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