【短編小説(未完)】じいちゃんとりょうやの物語

 りょうちゃん、おたんじょうびおめでとう。なんさいになったのかな。4さい? 5さい? それとも、もうじがよめるぐらいおおきくなっているのかな。

 昨日はさっちゃんの29回目の誕生日を祝ってくれてありがとう。ハッピーバースデーの歌を一生懸命うたってくれたりょうちゃんにさっちゃんからのお返しです。

 今りょうちゃんは3歳だから、一番近い12月の誕生日で4歳になるよね。でもできることなら、もっとあとの誕生日に渡すことになればいいなーと思っています。なぜって、りょうちゃんのじいちゃん、つまり、さっちゃんのパパ(りょうちゃんのパパのパパでもあるけど)が死んでしまったあとにこのお話をりょうちゃんの誕生日プレゼントにしようとたったいま決めたからです。
 
 じいちゃんが肝臓がんという病気だってこと、りょうちゃんもちょっとは知っているよね。今はりょうちゃんと一緒に公園で遊んだり、お仕事もできるぐらいに元気だけれど、いつかこの世からいなくなってしまうときがやってきます。なので、じいちゃんがりょうちゃんのことをどれほど大切に思っていたかということをりょうちゃんが忘れてしまわないために、さっちゃんが心を込めて「じいちゃんとりょうやの物語」を書いてみようと思ったのです。

 りょうちゃんが何さいのときにこれを読むことになるかわからないけど、そうだな……8歳ぐらいと思って書くことにするね。思って、というより、願って、という方が近いかな。じいちゃんはせめて亮也が小学校に入学するまでは生きていたいっていつも言っているから。いまはまだ小さすぎるけど、小学生になるまでそばにいたら、自分が死んでも記憶のなかに生き続けられるだろうからって。

 それから、じいちゃんはりょうちゃんにランドセルを買ってあげるのを楽しみにしているよ。ランドセルの裏に刻む文字も考えているんだ。

 想像力を持て 金魚のうんこになるな

 フンじゃなくてうんこっていうところがいいだろって、さっちゃんに内緒話みたいに教えてくれた。どうかな? そんなランドセルを背負って毎日学校に通っているのかな? それとも、うっへー、うんこなんて書かれなくて良かったーと思っているかな。または、じいちゃんのいいたいこと何となくわかるって思ったかな。
 
 ところで、りょうちゃんは、死ぬことが怖くて夜眠れないなんてことある? 死ぬことが怖いんじゃなくて、死ぬってどういうことかわからなくて怖いのかもしれないけど。

 死んだらどこに行くんだろう。もうパパやママと会えなくなるのかな。真っ暗で何も見えなくなっちゃうのかな。
 いま僕は8歳で、誕生日が来たら9歳になる。一年、一年、大きくなっていくけど、死んだら年はとらないのかな。ずーっと8歳のままかな。死んじゃったらいつまで死んでなきゃいけないんだろ。「永遠」っていう漢字を学校で習ったけど、永遠なんていう長さを本当に感じられるのかな。僕が死んだあとでも学校はいつも通り8時25分にチャイムが鳴って、猫のブンブンは僕がいなくなった部屋で王様になったみたいに走り回っていて、そんなことここだけの話じゃなくて、世界中のあちこちで時間は進んでいくんだ。なのに僕は声を出して振り向いてもらうこともできない。

 そんなことがぐるぐる、ぐるぐる頭のなかを駆け巡って、「死ぬ」っていう二文字に埋め尽くされて、苦しくなって、お布団に入ってもなかなか寝られないなんていうことあるんじゃない?

 いいこと教えてあげる。それは亮也だけじゃないんだよ。さっちゃんも、じいちゃんも、パパもママもみんな一度はそういう経験があるんだ。怖くて怖くて大声で泣いたこともだよ。
 「なんで生まれてきちゃったんだろう。生まれてこなかったら死ぬことなんか考えなかったのに」ってね。

 いまはもう考えないのかって?

 そうね、答えの出ない問いを繰り返するより毎日のことで頭がいっぱいで、そのうち怖かったことも悩んでいたことも、みーんな忘れちゃったみたい。そして、身近な人を亡くしたり、自分自身が病気になったりして、またもう一回「死ぬ」ってことを考えるようになるんだわ、きっと。

 だからりょうちゃんの感じている恐怖はずーっと続くものじゃないから安心していいよ。それでもやっぱり怖いよーって思うのなら、じいちゃんのことを考えてみよう。

 じいちゃんはがんになってから、ずーっと死ぬことを考えていたけど、周りの人が言うような「闘っていた」というのとはちょっと違っていた。

 じいちゃんは死ぬことは怖くないんだって言っていたんだ。
 毎日が楽しければ楽しいほど「死」を自然に迎え入れることができるんだって。え、なんで? 楽しかったら、もっと生きていたい、死ぬのはいやだーって思うんじゃない? そうだね、そう思う人もいるだろうし、どちらかと言えばそういう人の方が多いかもね。でも、その言葉の意味をはっきり理解したわけじゃないけど、そう言い残してくれてありがたいなーと思うんだ。
 また、こんなことも言っていたよ。
 先に死んでしまったじいちゃんの両親や妹、友だちに会えるかもしれないと思ったら寂しくないって。死んだあとの世界について本気で信じているわけじゃないけど、どっちにしたって誰も見て来たわけじゃないから、だったら「ある」と思いたいし、そう思えた方が気が楽だって。

 そして何より、亮也、あなたの成長をそばで見て来たから、人が生まれて死ぬという世代交代の必然を実感したのだと思う。孫に自分の知と体力が吸い取られ、やがて没するのは本望だと、赤ちゃんのあなたをお風呂に入れたとき、心底そう思ったそうよ。バタバタと手足を必死に動かして、その足が自分の胸を蹴る。60数年間の人生が、まさしくその瞬間の幸福を味わうためにあったと思えるほどだったって。

 ちょっと難しい言葉が並んだけど、なんとなくでもわかってくれるといいな。

 死ぬことは悪いことじゃない。悲しいけれど、それだけのことじゃない。怖いことでもない。もちろんそれは生きることの素晴らしさを知らなきゃならないんだけどね。
 じいちゃんにとってりょうちゃんの誕生は、死ぬことは生きることと共にあるんだってことをわからせてくれた大きな出来事だった。

 さて、「じいちゃんとりょうやの物語」、まずは、あなたが生まれた日からさかのぼってはじめよう。

 有言不実行な過去を振り返ると赤面すること多々あり。この原稿のことは記憶の片隅にも置かれてはいなかったので、ファイルに挟まれたものを手に取り、なんて心優しき叔母のさっちゃんだろうと悦に浸った。彼女が物語を仕上げ、じいちゃん亡きあとの甥っこの誕生日にプレゼントしていたら、というIFが条件ではあるけれど……。

 

 

 

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