【講演録】ナニジンではなく。

先日、ある集会の場に招かれ話す機会を得た。交差性・複合差別についてがテーマだった。研究者や裁判係争中の当事者ら、他の登壇者の発表はどれも興味深かった。くらべて私のものは何だかぼんやりとしていてテーマに沿っていたのだろうかと思わぬではない。それでも内うちに抱えていた疑問を外に出すことで参加者と意見交換できたことは大いなる収穫だった。以下に記録として残しておこう。読み手の誰かに何かの信号が送られ、私が他の登壇者から受けたように、あれがこうしてそうしてこうだったのかと新たな発見が生まれることを願って。

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 私はナニジンに見えますか? 唐突な質問ですが、見かけがこんなで日本語を流暢に話すとなれば、あえて自己紹介しないかぎり、「日本人」として周囲は見ます。そして、否が応でも「私たち日本人はー」というあらゆる場面で枕詞になっている側に引き入れられてしまいます。もういい加減、国家と民族をいっしょくたにする癖をやめませんか?

 先日、フリーの記者のウクライナでの取材報告と、国境なき医師団の事務方としてパレスチナで働いた人の話を聴きに行ったときのことです。司会進行役の著名なジャーナリストが2年前にウクライナを訪れたときの書店の写真を見せ、マンガ『鬼滅の刃』が平積みされていたことをさして日本文化の素晴らしさをほめたたえ、「わたしたち日本人は~」を連発するのを聞きながら居心地の悪さを感じていました。すると後方に離れて座っていた私の友人が挙手し異を唱えたのです。
 「わたしたち日本人はとおっしゃっていますが、この会場にいる人すべてが日本人なわけではないです。ナニジンナニジンと区別することそのこと自体がウクライナやパレスチナで起こっていることの根底にあることを思えば、この場でそうした視点で発言されることに疑問を感じます」
 そんな風にマジョリティ側からそうした声があがるのは稀なので強い印象として残っていますが、大抵はやり過ごしてしまうことが多く、市民運動として関わってきた脱原発や教育の問題では共感できる人であっても、この人もそんなこと言っちゃうんだーとがっかりすることが多いです。

 私が自分自身を成す大事な要素としての3つを最初にお伝えしたいと思います。

 まずは、在日朝鮮人3世であるということ。両親の祖父母ともに朝鮮半島の済州島出身で、父方の祖父からすると在日歴100年になります。親戚はみな大阪や兵庫に住んでいて私たちの家族だけが東京で、しかも集住地域ではないところで小中高と公立の学校に通い、周囲はみな「日本人」でした。そして15歳の時に家族で日本国籍を取得しました。民族教育を受けずにいた私は大好きだった1世の祖母の死をきっかけに25歳の時に日本名ではなく元の本名である朝鮮名を名乗り、遅まきながら日本社会における在日朝鮮人差別へも目を向けるようになりました。

 2つ目は、舞台芸術・芸能活動や文筆活動を行う表現者であるということ。ストーリーテラーというのは文字通り物語を伝える人という意味で、20代前半に世界を旅し見聞きした体験談にフィクションを交えたひとり語りを行ったのがきっかっけで、以降旅先でのことに限らず日常の断片を切り取り「動くエッセイ」と称してトークライブを行っていました。しかしそれだけを生業としてきたわけではないので、数々のパートタイムをこなし非正規雇用労働者としての経験も豊富です。そこから見える景色というのも物語るうえで大切な軸となっています。社会悪である制度上の差別は許さないことは肝に銘じながら、被差別者=不幸な人という図式ではとらえず、かといってことさらに貧者の聖者という美談として持ち上げることはせず、人間をありのままに見るという癖は対象を客観的にとらえ物語上の人物として再構築させていく表現の過程で会得して来たものだと思っています。

 そして3つ目は、ひとり親家庭、シングルマザーであるということ。さらにいうならば父親が日本人のいわゆる“ダブル”の子を育ててきたということ。その娘を通して現在の日本社会と対峙してきたことでいまの私が作られているという部分は大きいと思っています。

 OECDのなかでも日本のひとり親家庭の貧困率はトップであるというのが最近では知られるようになりましたが、私の場合まずたちはだかったのが住む問題でした。不動産窓口で母子家庭というだけで一気に物件が減ります。そしてさらに朝鮮名を“いやがる”大家さんがいるので……としぶい顔になります。日本国籍者であっても関係ないのです。私は法的差別にはあっていませんが、そうした日常の差別は朝鮮名を使用していることであらゆる場面で出くわします。いまだに本名で生活する在日朝鮮人が2割に満たないということの背景にはそうした実体験があると思います。弁護士の兄を保証人にたてても、「そのお兄さんは北と南のどちらの出身ですか?」と全く在日朝鮮人ということを理解していない。
 ちなみに朝鮮半島にルーツをもつ人たちのことをいまでは「在日コリアン」と呼ぶのが一般的ですが、私の場合は文化的民族的な意味で朝鮮という言葉を使用しています。

 2002年日朝会談が行われ国交回復へ近づくどころか、朝鮮民主主義人民共和国が拉致を認めたことでいまに続く“北”たたきがはじまっていた2003年の自衛隊のイラク派兵反対集会で、マイクを握った私はこう叫んでいました。「アメリカのイラクへの戦争にNO!を訴えるみなさんは、果たしてこれが朝鮮民主主義人民共和国に起きたことなら同じように戦争反対!と声をあげるでしょうか。遠いイラクの民や、自国の自衛隊員の心配をする人たち、このことが戦争放棄の憲法を手放すことへつながることを憂慮する人たちが、同じように隣国の民のためにこうして集まって声をあげてくれるだろうか。そうした恐怖が私にはあります。いつの時代も戦争でいの一番に殺され、犠牲になるのは、戦争を推し進めた為政者ではなく、そこに暮らすひとりひとりの人間です。そこに国境はありません。」

 そして2004年、現在韓国の大学の二回生になる娘がお腹にいたころ、日本国内に「自己責任論」の大合唱が、イラク人質事件で解放された被害者へのバッシングとして広がっていました。権力者に対して声をあげることなく個人の弱いものに向けて石を投げる、そうした大衆を見てぞっとしたことを覚えています。
 私はこの日本社会で子どもを生み育てることの不安を感じていましたが、いち社会人として無知が生む差別を許容してきてしまった自分自身にも責任がないわけではないという思いがありました。なので、生まれ来る子にはきちんと歴史を伝えたいと日本人のパートナーに話したときの返答に絶句しました。彼は反対したのです。
 「知らないことがいいこともある。(生まれる子は)国籍は日本なんだし」。

 ここでもナニジンという線引きが行われることに違和感を覚えます。「二度と同じ過ちを犯さない」という主語のない言葉だけの平和主義は、いつか来た道を辿ることになる。ほかのことでわかりあえる価値観を持っていても、こと日本の侵略戦争の歴史については、日本人としての自分を汚されたと思うのか耳を閉ざされてしまうのがオチでした。

 周囲を見渡してもそうです。2世までは同族同士の結婚がほとんどだったのでそこに異文化が入ってくるとはありませんでしたが、3世、4世の時代になると逆転します。とはいえ、在日朝鮮人の男性と日本人の女性カップルの場合は、男性のアイデンティティは保持され、子どもたちへも継承される場合が多いようです。比べて、女性が在日の場合、パートナーだけではなく、その実家からいろいろ言われることもあるということは、子育て仲間の話から伺えます。父親の日本名を子どもが名乗っていても、子どもが差別されるから早く“帰化”しろとせっつかれたり。
 私が朝鮮名を名乗っていることから、それまではお互いを日本人と思って接していた母親仲間がその場で、わたしも、わたしも、わたしも在日だよとなり、在日について知ってもらおうと小さな講演会を行ったことがあります。その打ち合わせの際、ある家に集まって話をしていたところ日本人夫が憤って会話に入り込んできました。彼いわく、「自分も学生のころは日本がひどいことをしてきたと思いこまされ悪かったと思ったけれど、実際は植民地なんかじゃなかった、合法的だった、人権侵害なんてなかった。子育てサークルで嘘を振りまくのはどうかと思う」。ネットニュースで“発見”したことを得意げに言ってきたのです。私は突然のことで反論するにも声がうわずってしまいましたが、仲介に入ってくれた人がうまくおさめてくれました。が、その間中、とうの連れ合いである在日女性はずっと黙ったままでした。
 また、リベラルなカップルだと外から見える夫婦でも、子どもが自己肯定感を持てなくなるから、あまり日本の悪いことは言わない方がいいと日本人夫から言われて控えるようになったという話や、垂れ流されるメディアニュースを無批判に受け入れてほしくないと普段から政治社会について話すようにしていたけれど、露骨にいやな顔をされる夫の前で口をつぐむようになり、子どもたちが成長する中でいろいろな話をしたいのにできなくなった、家庭で孤立しているという話も聞きます。

 私が「ひのきみ闘争」(日の丸君が代反対表明)を娘と二人三脚でやってこられたのは、ひとり親家庭だったことも大きいと思っています。天皇のおひざ元、京都の小学校入学時からはじまり、奉安殿を負の遺産としてではなくGHQから守ったという「良きこと」として残している奄美の離島の中学校卒業式まで続けるなかでいろいろな経験をしました。もし変わらぬ考えのパートナーがいた場合、口をつむぐということはなかったでしょうが、子どもからしたら、父親や学校で習うことやテレビ新聞ネットと圧倒的多数の異なる歴史観の情報のなかで、母親の言っていることにどれくらい共感できるか、同調圧力の強い日本の学校で、不起立を通す=人と違うことを行うことのプレッシャーに負けていたかもしれません。口パクでやり過ごし一歩下がるのも生きる知恵のひとつ。右へ倣えのふりしてその実抵抗することだって可能です。ただ、そんなつもりはなかったと声に出すときはもう遅すぎるということは歴史が証明している。私たちは自分の自由を守る権利があり、その力もある。娘とともに成し得たメッセージです。

 一方、娘の話を聞くと、韓国の友人らが韓日の問題が話題になると娘の前ではその話はしない方がいいよねという雰囲気になり、あちらはあちらで韓国人かそうでないかの線引きがあるということを嘆いていました。
 なんで日本政府=わたしになるのかわからない。おかしいことはおかしいと批判的に見る目はあるし、ナニジンナニジンといことで遮断してほしくないと言っています。
 そんななかで、先日の非常戒厳が発布されたあとの、「民主主義を守るため」という一点で国会にかけつけた韓国の民衆の力に「泣けた」と言っていました。

 ナニジンナニジンと分断する目を、ともに暮らす社会をよい方向へ導く一員として見る目に変えて欲しい。
 「ひのきみ闘争」のなか、無理解に苦しめられた一方、エールを送ってくれた人や「知らなかった、もっと学びたい」と私たちの声に耳を傾けてくれた人の存在は、「私たち日本人」の陰に隠れて透明人間になって小さく生きることが解ではないことを教えてくれました。彼らにとってもそうであったと信じ、支え合う力を失わせずつながっていきたい、そうした物語をつむいでいきたいと切に願います。

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