脱落者からひとこと

過去5年間で小学生の不登校が3倍に増えたそうです。

あー、やっぱり。
そりゃ、そうだ、そうなるだろう。
そうならなくちゃおかしい。

毎朝、校門に立ち、「おはようございます」と声をかけながら、私は心の中で彼らに手を合わせていた。「今日もよく来てくれたね、ありがとう」と。

おそらく世間の人たちは知らない。
実態を知らない。
私がそうであったように。

たいがいの大人は自分の思い出のなかの「昔」の学校を、
子を持つ人なら保護者として関わる今の学校を「外側」から
知るのみだ。

しかし、「支援員は見た!」のである。
「今」の学校の実態を、外からではなく、内から、朝から夕方まで。
授業だけではなく、休み時間から給食、掃除に帰りの会まで。
教室を見下ろす目ではなく、教室の後ろから俯瞰した目で。

ぎょっとして、ま、ま、まじかよーと頭がくらくらし、
ついぞその環境に慣れることはなかった。
解決するための一歩や二歩、三歩、、、と努力してみたが、
いわゆる”発達障がい”児童の支援をする会計年度任用職員として
雇用された私の震えた声など、届きようがなかった。
対症療法にしか過ぎないが、とにかく言うことは言ったぞ、やることはやったからね、と言い訳めいたことを自身に呟き慰めるのが精一杯で、結局半年ごとの任期は三期目以降自ら延長を申し出ることはしなかった。
つまり、脱落したのである。

何がどうびっくり仰天したかと例をあげればきりがない。
日本に長く暮らす韓国の友人がいみじくも言った、
「日本に来て驚いたのは、韓国と違って軍隊はないのに、学校や会社、つまり社会全体が軍隊化していることです」
ということをあからさまに感じた一年だった。

私の勤めた学校がことさらひどかったとは思わない。
きっといまの平均的な学校のひとつなのだろう。
だから余計にぞっとした。

実態を知ってしまった後は、
いまの先生たちは大変よ、口うるさい親も多いし、なんでもかんでも学校のせいにするし、子どもたちは生意気になってきているし、多少の規則で縛らないとカオス状態になるし、たまには大声もはりあげたくなるわよ、
などという声には同調しなくなった。

制度の問題は深刻で、人事評価制度を学校に持ち込み(2000年に全国に先駆け東京都が、2016年にすべての自治体に義務付け)、教員同士の分断を招き、過重労働に孤立感が加味され全てを一人で背負いこんでしまう。これは学校を窮屈にさせる大きな要因だ。

ただし、そこにすぐさま、すっとばさないでくれる?
と被害者からの声を第一に届けたい。

教員のストレスのはけ口は自ずともっと弱いもの、児童生徒たちに向かう。まずはそうした可視化されない暴力にさらされている彼らをいの一番に守りたい。そりゃー、だめでしょ、だめだよね、いまのはNGだよ。個々のことから、学校が作り上げる全体主義を助長するようなルールや方法まで、おかしいことはおかしいと声をあげられない、おさえつけられている彼らのために。

過去5年間で3倍とは……。コロナ禍によってますます管理監視の風潮が学校内に生まれ、より低年齢の子どもたちに影響を及ぼしているのは間違いない。

脱落した私が何をかいわんやと思わぬではないけれど、
過酷な環境のなかでも踏ん張っている教員を(限りなく少数ではあるが)知っているし、大人以上に助け合ったり励まし合ったりする姿を見せてくれた子どもたちを知っているからこそ、胸がずきんと痛むのだ。

下校時に「さようなら」と校門で手を振り、今日の一日はどうだったかな? つらいことあった? 楽しいことあった? また明日も会えるといいなと背中に言葉を投げかけながら、私の方が力をもらっていた。

変わらねばならぬのは、いつも大人の側である。


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