コモ(叔母)としてのわたしの役割
年末年始の帰省で次兄宅に泊まり、小5と中3の姪っ子たちと密度の濃い時間を過ごした。
年に一度しか会えない(それが叶わない年もあった)彼女たちとのこれまでの交流のなかで一番長く、深く付き合えたように思う。
自分の小5、中3のときを思い返したりもした。父母の実家、親戚の住む関西で過ごす冬休みがわたしは好きだった。
いとこたちと遊び、朝鮮式の正月を迎えるために祖母と買い物に出かけ、母らと下準備をした。台所の床に新聞紙を敷き、足のついたまな板の上で細長に切った牛肉を奇数個(たいてい9つ)並べ竹串を一本刺し、包丁の背で叩きやわらかくした。そして、わたしの家にはなかったホームプレートでわらびと長ネギの千切りをまんなかに置き、周囲に溶き卵を流し円を描いた。お月様のようにきれいな丸い形を作るのは従妹が一番上手かった。男たちは誰ひとり手伝わなかった。紅白歌合戦を見たり見なかったりしながら、夜遅くまで大人も子どもも行く年を惜しんだ。ときに麻雀の「待った」ありなしや、たわいない会話のかけ違いから父と叔父が大ゲンカになったりもしたが、ひと晩あければ何ごともなかったかのように、屏風の前の膳に並べた供物や酒を先祖に捧げる儀式がはじまった。兄と弟は父親(わたしの祖父)を子どものときに亡くして以来、長年続けてきたそれぞれの役割をまっとうした。正月二日目は供物を持ち墓参りをした。墓前でも同じように三度の礼をした。
おせちやお雑煮はなかったが、味付けし串に刺してごま油で焼いた牛、豚、鶏の三種の肉や鯛の塩焼きに汁、ナムルやトックなどの朝鮮料理がわたしは好きだった。母方の親戚宅ではそこに春雨(チャプチェ)や油餅なども加わり、串の肉の部位や味が異なり、さらにおいしかった。
いまはそこまでのことはしないしできないが、今年は母が生きていたころのようにとはいかないまでも義姉のおかげで久しぶりに東京の実家で屏風を出し礼をすることができた。
そしてこんなことを思った。わたし自身のこどもの頃をふりかえり良き思い出として年末年始の風景を書いたが、そのときになかったもので今年あったものといえば、手前みそながらコモ(父方の妹をさす朝鮮語)と姪の親密な関係ではなかろうかと。
わたしにもコモはいた。父の7つ年下の妹でわたしはコム二と呼んでいた。父や母のことさえアボジ、オモニと呼んだことはないのに、祖母や叔父を含め、唯一彼女のことだけを朝鮮の言い方で呼んでいたのだ。きっと彼女自身が姪たちにそう呼んで欲しいと願い、伝えたのだろう。兄二人は日本式に名前の下に「おばちゃん」と付けて呼んでいたので、わたしもそうしていた時期もあったが、最終的には「コム二」に落ち着いた。コモは叔母、コモ二ム(これが変化してコム二になったのだろうと推測する)は叔母さまという意味であることは大人になって朝鮮語を勉強してから知った。すでにコム二は他界していた。きっと彼女にしたって特段「叔母さま」と敬ってほしかったわけではなく、日本語教育しか受けていないなか、親戚が話す言葉を耳で聴いて知った言い方だったのだろう。
同じく伝言ゲームのような例として、叔父の子である従妹たちは「お金持ち」という意味だと解して「コーイン(コイン)」と呼んでいたのだった。
ちなみに、現在20代後半になる甥に「コモ」と呼んでもらうこと、そして間もなく20歳になるムー(娘)に「オンマ」(朝鮮語で小さい子が呼ぶ「お母さん」の意味)と呼んでもらうことを試してみたがなじまなかったのに対し、姪たちは大きくなってから伝えたにも関わらず、わたしのことを「コモ」と呼んでくれている。
もとい。わたしが高2のときに他界した叔母のことをわたしは大好きだった。だが、今回わたしが姪たちと触れ合ったような、一緒に外を駆け回って遊んだり、時事問題について話してもらったりした記憶はない。
従妹が「コーイン」と呼んだような経済力をいまだかつて身に着けたことがないわたしは、姪っ子たちに叔母がわたしにしてくれたような新品の服を買ってあげたり、レストランに連れて行って「好きなもの食べ」と言ってあげたりしたことはない。そうしたものを望まれても期待に応えることができない。
けれどマメにハガキや手紙を出し、誕生日には手作りのものをプレゼントしてきた。今回、そうしたものを心から喜んでくれていたことを知り嬉しくなった。島で暮らしていたときにムーと一緒に拾った貝殻で作ったフォトフレームには家族写真が入れられていた。
そして、家の前の公園でバトミントンをしたときのことである。
サーブを打つ方が質問を出し、それに答えながらラリーを続けるというゲーム方式になった。好きな色や食べ物というものから、行ってみたい国3つというように答えを3つあげるものになったとき、「お父さんのいいところ3つ」「お母さんのいいところ3つ」のあとで、「コモのいいところ3つ」になった。どんなことを言ってくれるのだろうと耳をそばだてた。
下の姪が答えた。
「熱弁」。そうかー、そう見えたのかー。
次に、「早口」。え、それっていいところ?でいいの? 自覚があるだけに他人から指摘されるたび心の中で「わかっちゃいるけどなかなか直らないのよー、気を付けたいけど個性として受け取ってもらえませんか?」とつぶやくのが常なので、ちょいと嬉しく、やはり恥ずかしかった。
そして、さいごに、えーとねー、えーとねーと考えながら彼女が絞り出した言葉がこれだった。
「お父さんがしない話をしてくれるー」
わぉっ! そう思ってくれたの? それがいいところなの? うっとおしくなかったの?
理想を唱えながら、わたし自身がこれまで何をしてきたか、何をしているかと問われれば、なんとも心もとない。翻って社会的な影響力を与える立派な仕事を数多くしてきた、いま現在もしつづけている彼女らの父親(わたしの次兄)には頭が上がらない。
だけれどひとつ屋根の下に数日間過ごし気づいた。彼は多くを語らない。性格といってしまえばそれまでだが、たとえば新聞を黙々と読む姿は、読みながら怒りを口にしていた彼の父親(それは私の父親でもある)とは大違いである。
また自慢話を一切しないところも似ていない。
仕事柄守秘義務があるので芸人だった父のようになんでもかんでも話すわけにはいかないだろうが、判決も出て対外的にはすでに認知されていることも子どもたちに共有されていないことに驚いた。というか残念だった。それは「自慢」話ではなく、世の理不尽さに抗うヒーローの話であり、それを支える人々の話であり、子どもたちの社会を見る目を養うことにもつながるのだから、誰よりも本人の口から伝えて欲しかった。でもいたしかたない。本人が言わないのなら知っているわたしが言うしかない。
家に到着した晩、わたしたちといたいと一緒の部屋で寝ることになった下の姪に、「お父さんから聞いていると思うけど」と前置きしたらば全く聞いていない様子だったので、父親の弁護士としてのこれまでの活躍を社会的背景の説明を交えて熱く早口で語った。
あ、いや、実際は「語った」というより、「まくしたててしまった」という方が近い。11歳の子にもわかるようにゆっくり丁寧に、そして自分ばかり話すのではなくときに質問したりしながら心に響く言葉を届ける……ことをしたかった。が、出来なかった。それを思い出すだけで赤面する。
その場面だけでなく、滞在中にジェンダーや環境、教育問題や戦争にいたるまでときおり語っていた。1から10までいますべてをわからなくていい。わたし自身も山ほどのわからないことを抱えているのだから当然だ。それでも何らかのインパクトを与えられたら、コモであるわたしの役割は達成できたように思う。わたしというコモとしての役割というべきかもしれないが。
けちで口だけの説教くさい叔母さんと括られなくて良かった。
「熱弁・早口・お父さんのしない話をしてくれる」コモと過ごしたという記憶に飾られる冬休みであれ!と願うばかりだ。