母の声・その1「門限」
またしても新シリーズができてしまった。
その1では収まり切れぬだろうし、表現者として生きた父と異なり、母のことは私が発しなければ誰にも届かない。まあ、普通は、何かに秀でた人が語る母親だから注目されるのであってーどんな育て方をしたらそんな立派な人に成長するのだろうとか、この母にしてこの人ありとか、そういった類ー、世に自慢できる実績などない無名の私が何をかいわんやではあるのだけれど。
彼女について美辞麗句で書き連ねても、それこそ鼻持ちならないと一蹴されてしまうだろうから身内について書くことほど難しいことはない。真の人格者で、この母から生を受けたことで私の人生の7割の運は使い果たしてしまったと言ってもいいぐらいなのだけれど、一般的に想像されるような「良き」母親像がそこにあるわけではない。その証拠に、人として未成熟だったころの私は、母を人目に触れられたくなかった。「やさしくて美しい」お母さんではなかったからだ。
一家の大黒柱だった母は働き通しで学校行事には滅多に顔を出さなかったが、それでも万が一ということもある。私は当時通っていた日曜学校で習った「お祈り」を休み時間にした。
「どうぞ、お母さんが授業参観に来ませんように」と。
そして、チャイムがなってそっと後ろを振り返り、「来てくれてない、嘘つき……」と下唇をきゅっと噛みしめるクラスメイトをよそに、母の不在に胸をなでおろした。
めずらしく運動会に来た日には、翌日、ひとの母親のことを当時悪役レスラーで名をはせていた、しかも男のプロレスラーの名を出して、「そっくりだなー」と、クラス一の大男にからかわれ、恥ずかしい思いをした。学年の親子が総出で輪になりフォークダンスを踊る際、母に手をとられ、ぐいぐいひっぱりまわされていた彼のことを周囲に囃し立てられた腹いせで私をからかったに違いない。
成長するにつれ、いろいろな大人をみるなかで、仕事のできる知識の豊富な行動力のある人を遠くに近くに知るようになるが、母ほど信頼できる人はいなかった。それは単に血のつながりのある親だからではなく、他者に対しての態度が一貫して平等だったからである。地位や名誉にひれ伏さない。だから当然自分自身をことさら卑下することもない。外見でひとを見下すことは決してない。そのありようは天下一品だった。
母のことをひとことで言い表すなら、”イエスと聞こえるようなノーを言える人”。(映画『ゴッドファーザー』で交わされるセリフのように、マフィアのボスになれる器があったというわけか)
私は母から教育やしつけという名目で小言を言われたことがなかった。宿題は? テストどうだった? 通知簿出しなさい。という一連の勉強に関することは皆無だったし、思春期に服装や髪型で文句を言われることもなかった。アルバイトに関しても校則に禁止とあったか定かではないけれど、ことさら止められもせず、第一、いちいち親の了承を得てはじめることなど何もなかった。
前の世代は喰うや喰わずのなか「食べる」ことに精一杯で、子どもの教育などについて考えることができる親はほんの一握りだったが、高度経済成長期を経て、だれでもいっぱしの教育論を口にする時代に私は成長した。当時いわれていた「過保護」と「放任」。前述したように私の育った家庭は圧倒的に後者である。
ないものねだりは世の常ならむ。親に干渉されない毎日を楽だと思ってはいたものの、他の家にはあって自分の家にはないものを心のなかでどこか欲していたところがある。
それは、ずばり、「門限」。
もんげんという4文字の響きは、ハイソという3文字を身にまとっているように思えた。いまや死語と化してしまったであろうか、ハイソとはハイソサエティの略。
「私の家、門限が〇時なの」とか、「あー、門限に遅れるー、もう帰らなくっちゃ」とか、それだけで“お嬢さん”の風が舞った。そして、「門限何時?」と聞かれ、「ないよ」と答えたあとの同情に似た冷ややかな視線。えー、いいなー、門限気にしなくていいんだー、うらやましー。という言葉と裏腹に親に心配してもらえないかわいそうな子と見られた気がした。だからといって自ら「ねえ、門限作ってよ」と親にねだるという愚かしいことはしなかった。門のない家の子どもが何をほざいているともう一人の私が笑う。
あれは、高校、あ、いや、短大生のころだったろうか。あいかわらず門限などと呼ばれるものは存在しなかったが、父から言われたのか、自分で進んでそうしたのかうろ覚えだが、夜遅くの帰宅になりそうなときは外出先から電話を入れる習慣はあった。携帯電話のない時代、公衆電話はいたるところにあり、「ちょっと家に遅くなるって(電話を)かけてくる」とさりげなく席を立つことで3文字を身につけている装いが生まれる。まあ、それを狙ってそうしていたわけではないけれど。
あるとき、うっかりというか、面倒でというか、電話をかけずに午前様になり帰宅した。門限がないのだし、何かの禁を破ったという自覚はさらさらない。とはいえ、叱られることなど何もないと開き直っていたわけでもない。「何時だと思っているんだー」くらいのことは普段から口うるさい長兄からは言われるかもという覚悟はあった。
しかし実際は、想像外に発せられた母のひとことが重かった。
以降、誰に言われるのでもなく、自分のなかで門限を作るに至る。
雷が落ちたわけではなかった。母は安心した顔でこう言ったのである。
「よかったー。何かあったかと思って血圧上がっちゃったよ」
母は私が小学生の時にくも膜下出血で倒れ、手術で一命をとりとめている。ま、ま、まずい。こんなことで母がぶったおれたら洒落にならない。
どんな説教よりも身を正させたひとことだった。
母亡きあとの母の日がまたやってくる。