心が欲する珈琲・身体が欲する梅番茶
うんちくを語るほどの知識を持ち合わせてはいないし、おいしい入れ方の極意を会得しているわけでもない。また、中毒になるほど日に何杯も飲むこともない。だけれど、珈琲好きを標榜する私にとって、雑事に追われる合間の一杯はなにものにも代えがたい。
一方、こんなことも思う。
何の作品だったかは覚えていないが、むかし観たウッディ・アレンの映画で、ミア・ファロー演じる女性が精神科医に「いま世界で起こっているすべてのできごとは私が原因だと思うと眠れない」と悲壮な顔をしてつぶやくシーンがあった。若かった私は「大層なことを考える人だなー、そんなこと言ったら現代を生きていくなんて到底無理だ。抱え込みすぎるから病気になるんだよ」と思った。
数十年経ち、私自身がその彼女になった。
根っからの「いい加減」な性格は相変わらずだから年がら年中というわけではないし、自分に甘い言い訳もときに受け入れるが、ちっぽけな私が何をしたところで世界は変わらないだとか、偽善者ぶってとか、自分を痛めつける言葉は慎みながら、やはり世界は私で私は世界であるところからはじめたい。そう思うに至った。
生産者の労働環境、資本家の搾取、大手企業の環境破壊・人権侵害・さらには虐殺への加担。珈琲一杯を巡る背景を知ったからには消費者としての責任は負わねばと強く思う。ほっとひといき心穏やかな時間を与えてくれる一方、これほど頭を悩ませる飲物は他にない。
半月ほど前のこと。眼下に海を見下ろすバンガローに寝泊まりする幸運に恵まれ、自家焙煎の珈琲豆を手にした私は翌日早起きし至福の時間を味わうことを楽しみにしていた。が、その翌日は結局一週間先延ばしされることになる。なぜか。
心身が、とくに身体が黄金の一滴を欲しなくなってしまったからだ。実は予兆はあった。前日焙煎してもらったときよい香りが……まったく漂ってこなかった。
前回のnoteに綴ったように体調を崩してしまったのだ。夏風邪、熱中症、旅疲れ、そしてここ数か月の鬱々とした心身の疲労感がどっと押し寄せてきてのそれだったので、かなり堪えた。ちらりと視界に入る黒光りした深煎りの珈琲豆にはちっともそそられない。
食欲もなかったがとりあえずおかゆだけでもと口にしたものの、吐いてしまった。無理して食べるのはかえって身体に負担をかけるので食べられないなら食べないでよしと思ったけれど、水分はこまめにとらなければ。だが、この水分をとるのも一苦労だった。普段は飲まないポカリスエットも吸収力がよかろうと少しずつ飲んでみたが、これもあとでもどしてしまった。水もつらい。塩水もしかり。
救世主は「梅番茶」だった。午前中布団から一歩も出られず、ぐったりした身体を気力で起こしたとき、ドアをノックする音がした。心配した友が家で作った温かい梅番茶を水筒に入れ持ってきてくれた。
五臓六腑に染み渡るとはこのことか。身体が欲していた飲み物はまさしくそれだった。地元産のお茶と梅を使い、梅干しだけではなく番茶も友のお手製。これまで口にしたどの梅番茶よりもおいしかった。身体が生き返った。
私は思った。私にとって珈琲は必要不可欠な飲み物ではない。結局のところ嗜好品だ。嗜好品が悪いわけではない。至福のときを持たらし、友との語らいの場をより豊かにしてくれるのも事実だ。だが、アルコールを飲まずに酒盛りの場に付き合える私なのだからして、他者との付き合いに珈琲が必須なわけでもない。ひとりの時間《とき》もきっとそうだ。あれこれと一方の思いに心を痛めることなく、暴力構造に加担せずに済む。いまこそこれを教訓に珈琲断ちが出来る。かもしれない。
そう思わせてくれる最高の梅番茶だった。
その後少しずつ身体が回復し、嗅覚が戻り、目の前の絶景に気持ちがうっとりしてくると、あー、ごめんなさい、梅番茶さん。水筒はすぐに空になり、「また作って欲しい」と頼めば、友はすぐに用意してくれるだろうに、心は鎮座する珈琲豆にとらわれた。
ペーパー用に一杯分の豆を挽き、デッキチェアに腰を下ろし、ひとりの時間をしみじみとありがたく過ごす私であった。