おもしろいということの民族性 -あるハルモニ(おばあさん)の思い出-

 日本で韓流ブームが起こる以前、ソウルに語学留学のため3か月滞在したことがある。喜怒哀楽の表出が日本人のそれとはあまりに違うので面食らうことも多かったが、その血が私にも流れているからか、そうではなかったとしても、人間の野生を想起させるからか、彼らの立ち振る舞いにどんどん惹きこまれていった。
 なかでも持って生まれたと呼びたくなるような「笑い」のセンスは抜群で私のツボにはまった。とは言ってもジョークを連発するような、いかにもおもしろおかしい人たちが多いという意味ではない。日常の彼らの言動や行動そのものが怒りと表裏一帯の笑いを醸し出していて、そこが、俯瞰して見る私にとって「おもしろく」映るのだ。本人はくすりとも笑わず、いたってまじめ。もっと言うといつも眉間に皺を寄せている。という場合が多い。 

 嗅覚の発達している人というのはどこにでもいるもので、当時ソウルで会った日本人留学生から韓国ドラマのおもしろさやk-popの良さを聞かされた。しかし、のちにワールドワイドに席巻するようになるとは想像もしなかった。もとい、そうなるものは十分にあるのに何故に世界に広まらないのだろうとは思っていた。
 食に関してもそうだ。それまで焼肉文化ぐらいしか知らず、キムチも白菜・きゅうり・大根の三種しか食べたことがなかった私は、現地で韓国料理の奥深さを知り驚いた。世界三大料理と比較しても劣らぬのに、もっと注目されてもよかろうにと、クニの小ささを歯がゆく思ったものだ。

 料理の話を出したので脱線してしまったが、韓国ドラマや映画が現在世界中でヒットしている要因はさまざまあれど、断トツ、この「笑い」の視点が不可欠だと私は思う。
 そこに民族性があるとするならば、思い出す在日朝鮮人一世のハルモニ(おばあさん)がいる。

 認知症デイケアセンターで働いていたときに出会った90歳のハルモニ。眉間に皺どころではなく、年がら年中無愛想な表情を浮かべている。それでも職員の誰もが彼女のファンだった。
「あんだけ言いたい放題言うて憎めへん人もおらんでぇ」
 ハルモニは足が弱っているため歩きまわることは出来ないが、一段高くなっている場所の畳の上にどっかと座り、口だけは達者によく動いていた。観察魔であった。
 若年性アルツハイマーの50代の男性を指さし、「あんな若い男が昼間っからこんなとこで遊んで、嫁はん、の(ど)ないしてんねん」。はたまた、食事の介助が必要なおばあさんにお昼ごはんを私が食べさせていると、「この人、こふく(幸福)やんか。人に食べさせてもうて。あんた、この人とこ嫁行って幸せやろ。金もうけしてー」
 耳が遠いハルモニの声はひと一倍大きいので、悪口を言われている人に聞こえないようにするのがひと苦労だった。認知症だといっても「悪くいわれている」ことはやはりわかるものだから。

 日本の植民地支配下にあった朝鮮半島の慶尚南道から親戚を頼って14歳のときにひとりで日本へやってきたハルモニ。京都の織物工場に住み込みで働いて以来、働きづくめの人生で、6人の子どもを実質ひとりで育てあげた。並大抵の苦労ではなかったろう。皺の一本、一本につらい思いが隠されているように思えた。立派な家に住むようになっとはいえ、人生の晩年に認知症になり、毎日通う場所は日本人ばかり。字も読めなければ、そこで歌われるわらべ唄も知らない。汚い口をきくのは孤独だからに違いないと思った私は、下手な朝鮮語で一生懸命話しかけてみた。
 すると日本語で、「あんたなに言うてるかわからんわ」と見事に一蹴されてしまった。ああ喜劇。
 しかし私はめげなかった。言葉がだめなら心象風景に訴えてみるとしよう。海を渡る前の記憶を呼び覚ますことが出来るかもしれない。車いすにハルモニを乗せ、外に出る。京都の北部は市内とはいえまだまだ地元の人が耕す田畑が残っている。実りの秋、収穫の時期のことだ。
「ほら、あそこで稲刈りをしていますよ」
「そんなん関係ないわ」
 相変わらず機嫌が悪い。
「えー、関係ないって、いつも食べているものじゃないですか。ごはん好きでしょ?」
「ごはん好きやいうて……なんでこないとこ連れてきたー。はよチベカ(家へ帰れ)、イセキヤ(このあほんだら)!」
 怒られっぱなしである。
 そんな私だが褒められることもあった。
 “働かざるもの喰うべからず”の人生をまっとうしてきたハルモニの目に映る美徳とは、やはり“労働”そのものなのだ。デイケアの台所で私が洗い物やお茶の用意で忙しくしていると、わざわざ手招きをして、「えらいなー、しんと(ど)いやろ、こっちきてやすみー」と優しい言葉をかけてくれる。そんなときは近寄って冷たい手足をさすってあげながらしばし歓談のときを持つ。
「お子さん何人でしたっけ?」
「のくにん(6人)や。おんなが5人で、あー、もう女はいやや。さいこ(ご)におとこ生まれてよかったけんど」
「へー、6人も、すごいですねー。でも何で女はあかんのです? 私のおばあちゃん、私が生まれた時、『女の子は宝やでー』って母に言ってくれたそうですよ」
「あんたのおかさん、おんななんにん生んだ?」
「ん? 私だけ」
「そやろ、そややったらいいわ。ひとりた(だ)けやったら。おとこは?」
「うえに2人」
「ならもっとええ。女5人も生んでみー、アイゴー、かなわんわ」
 女は男を生んでなんぼとみる世代のハルモニが日本に来てさらに苦労を味わったことは想像に難くない。
 ある日私がチマチョゴリを着て韓国舞踊を披露したときのこと。いつもは心ここにあらずというふうに周囲の人とは交わらずに自己の世界に入っている、前述した50代の男性(身体の記憶にも登場)が奇声を発して反応し、踊り終わった私を追いかけてきたので驚いた。営業マンでばりばり働いてきたときに何度か訪れた店で韓国の伝統芸能を楽しめる場所があったのだとか。
 しかし、一番見てもらいたい、喜んでもらえるだろうと思っていたハルモニからは、またしても期待とは違う反応がかえってきた。チマチョゴリ姿の私を見て、「なんやー、おなじ人間やのに、そんな恰好してー」と機嫌をそこね、布団に寝入ってしまい、踊りそのものは見てもらえなかった。
 チョーセン、チョーセン、パカにすな。
 一世の共通の思いが読みとれ胸が痛かった。
 ところが、ところがだ。後日他の職員が「ほんまきれいな踊りやったのに寝てしもて見られんで残念でしたねー」と言うと、けろっとした顔でハルモニは言った。
「なんで起こしてくれへんねん。うち、知らんか(っ)たわ」
 一同大笑い。本人はいたってまじめ、周囲を笑わせようなんて微塵も思っちゃない。しかしこちらはこの笑いに救われる。生きるたくましさを感じるではないか。

 一度だけ、在日朝鮮人の老人だけが集まるデイケアセンターにハルモニを連れて行ったことがある。
 私たちのところのように職員主導で「一緒に歌いましょう」ではなく、マイクを握ってわれさきにと好きな歌を次々に歌っていくスタイルが進行していく。ある人はチャンゴ(太鼓)を叩き、ある人は踊り出す。また、「チョッタ―(いいぞ!)」「チャランダー(上手い!)」という合いの手のかけ声がとびかいなんとも賑やかだ。
 とびいり参加のその場でハルモニは楽しんでいるのかいないのか、相変わらずのむすっとした表情で胸の内は読み取れない。
 歌い終わった人がマイクをハルモニに向け、「ね(え)さん、ひとつお願いしますよ」というように催促した。ハルモニが歌ったところはそれまで見たことがないし、同居する家族からも聞いたことがない。
 一緒についていった同僚が「歌はあまり得意ではないかたなので……」と、その場がしらけないうちにと先手を打った。
 が、そこは日本人とは違い、「ああそうですか」と相手に押し付けるのは迷惑かもしれないとマイクをひっこめることはなく、周りもはやし立てて、そうだ、アリラン、アリランがいいわ姉さんと、さらに歌を促す声が大きくなっていく。
 困った顔で目配しあう同僚と私に、狐につままれた瞬間が訪れた。
 チャンゴのリズムに合わせて珍島アリランのうたがはじまると、マイクを手にしたハルモニが、そのなかの一節を朗々と歌い上げたのである。それもこぶしをきかせ、民謡歌手顔負けの上手さだった。
 力強いその声に圧倒され、やんややんやの大喝采が飛び交う。

 Bread and Roses-パンだけではなく薔薇を-

 その歌声を聴いて思った。ハルモニにとっては本来の意味ではなく、つまり、一緒に立ち上がって要求するための言葉ではなく(現実、ともに声をあげる人も、そんな考えもなかっただろう)、パンを得るために手放さないでいた薔薇がノレ(うた)だったのかもしれない、と。
 デイケアセンターをあとにするとき、「ねさん、また来てくた(だ)さいよ」と言われ、握られた手を見つめ頷いていたハルモニ。うっすら涙がこぼれ落ちたように見えたのは、事実(ノンフィクション)か、私の思い出の中の創作(フィクション)か。
 明日になれば、またいつものように、「なんのこと言うてるかー、歌なんかうたえへん!」と叱責されそうだが、たぶん私はくすっと笑ってしまうだろう。しかしその笑いは、それまでとは異なる、哀しみを帯びた笑いとなるだろうことを思いながら、私は運転席に座り、バックミラーに映るハルモニを見つめ、エンジンをかけた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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