【短編小説】はじめてのスポットライト⑤
その④からのつづき。
**********************************
この男は何者なのだ。30代後半らしきサラリーマン。クリスマスイブにひとりコンビニで弁当を買い、帰る先に誰かが待ってくれている気配もない。昨日と変わらぬ今日を迎え、明日も今日の延長が待っているはずだった。こんなことに巻き込まれなければ、人生の1ページがニュースになることなどなかったろう。なったところで、翌日にはまたどこかの木佐貫が書き込まれるだけだけれど。
徒歩18分の先には、巨大クリスマスツリーの下で今宵だけはランデブーなカップルがそこかしこに集まっているというのに。だからって彼らが百パーセントハッピーかというとそんなわきゃーないし、知ったこちゃーないとほざくだろうけど。
「俺の夢はなー」なんて自分の稼ぎもないくせに女に頼り切っている男に失くした自分の夢を重ねてバカなやつって、私の事情を知っているかのように人を鼻で、いや全身で大笑いしやがって。
よのあやの。ほら、こうして口を大きく開ければ、噛まずに言えるわよ。
ほんとにこの男は何者なのさ。
と、ひとに悪態つくほどに、ところであなたは何者なの? いかほどの大層な人格者なんざんしょと私のもとへ返ってきたブーメランを上手くキャッチすることができない。
木佐貫は赤の他人だ。袖触れ合うも他生の縁という諺にならってみれば、これほどの縁はないのだろうけど、この難局をもし乗り越えられたとしても、15個の駒を並べてみるような仲には決してならない。
洋平は、私にとっての洋平はどうだろう。替えのきく相手なのだろうか。もし、いまではなくても、もし洋平と別れたら、それでも昨日と変わらない今日が来て明日に続いて、人生はやはり続いていく。それはそうだけど、それでいいのかっていうこと、仕方ないのかっていうこと、それともそれは困るのかっていうこと、私はそうなったらいやなのかっていうこと。二人の関係が洋平のひと目ぼれから始まったから、私から別れを言い出さなければきっと続いていく、はず、だと勝手に思っているけど、果たしてそうだろうかっていうこと。
ニット帽が店長から何を言われたのかは知らない。大したことないじゃんってことかもしれない。でも木佐貫の笑いが私を傷つけたように、第三者には分かり得ぬことはこの世に山ほどある。
不可解な事件が起こり、犯人がつかまると、「きちんと挨拶をするまじめな人でした。まさかあんなことをするとは……信じられません」と異口同音に周囲の人が口にすることで明らかなように、人間の内面なんてデジタル機器の表示が教えてくれるようなデータで測れるものじゃない。
洋平に対しての、たったそれしきのことやそんなつもりじゃなかったという、これまでのあれこれが脳内に押し寄せてきた。女は惚れるより惚れられた方が幸せになれるって言う死んだ父の口癖が呪縛となって、洋平からのアプローチにいつまでも女王きどりでいた自分を、あー、私はいま初めて振り返ってみている。今日が人生ラストデーで、いまがラストモメントなら反省しても仕方ないのに。
洋平とのあの自然の間、あの瞬間を取り戻せるなら、100の言葉を伝えるより、100の信号を受け止めたい。彼の眼差し、ため息、青に近い黄色なのか、それとも赤に近いそれなのか。
洋平は私だけじゃなくて誰に対しても、店長や木佐貫のような態度は絶対に、絶対にしない人だと、あー、そうだ、そうなんだなー、他人をバカにしたような視線を向けることはない、そこが私は好きだったんだなー。
デブ、ブス、ボケ、という言葉を使わずに漫才の台本を書くことを課していた。アホ、に関しては愛しさを込めたときにしか使わなかった。マイノリティをこけにするような、人種差別や性差別、障がい者差別のネタを、差別はしていません、言葉狩りされたらお笑いなんて作れません、なんて権力には抗わないくせにそこだけは堂々と言い張るような他の芸人を真似るようなことは決してなかった。しゃべりがうまいわけでも、相方との間が絶妙なわけでもないから、書かれた台本ほどにはおもしろさは客に伝わらず、鳴かず飛ばずな状況から進めないでいるけれど、いつかブレイクするに違いない。だってこれほどまでに誰も傷つけずに笑わせることが出来る人って他にいないのだもの。笑った私が罪悪感を抱くこともなく、心が晴れ晴れする気持ちになる、世知辛い世の中だけど、完璧じゃないからこその人間の愛おしさを感じられる、そして、ちょっぴり「いまのままでいいのか?」と問われている気持ちになる、そんな笑いだから。見る目に自信がある私だから、この私の目にかなった笑いを作る人だから、そしてそんな私に一目ぼれするって言うそのセンスに一も二もなく太鼓判を押したいから。
うん? なんだ、なんだ。
木佐貫が目を覚ましたようだ。
ひとり脳内劇場を繰り広げている内に涙が溢れ、鼻水が垂れてきたものだから、頭を動かして肩先で拭こうと必死になり、気づいたら木佐貫の体ごと揺り動かしていた。
大きな欠伸声をあげた彼と一緒に現実の世界に舞い戻ってきた私は、「……にしても、遅いですよね」とぼそぼそと呟いた。
一向に好転しない状況を把握しきれず、私よりはいくぶん世間という所に馴染んでいるであろう木佐貫の、希望につながる返答を待つ。
「そうですね。もしかしてあれダミーかな?」
壊されていない防犯カメラを指して放った彼の言葉をにわかには信じられず、思わず、
「え?」と呆気にとられた声がささやきではなく、漏れる。
「防犯カメラって結構お金かかるから、見せかけだけにしてる所もあるって、何か、テレビでやってたような……」
「うそでしょー」
「まあ、こうなれば奇跡を祈るしかなさそうやねぇ」
どうして関西人ってこんなときでも他人事みたいな語尾で話すかなー、全然危機感伝わってこないよ。
うなだれた私の首の後ろがひきつって、頭の重みでずぼっと抜け落ちるのではないかと思われたそのとき、突然ひらめいた。現実世界がすい星のごとく目の前に蘇ってきたのだ。
「大丈夫、安心してください! 気が動転してすっかり忘れていたのですけど、彼氏が心配してすぐに迎えにくるはずです」
「あぁ、そういうことやったんかぁ」と今度は含みを持たせた言い方で母音を伸ばし、床のある一点を見つめていた。木佐貫の視点の先に目をやると、物色中で手にしていたコンドームの箱が所在なさげに鎮座していた。
まあいいや、いまがラストモメントなら恥も外聞もあったもんじゃなし、そうでなかったとしたら、それこそ洋平のネタにしてもらおう。ブレイクのきっかけになるかもしれない。内助の功ってこういうときにも使えるかもね。
それにしても事務室の様子が気になる。店員さん大丈夫だろうか、店長とは連絡がとれたのだろうか、ニット帽の興奮は少しは鎮まったか、銃の弾はどのくらい残っているのだろう、そもそもあれは本物の銃なのか、どこで手に入れたのだろう。
その⑥へ、つづく……