「これしかない」が遅く来た
何かを成し遂げた人の半生を聞くと、たいがい若い時、少なくとも20代までには、「これしかない」という道に出会っているようだ。
若い頃の私の周囲には、早くからその道を見つけた同世代もいたし、また、その道をこつこつ歩んで一目置かれる存在になっていた親世代もいた。隣にいるあの子が、ゆくゆくはあの人みたいになるのかどうかはわからない。目の前にいるあの人が若いころ、あの子みたいだったのかも知らない。
そしてそんな渦にいながら、当の私は、何かを成し遂げようとも、「これしかない」という道を探ろうとも、すでに見つけた人をうらやましがることも、名を成した人を崇めることもなかった。人と比べることをしなかったので、ある意味幸せだったと言える。
ではいったい私は何をしていたのか。思いつくまま、好奇心の赴くまま、足を運び、手を出しまくったのである。そのどれもが長短あれど長続きしなかった。なにものかになるために挑戦したわけではないので、そのときどきを楽しめればそれで良かった。ひとはそれを「飽きっぽい」性格だと見る。しかしそれは、私からすると、〇〇に「飽きた」のではなく、新たな△△に出会い、そちらに気が向いた結果だとしか思えなかった。
そのまま突っ走れたら、どんなに良かったろう。変えられない過去を悔いることもなく、いつでも「いま」を楽しみ、次から次へとやってくることへ「飽きず」に、上手くなろうが途中で放り投げようが、挑み続けることが出来たはず。
しかし、そうはいかなかった。人生の線路が逆行してしまった。
急に、なにものにかなりたくなり、それなりにその道で知られた存在になりたくなり、いやなにより、いわゆるそうした周囲からの承認欲求が強くなったわけではなく、「これしかない」と思える道を歩きたくなったのだ。
あした何が起きるかわからない現代社会で、“平均”寿命を生きられると仮定すること自体、笑ってしまうけれど、もしそうだとしても、残された時間は多くはない。ことだけは明らかであるのに。
こりゃ困った。
これが更年期というものか。中年クライシスと呼ばれるものか。老いの入り口で誰もが立ち止まる、人生への問いかけなのか。ホルモンのバランスがみょうちくりんになり、身体から発する心の揺れなのか。何かを成し遂げた人にも、「これしかない」道を一筋に積み上げてきた人にも起こるものなのだろうか。それとも、若いころ大多数の人が悩むことを悩まずに来てしまった私(のような人)への、居残り課題なのか。
いや、困らない。
私にはこの順番で来ることが宿命だと思えば、困りごとにも終わりは来る。そういえば、あのときと似ているかも。
高齢出産で生んだあと、「こどもはいくつになっても(生殖活動中は)産めるけど、育てるのは年いってからだと大変よー」という言葉を実感した。それは体力の面で。個人差はあれど、やはり20代の母親とは回復力が違う、何においても。ただし、精神面ではこの限りではないことも実感した。少しは「待つ」ことを覚えたり、「ま、いっか」と流せることが増えたり、それは30代半ばを越えていたことと関係しているのだろうと思った。
だとしたら、50代半ばにやってきた、「これしかない」道をどうあがいて行こうが、寄り道したって戻って来られるのだということを知ったいま、若い頃に悩まなかった悩み方で進んでいけるのだろうと思う。ほかない心境になった。
そう、そう思うほかないのだから、困った、なんていっている暇はない。