バクシーシ放浪記(序章)
序章
1994年の春、2年4ヶ月の旅から帰国した後、旅のエッセイを書かないかと、ある出版社から打診されたときは、トラベルライターとしての一歩をすでに約束されたように思い、内心はしゃいでいた。
それから、あろうことか、十数年、どころではなく、数十年が経過、世紀までまたいでしまっている。(沢木耕太郎の『深夜特急』どころではない)
2000年の夏、バリ島の村、ウブドの宿に籠り、まるまる2ヶ月を費やして一気に書き上げた原稿(20字×20字×900枚)を寝かせること20年余。
「失われた30年」と呼ばれる様変わりした日本の姿が、すぐあとにやってくるとは露ほども思われていなかった時代の話を、いま振り返ってみるのも、なんだかよさげ。ではありませんか?
わたしの物語も、だれかの物語に似ているかもしれない。
娘へ
平成から令和へ元号が変わっても何がどう変わったかなんて誰も説明できないように、20世紀から21世紀の節目に立ち会ったことさえ、何か劇的な変化を私たちに持たらせたとは思えない。
お母さんにとって、そうね、海外旅行に出なくなった一番の理由は、円安や各国の物価高という費用の面が影響していることはもちろん否めないけど、インターネットが蔓延する世界で、ひとつ、またひとつと世界の格言が消えて行くことを実感していったからかもしれないわね。
そう、確かにそう。インターネットの出現は、元号や西暦が変わる以上のインパクトを”旅人”に与えたように思う。
おばあちゃんとお母さんの世代差ほどではないと思っていたけれど、お母さんとあなたを分かつものも、もしかしたら、多少以上のものがあるかもしれない。
学業のさなかにいるあなたに、この物語はどう響くかしら。
「一期一会」という言葉がまだ実態を帯びていたときの、あなたがよく知る女性の、小さな冒険物語。
はじまりはよくある話
私の旅は当初3ヶ月の予定が2年4ヶ月になり、オーストラリアだけのつもりが17ヶ国を廻る世界一周旅行になってしまった。
ある映画の台詞に、”Love is easy to start, but hard to finish.”というのがあったけれど、旅にも同じことが言える。「もっと知りたい、もっと見てみたい」という欲求が強くなり、どこで終わりにするかの判断が難しい。そのうち、果たして終わりにしなければならないのか、という気持ちにもなってくる。やがて、非日常なはずの旅が日常となり、新鮮味を失い、惰性の日々をここではない何処かで過ごすだけのこととなり、安住の地を見つけ、そこで暮らすことになっても、帰国するにしても、エンドマークの付け方は十人十色だ。
比べて旅の始まりは退屈なほど似たりよったりである。
私の旅の始まりもよくある話だった。短大卒業後2年近く勤めた会社を辞め、アルバイトの掛け持ちをしながら、さあこれからどうしようと案じていたときのこと。
30年後のあなたたちの世代にとっては、何をのん気なと思うかもしれないわね。いまから思えばたまたまの運としかいいようがない、景気の良さに後押しされて、就職率100パーセントの「売り手市場」と言われていた時代だったから、世界の情勢やら自己能力など顧みず、「何とかなるさ」という気分だけで生きていたように思う。
同時期に辞めた元同僚が、ワーキングホリデービザを取り、観光ガイドをしていたオーストラリアから手紙をくれた。
ーまた就職するにしても学校に入り直すにしても、新しいことを始めたらなかなか長い休みは取れないよ。観光でもいいけれど、どうせならワーキングホリデービザを取って、働きながらいろいろ見てまわるのも良いのじゃない? それにはここオーストラリアはもってこいの場所だと思うよー
いま(2024年現在)は日本国籍のパスポートがあれば、29ヶ国のワーキングホリデービザが取れるらしいわね。また、すぐに労働ビザをとるのは難しいから、まずはワーキングホリデーを、というように最初から移住目的の人が多いということにも驚くわ。(もっとも、賃金が停滞し、非正規雇用が4割近くになる現在、海外に活路を見出すのは不思議ではないけれど)
昔は、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの3ヶ国だけだったし、そんな堅実派は少なくて、観光ビザじゃものたりない、かといって留学ビザとるほど語学力があるわけじゃないし学費もない、前の世代のように危ない橋を渡るようなこともしたくない、行き当たりばったりを楽しもうという軽いノリの人が多かった。それに、表立っては現在も同じだと思うけれど、当時は同一の職場では3ヶ月以上は働いてはいけないことになっていた。そこで得た賃金を旅行費用などに使って、現地の人たちとの交流を図るというのが、若者(25歳から30歳までを上限とした)に優遇されたそもそものワーキングホリデービザの意味だったから。
なんのことはない。私は元同僚の言葉に素直に従ったまでのこと。同じようにブラブラするのなら、日本より外国の方がおもしろそうだという程度の軽い気持ちだった。
ビザは13ヶ月の滞在許可が下りたけれど、そんなに長くいるつもりはなかった。オーストラリアに興味を持ったことなどそれまで一度もなかったし、3、4ヶ月の観光に少し毛が生えた旅行のつもりでいた。しかし、周囲はそれでは済まさない。
「何しに行くの? 留学? すごいねー、いったいいくら貯めたの? 3、4ヶ月なんて言って、本当は一年ぐらい帰って来ないつもりでしょ」
故郷に錦を飾る、という意味を初めて知った気がした。東京で生まれ育った私にとって無縁な言葉が、そうした周りからの思いもよらない期待や励ましの言葉によって身近に感じられたのだ。やはり、何かを得て帰って来なければならないのだろうか。出発の日が近づくにつれて気が重くなっていく。たった数ヶ月の滞在で人生の何がしかを知ることが出来るはずもなし。さりとて敢えて外国へ出ようとするのなら、その意味を問われても仕方がない。
すでに海外自由化されて久しい1990年代はじめではあったけれど、代理店が企画するパック旅行が主体で、『地球の歩き方』(これももはやあなたたちにはピンとこない書名かもしれないわね。最近リバイバルされたと聞いたけど)片手に自由旅行を謳歌する人たちは少数派だったわ。だから海外へ飛び出す人は羨望の的だったの。
悶々としている私に友人がこう言った。
「何を行く前から悩んでいるのだよ。悩むのなら、あっちへ行ってから悩め。『いくら貯めたの?』って聞かれたら、『ざっと3億円ぐらいかな』ってハッタリかませばいいんだよ。3ヶ月で単語の一つも覚えられなくて『私ってこんなにバカだったのね』って気付くだけでも収穫だよ」
彼にかかるといつもこんな調子だ。悩んでいるこちらがバカらしくなってくる。
そんな彼がまじめな顔をして言葉を続けた。
「よその国の人たちがどんなもの喰ってどんな生活しているのかを見てくるだけで十分だよ。世界中の人間が同じような顔して同じような考えだったら、戦争なんて起きないんだしさ。行きたくて行けない奴だっているんだぜ。贅沢言ってないで、楽しんで来いよ」
旅を現実逃避だという人がいる。そうとも言えるし、そうでもないとも思う。向き合うものが全て現実に起きていることだから、関わり方は人それぞれだろう。友人のその言葉に鼓舞されて、正面から向き合って来ようと肝に銘じた。
そして、ワーキングホリデービザとシドニーまでの片道航空券、3ヶ月分の滞在費を手に、1991年11月28日、私は成田を旅立ったのである。
つづきは、本になった暁に……。