第十一話
そんな事を思い出す内に、あの子が乗っているデンシャに追いついた。中はぎゅうぎゅう詰め、これが世に聞くスシヅメと言うやつか。こんなものを朝から体験していれば帰ってきた時の疲労困憊な様子も頷ける。今の世は世知辛いものじゃな。
スシヅメのデンシャを抜け出せば、今度は沢山の人が行き交うスクランブル交差点。魔法の靴は人混みを縫うようにすり抜けて奉公先へと駆けてゆく。奉公先は駅から歩いておよそ二十分、始業には十分過ぎるほど間に合った。やれやれ、これで一安心。とは行かぬのが今日の話。大きな建物の中、あの子は何処へ行っただろう。人に姿が見えぬからと言って中に入るのも魔法が効力を失った時が危険。歯痒いが、外から見守るしか出来んのう。幸い、この建物は大きなガラス窓が沢山ある。奉公中のあの子も探しやすかろう。下から順に窓を覗き込んでエマの姿を探した。
居た。下から数えて八段目の窓ガラスの中、額の汗を拭いながら同僚や先輩と思しき者らと親しげに話している。寝坊して慌てて出てきたとか、そういう話をしているのだろうか。だがそんな楽しげな雰囲気もあのはげちゃびんが部屋に入ってこれば一変、ばちんと雷が落ちたかの様。びりびりと緊迫した空気が漂って、苛立った様子のはげちゃびんがでかい声を上げる。朝の爽やかな空気が台無しだ。こやつはエマの上司、さらなる上はこやつを放置。こんな連中には嫌と言う程覚えがあるわえ。
午前中だけでエマがはげちゃびん上司に叱り飛ばされる事五回。他の連中は二回や三回程度、エマがぱわはらとやらの標的にされているのは確実。わしの弟子であった頃のエマが奉公先の主人に酷くいじめられておったのを見た時、あの時はどうしたんじゃったか。何分遠い昔の事、記憶はとうに薄れておる。あの悪徳商人はどう成敗したんじゃったか、とんと思い出せぬ。
だが今は今、ここはニホンなる国。今と昔では高圧な上司の対処法も違うだろう。この国ではわしの知識は時代遅れ、ならば今を生きる者に聞けば良い。それをするには家に帰らねばならぬのが不便じゃが。わしもスマホが欲しいのぅ。それがあればエマもわざわざパソコンへメールを飛ばさんでも良くなるだろうに。近いうちエマに検討してもらわねば。
奉公の者らが昼飯の休憩に繰り出すのに合わせて、わしも昼飯にするとしよう。魔法を解いて、コンビニなる商店で適当に見繕ったパンを頬張る。あんぱんなる物を初めて食うたがこれは美味い、甘い豆など故郷では想像もしなかった。合わせて買った牛乳との相性も良い、これが伝統的なハリコミスタイルと言うやつか。これだけ美味い物を食えば仕事に対して熱も入ろう。腹を満たして再びエマの居る階層を向かいのビルの屋上から見張る、同じ高さに屋上があるのは非常に助かるのう。魔法で浮き続けるというのもなかなかに大変なんじゃぞ。
日が暮れても続くエマの仕事。あのはげちゃびんはエマが帰る時間になるまでに両の手両の足の指では到底足らん程の叱責を与えた。苦言を呈する者は誰一人としておらず。これではエマも疲弊するはずじゃ。今夜もくたびれて帰ってくるじゃろう。温かい飯でエマを出迎えてやらねばならん。そうじゃ、今日の晩飯の献立を決めておらなんだ。今から帰って作らねばならん。昨日の野菜の煮込みにトマト缶をぶち込んで味を変えて、主菜は冷蔵庫に生の豚肉があったから白飯に合うような味付けをしてやれば喜ぶだろう。後は何かもう一品……。いや、これは帰って冷蔵庫の中身とにらめっこじゃ。
急いで帰らねば。あの子が帰ってくるまでに飯の用意をしておかねば。今夜も温かい飯を食わせてやらねば。防寒対策はそれなりにしてきたが、わしも体が冷えた。早う帰って、暖かい家であの子を出迎えてやらねば。
「鳥と共に飛ぶ風よ、綿毛が如く我が身を運べ。光が愛した叡智の名の下にその力を示せ」
冷たい夜の風を切って我が家へ。移り住んでまだ短いが、それでも安らげるあの子と住むあの家へ。今夜のあの子はどんな顔で帰ってくるだろう。笑顔で出迎えてやらねばならん。
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