「星は日の出に溶けて消える」第三話
「……ヌ。オリアーヌ」
誰かに体を揺さぶられる。今度は誰、今度は何。重い瞼を無理やり持ち上げた。
「……何?」
私の顔を覗き込む丸眼鏡。濃紺の空を写し取った瞳と星の繭から紡いだ糸を髪に持つ学友が私を揺り起こしたのか。部屋はまだ暗い、今何時だろう。サイドチェストの上の銀時計を見ればまだ午前二時前。日の出など遥か先、空の主役は彼女の髪の親達の時間。
「どうしたのステラ、こんな時間に」
「あのね。私、オリアーヌとやりたい事があるの」
「やりたい事?」
銀の懐中時計に触れる手が、どんどん冷たくなっていく。代わりに私の体温を吸い込んで徐々に温まっていく時計が、かちかちと銀の歯車を回す音を立てる。夢に思えるけれど、夢じゃない。目の前の学友に気付かれないよう、そっと太腿をつねってみる。痛い、紛れもなくこれは現実だ。
「朝を、迎えに行こう?」
「朝を? どうやって?」
「ここからずっと東に、東に飛んで行くの。太陽は東から登ってくるから、どこかの地点で必ず待ち合わせ出来るでしょう?」
そう言って悪戯っぽく笑う彼女の顔は遥か昔、あの学校に居た時に同じ提案をされた時と寸分違わず綺麗なもので。確か前の私達は十六歳だったはず。あの時の返事、一言一句違わず覚えている。
「面白そう。いいわね、乗った」
「そう言ってくれると思って、お弁当も作ってあるの。オリアーヌ、ブルーベリーのマフィンがお好きでしょう?」
「正解、だけどテストだったら減点ね。ステラの作ったブルーベリーのマフィンが大好き、だったら満点だわ」
ステラの作ったブルーベリーのマフィン、何時から口にしていないだろう。最後にご相伴に与ったのは何時だっけ。今はもう懐かしい記憶、あの時と全く同じ会話。違うのは、このステラが幻影であること、私が大人になってしまったこと。
「ほら、早く準備しましょう? 早くしないと先生達が起きる前に帰ってこれなくなっちゃう」
「あんたこそ、今夜は特に冷えるわよ。しっかり着込まないと箒の上で凍っちゃうかも」
「でもそうなったとしても貴女が助けてくれるでしょう?」
「ルームメイトのよしみでね」
「私、オリアーヌとルームメイトになれて本当に良かった」
くすくす笑いあって、遠出の準備をする。朝を迎えに行こうと誘われたあの時も、名残の雪が降る頃だったっけ。
旧友の幻影は大人になった私の部屋で準備を進めている。彼女には見えないように、そっと懐に銀の懐中時計を忍ばせた。
「忘れ物は無い?」
「お弁当に、ランタンに、うん完璧!」
「それじゃ、出発しましょっか」
今夜の出入口は部屋の窓。箒とお弁当のバスケット、ランタンを手に窓枠を踏み越える。学校の寮は大きな窓だったから二人同時に立てたけれど、私の家の窓は小さくて一人潜るのがやっと。明かり持ちの私が先に出て、ステラを待つ。
「わあ、綺麗」
「本当、綺麗な星空ね。ステラの髪の色そのまま。私もステラの金髪みたいな髪色に生まれたかったなぁ」
「オリアーヌの髪色も素敵よ。日の出の色をしているもの」
「赤毛の魔女は素晴らしい魔女って言うけれど、実際は人に紛れると気味悪がられるだけよ」
窓から出て最初に見上げたのは濃紺の空に輝く星達。私達はこの星空の下を飛んで朝を迎えに行こうとしているのだ。
跨った箒がふわりと上昇する。眠る街を見下ろすのは、起きている私達二人。月は無くとも星明かりが私達の行く先を照らしてくれる。行ってきます、静かな街に空から声をかけて箒の柄を東に向けた。
「何処で朝と待ち合わせ出来るかな」
「さあ。それは神のみぞ知るってやつじゃない?」
「行きましょ、オリアーヌ」
「ええ」
住み慣れた街が遠ざかっていく。目指すのは遥か東、朝と夜が入れ替わる場所。私達が学生だった頃とほとんど一緒、ステラの作ったお弁当とランタンだけ持って、二人で東へ飛んだ。箒に乗るなんて久しぶり、今の私に箒なんて必要無いもの。
魔女は不老長寿の生き物である。人と同じように赤ん坊の姿で生まれて、成長する。そして、ある一点でその体は成長を止めるのだ。魔女が持つ魔力を最大限発揮出来る年頃になれば体の成長は止まる。個体差があるために幼い魔女だったり老婆の魔女だったりがいるけれど、私は二十四の時に成長が止まった。これが魔女オリアーヌにとって最適な姿。今の私は箒なんか無くとも空を飛べる。学校の図書室にあった、学生の当時は使えなかった難しい魔法も、今なら扱える。私はこの姿で、魔女として最高の姿で永い永い時を生きていく事になるのだ。人の子の代が少なくとも二十を数える頃までは、生きていく事になるのだ。そう、生まれた人の子が親になって、その子が親になってを繰り返すのを、二十。人の子が数える年で言えば少なくともこれから四百の年を、私は生きていくのだ。人の子が生きるには、あまりにも永い永い時を。私の周りには魔女がほとんどだった。だから忘れていたの、人の命は百年も無いことを。その罰なのでしょうね、今私の隣を飛ぶ旧友の幻影は。
「オリアーヌ」
「なぁに?」
「寒くない?」
「そっちこそ。寒くなったら言いなさい、魔法の火で暖めてあげるから」
「うふふ、ありがとう」
芽吹きの前の空はとても寒い。だからこそ星が良く見える、ステラの髪と同じ色の星達が。本当に綺麗、私の日の出色の髪もこの色に染めてしまいたいくらい。
箒に乗ってどれくらい経っただろうか。突然私の体が空腹を訴え出した。そう言えばお夕飯も食べずにベッドに倒れ込んだのだった。昼食を摂って以来何も口にしていない。不老長寿とはいえお腹も空くはずだ。
「レディ、私の隣で箒に乗る可愛らしい素敵なレディ。星の夜空の旅を共にする貴女のお名前を聞いてもいいかしら」
これは私達の合図、二人だけのお茶会への誘い文句。ステラが大好きだった児童小説にあったお茶会のお誘いを元にしたもの。元々は寮の部屋で二人だけのお茶会をする時だけ冗談めかして言っていたのだけれど、いつの間にか誰かに悪戯する時や勉強を始める時にも言うようになっていたんだっけ。
「私はオリアーヌ、日の出の魔女オリアーヌ。私もお伺いしてよろしいかしら。共に箒に乗って夜空を旅する貴女のお名前を聞いても?」
「これは失礼。私はステラ、星の魔女ステラ。素敵なお名前のレディと共に箒の上のお茶会を始めたいのだけれど、貴女をお誘いしてもいいかしら」
「もちろん、喜んで」
ステラは人の顔色を伺う癖があった。魔女の集う学校にただ一人の人間、魔女達の生き方を真似る必要があったから。その癖は彼女が魔女に溶け込めば溶け込むほど、周りの魔女に対する気遣いとなっていった。腹を空かした様子を見せた者が居れば持っていたお菓子を分け与え、体調の悪そうな者に気付けば直ぐに医務室へと連れて行く。彼女はたちまちのうちに人気者となった。ステラの優しさは高慢ちきで傲慢な魔女の心に染み込んで、最初は彼女に意地悪をしていた連中も入学して三年経つ頃にはすっかり丸くなった。本当に不思議な人の子、今だって私がお腹を空かせているのに気がついて茶目っ気たっぷりに箒の上でのお茶会に誘ってきた。
箒で並走するステラからマフィンを受け取る。触れた手が温かい、これは幻影のはずなのに。受け取ったマフィンにも、その大きさに見合ったずっしりとした重みがあって。今日焼いたばかりの美味しそうなマフィン、これが幻影だとは到底思えない。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
ブルーベリーのジャムを混ぜ込んだステラお得意の焼き菓子、バターの香りとジャムの甘酸っぱさが癖になる不思議な逸品だった。何時だったかステラの作るこれが無性に食べたくなって、でもブルーベリーのジャムが無くて作れなくて。学校の中庭にあるブルーベリーが実を付ける頃だったからそれを二人でこっそり摘んでジャムにした事がある。美味しいジャムが出来た所で先生にブルーベリーを根こそぎ摘んだのがばれて二人で怒られたんだ。私一人で全部摘んだ事にして、ステラは何も悪くないって言い張った。最終的にはステラも共犯だって自首して、二人揃ってお説教。没収されちゃったジャムは一瓶だけくすねておいて、一緒にマフィンを作ったんだっけ。あの時のマフィンも美味しかったなぁ。
懐かしい気持ちを抱えながら、マフィンを一口。美味しい、ステラが作ったマフィンの味そのものだ。記憶にある通りのステラの味。悪魔が見せる幻影はどこまでも作り込まれている。この幻影の代償に私の魂をと望まれたなら差し出してもいいかもしれない。
「美味しい、美味しいわ。腕上げたんじゃない?」
「ちょっと、零してるわよ」
バスケットを提げたステラの箒が近付いて来て、ステラの指が私の口元に触れる。昼間に見た体温を失った彼女の肉体は作り物で私を驚かせる悪戯だったのでは無いか、そう思う程に今の彼女の温もりは本物で。悪魔が見せる幸せな幻影、このまま夜が続いて朝なんか来なければいいのに。このまま永遠の夜が続けばいいのに。愚かな願いは咀嚼したブルーベリーマフィンと共に飲み下した。
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