第十話
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。エマのスマホが朝を告げる。スマホとやらはほんに便利じゃのう。わしが起こさずとも、弟子に起こされずとも朝がわかるのだから。さて、わしも起きねば。今日もエマの為に飯を作らねばならん。
「うわっ!」
エマの悲鳴が聞こえる。何かあったのだろうか、一夜の眠りから覚めた瞼を持ち上げる。
「何じゃ、どうした」
「ね、寝坊した!」
「それはいかん、今何時じゃ」
「七時半!」
いつもなら飯を食い終わっている時間、いつもの調子で身支度を整えておっては確実に遅刻。鐘の音で時刻を知る故郷ならばいざ知らず、民草が皆時計を持っているこの国は時間にとても厳しい事を学んだ。あのはげちゃびん上司ならば遅刻も激しく叱責するだろう。急がねば。
二人揃って飛び起きて、エマは洗面台、わしは台所へ。パンさえ焼いてしまえばこちらのもの、こちらの作り話にありがちだが食パンを食べながら奉公に行くしかあるまい。
「エマ! 焼けたぞ!」
呼んでも支度にはまだかかりそうだ。飯の準備以外にわしが出来る事……。そうじゃ、わしにしか出来ぬ事がある。
「すみません! 行ってきます!」
ろくに化粧も施さず、鞄と一切れのパンを持って慌ただしく靴を履くエマを引き止める。
「急がないと!」
「まあ待て、わしに任せよ」
奉公の際に履いて行く踵の高い靴、こやつは時々エマをすっ転ばせてしまう。今日という日にそんなことをしでかされてはたまったもんではない。
「主の道を共に歩む者よ、風が如くその道を駆け抜けよ。光が愛した叡智の名の下に、その為の力を授けん……」
魔力を込めて唱える、今日ばかりはお前が頼りだと言い聞かせて。
「うわわっ! パンプスが急に軽くなったんですけど!」
「今お前の靴に魔法をかけた。こやつが風の如く奉公先まで送り届けてくれるだろう。行っておいで」
ぽん、と背中を軽く叩く。魔法のかかった靴はぴょいと一足飛び出して、エマのいつもの道を足取り軽く歩いていった。
「い、行ってきます!」
「行ってらっしゃい。今日も励んで来るがええ」
さて、慌ただしい朝が去ったらわしも用意をせねば。今日は出かける用事が出来てしまったからの。
「深き叡智を愛する光よ、我が影を溶かせ。光が愛した叡智の名の下に、我が姿を汝の懐に隠せ」
足元の影がじわりと滲んで溶けて、完全に消える。これで今のわしは透明人間、並の人間には姿が見えぬはずだ。残っていた洗い物は全て片付けた、身支度も済ませた。出かけよう、あの子を見守りに。
古びたドアの向こうは弱った陽光が照らし出す昼の世界。今は十一月、実りの秋を越えて凍てつく冬を待ちわびる時期らしい。日光もだいぶ弱くなってきたらしいが、それでも街の道端には当然ながら影が落ちる。その中に躍り出てもわしの影は薄衣程の薄さもない。
先に発った者を追いかけるならば魔法で空を行った方が早い、だがこのニホンなる国には魔法がない。生身の人間が空を飛んでいてはとんでもない騒ぎになってしまう。ならば姿を隠せば良いだけの事。
「鳥と共に飛ぶ風よ、綿毛が如く我が身を運べ。光が愛した叡智の名の下にその力を示せ」
ふわりと足がアスファルトから離れて、エマと二人暮しのボロアパートの屋根を超える。エマを追おう。まずはデンシャの駅に向かってひとっ飛び、その後はあの子の靴にかけた魔法の残滓を辿れば直ぐに追いつくはず。
秋と冬の間の冷たい空気の中を飛べば、今となっては懐かしい感覚が蘇ってくる。わしがまだ若かった頃、エマが少女と呼べる年であった頃の話。あの子に空を飛ぶ才能は無かったが、それでも空を飛んでみたいとせがまれた。可愛い我が子にやってみたいと言われたならば叶えてやらねば気がすまぬのは、どの親も一緒だろう。あの子の願いを叶えるべく、小脇に抱えて魔法を行使したのであったか。
我が弟子の為に魔法を使うのはこんなにも楽しいものであったか、我が子の危機を何とかせねばと使う魔法は、こんなにもどきどにしたものであったか。古い記憶の欠片を取り出しては一つ一つ磨き上げていく。
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