第九話
更に時は流れて、世間はすっかり冬と呼べる空気に包まれるようになった。冷たい冷たい風が吹く中勤めるのは辛かろう、夕飯も温かく食える煮込み料理が増えてきた。今日の夕飯はわしの故郷で食っておった野菜の煮込みと鶏もものミルクグラタン。たっぷりのざく切り野菜と角切りにしたベーコンをじっくり煮込んで、味付けは塩だけ。この国のベーコンはほんに美味い。固くも無く獣臭くも無い、煮込めばとても良い出汁が出て無粋な味付けなど要らぬ。塩をほんのひとつまみほどで良い。この味はエマも気に入ったようだし、今夜も喜んでくれると良いの。
そう考えながら飯を用意していると、ノートパソコンにエマからのメールが届いていた。今夜も残業で遅くなる故に先に飯を食っていて欲しい、とのこと。エマの奴も大変じゃなあ。こんな日は少し酒も飲むだろうからいつもの缶チューハイを冷やしておいてやらねば。何時の世も人は酒を好む、わしの故郷もそうであった。特にこのチューハイのような甘い酒は誰もが好むだろう、現にこの酒はわしも美味いと感じたのだから。
時計の短針が十を半分ほど過ぎた頃に、この家の家主がやっと帰ってきた。可哀想に、その表情はすっかりくたびれきっておる。
「……ただいま帰りました……」
「おかえり、お疲れ様じゃの。先に風呂に入っておいで、熱々の飯を食えるようにしておくから」
「はい……すみません……」
エマの風呂上がりに合わせてグラタンを焼き上げる。うむ、いい香りだ。野菜の煮込みも温め直して、盛り付ける。たっぷりの野菜と豆は明日への活力、しっかり食って元気になってもらわねばならん。
「あれ。先に食べててって言ったのに」
「実は昼飯を食うのが遅くなってな、腹が空かなんだからお前を待っておったんじゃ。一人で食う晩飯は好かんでなぁ」
すっかり遅くなったが、今日も二人揃っての夕飯をいただくとしよう。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
まずは野菜の煮込みを一口。一口分を口にした所でエマの瞳からほろりと涙がこぼれ落ちた。やはり限界であったか。奉公の時間に何かあったのであろう、帰ってきたエマの体にまとわりついていた黒いもやが朝見た時よりも一段とでかくなっておった。朝の時点で爆ぜるのももはや時間の問題だと思っておったが。
「……美味しい……。美味しいです……エレノアさん……」
「うちで一番大きな鍋にたっぷりと作っておるからの。好きなだけ食うがええ」
身も心も疲れた時こそ飯を食わねばならん。たらふく食って、明日も働く為の力を付けねばならん。
「お代わりください!」
「うむ、いい食いっぷりじゃな」
飯の途中、冷やしておいた酒の缶を出す。飯を食いながら酒を飲むのはあまり好きでは無いらしいが、慣れた手つきで蓋を開けては煽りおった。こちらのエマと暮らし始めてまだ一月くらいだが、仕事終わりの疲れ具合の見分けはつくようになってきた。今日の様子から見るに、余程疲れておるようだ。
「のう、エマ」
「何でしょう」
「お前の仕事の話を聞かせてくれんか? お前は奉公先でどんな仕事をしておるのか、興味があってな」
「とは言っても……私もまだまだ見習いですから上司の後ろにくっついて必要な資料を作ったりが多いですよ」
「ほう。それで、それで?」
酒の肴がてら、エマの奉公先の様子を聞き出す。仲の良い同僚や先輩の話、作った仕事の資料の話。おっちょこちょいな所のある子だが、そこを皆から可愛がられておるようだ。主に一人を除いて。上司の話になった途端言葉が少なくなる。この子の様子を見るに、上司はあのはげちゃびん。転んだエマを助け起こした時のあの禿頭は助けもせずエマを罵るばかりであったから、まあつまりはそう言う男なのだろう。あれの性根はどうしようも無い、わしが案ずるべきでは無い。わしが一番気にせねばならんのは当然ながらエマだ。
「ぬしは頑張り屋じゃのう。毎日毎日頑張ってえらい」
「ほんとですか。私、えらいんですか」
「ああ、この上なくえらいとも。今日だって頑張って帰ってきたのだからほら、もう少し飲まんか?」
「いただきます。……こんなに頑張ってるのに、頑張って働いてるのに、なんでこんな目に遭わないといけないんですか。私、もう嫌です。会社行きたくありません」
「そうかそうか。人間誰しも嫌な事の一つや二つはあろう。酒は良い薬じゃ、今日は酒に任せて心の内を全部明かすが良い」
エマの背中を撫でながら、酔った勢いの話を聞く。断片的で、推測によって補った部分はあるが、あの禿頭がエマに辛く当たるのだろう。テレビが言っておった言葉じゃが、ぱわはらと言うやつじゃろうか。独り立ちしたばかりの若い娘には辛かろう。何とかしてやらねば。
酔いつぶれて眠ってしまったエマを布団に寝かせる。皿は明日でも良いだろう。心身共に疲れて帰ってきた日くらいは傍にいてやりたい、寄り添っていてやりたい。おやすみ、エマ。明日のお前に沢山の幸福がありますように。目元に滲む雫を拭ったちり紙は瞬時にふやけて形を保てなくなった。
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