つつしみて

    序
 やぶき ひでお と申します。 奈良市在住の定年退職教員です。
 分野横断的に多種多様なことを記しました。何卒ご寛容を賜り、お読み戴ければ幸いに存じます。文意に即した順序は殆どありません。                                                          
 タイトルは最初の記事から援用しました。「つつしみて」が全記事に内在していることを望んでいます。
 福島第一原発の大事故について詳論できなかったことが心残りです。あの大津波に耐える建屋を造っておくことが可能であったとは申し上げておきたく存じます。
 
 目次
1. 「・・・つつしんで・・・」 2. 割り箸 3. ことば 4. 杞憂  5. 「人生は短く、一日は長い。」 6. 草花 7. 良寛さん 8. 空気 
9. 生きる指針   10. 他人の好意 11. どんな態度をとればいいのだろう 12. 素朴さ 13. 吉野林業の父・土倉庄三郎 14. 水のようであれたら・・・ 15. 執心・妄信 16. ブナと文字 17. 虚飾 18. 感激屋と批判家 19. 自然暦 20.    志村ふくみ と 石牟礼道子 21. 近代化ゆえの窮乏 22. 知里幸恵と『アイヌ神謡集』 23. 故・西岡常一語録 24. 藤沢周平『三屋清左衛門残日緑』(概要) 25. 島崎藤村 26. 鱈(たら) 27. 柊(ひいらぎ) 28. 森への畏れ 29. 藁草履 30. ド忘れ恐れるべからず 31. 雑木林 32. こんな詩があります。 33. 埋もれ木 34. 歌うことを禁じられた童謡「たきび」 35. 牡蠣 36. 風呂敷 37. 田毎の月 38. 他者 39. 『木を植えた人』 40. 落ち葉 41. 時雨かな  42. シューベルト 43. カザルス  44. 木枯らし一号 45. 菊 46. 焼く料理 47.   神さま 仏さま 48. 土 49. 自然    50. 感じの良さ 51. 秋の風 52.  湯豆腐 53. ミル『自由論』 54. 「虚飾と傲慢」、久しぶりにラ・ロシュフコー 55. 大根 56. 上手(じょうて)と下手(げて) 57. 限りない応援を捧げます。 58. 武という字 59. 大和の秋 60. 自由な考え方 61. 自己愛はこれ程まで強いのだろうか? 62. 或る山の歴史 63. 昨日は重陽の節句、別名:菊の節句 64. 初秋 65. 興味---記憶---老化 66. あかとんぼ 67. ふるさと 68. 福永武彦『玩草亭百花譜』 69. 或る編集後記(昭和20年『文藝春秋』 70. 死ひとつ 71. 詩人・尹東柱『空と風と星と詩』 72. 認知症予防の6カ条 73. フランク「ヴァイオリン・ソナタ」 74. 漂泊者もしくは命について 75. グリム兄弟 76. モーツアルト vs. ベートーヴェン 77. 金子みすゞ 78. 胸中にしまっておけばいいものを・・・ 79. 病むこと 80. 歩く 81.  ヒトの厚み 82. ベルリン・ヒロシマ通り 83. 読む度に恥ずかしくなる本 84. はたまたゲーテの言葉 85. 武という字 86. 憲法第九条の源 87. 若いって本当にいいなあ 88. 心の優しさ 89. 三宅一生さん、NYタイムズで被爆体験明かす、2009年7月14日(朝刊)  90. 『夜と霧』 91. 「長崎の鐘」 92.  パーマカルチャーという生き方①  93.  パーマカルチャーという生き方② 94.  パーマカルチャーという生き方③  95.   パーマカルチャーという生き方④    96. パーマカルチャーという生き方⑤  97.  パーマカルチャーという生き 方⑥ 98. 「女性が世界をリード」ノーベル平和賞の三氏が会見 99. 美 100.    民話の説得力 101.  大岡昇平『野火』(初版(1954年)(概要) 102.    死についての言葉拾遺   103.    育ちゆくもの   104.  生きる   105.   芭蕉の秋   106.  秋は風も   107.   0. 1パーセント 108.  木の「昼寝」 109.   憲法の「憲」 110.    井上靖『本覚坊遺文』(概要) 111.   メダカからクジラまで 112.  「驚き」   113.   寓話表現の不思議 114. 惨禍、もう二度と、2015年6月23日沖縄慰霊の日 115.  伐折羅像   116. 日本の植物絶滅速度は世界の2~3倍 117. 民意とは。民藝とは。118. Do little!   119.   「コペル君」 120.    松下竜一『豆腐屋の四季』(概要) 121. 『往生要集』中、死の看とり  122.    楓橋夜泊  張継(中唐) 123. 染付秋草文面取り壺と「朝鮮の土になった日本人」   124. 世阿弥「秘すれば花」 125. 原始、森の生活  126.   遠藤周作『海と毒薬』(初版1958年)(概要)  127. 吾、日に三省す(『論語』より)
128.   竹内浩三「骨のうたう」 129. 松阪市戦没兵士の手紙集『ふるさとの風や』 130. 『ふるさとの風や』より一通  131.   木偏の文字について
132. 説明責任について 133. 詩、かな? 134. 城山三郎『落日燃ゆ』(概要) 135. 思索もしくは理路 136. 死刑制度について考えさせられた    137. 初秋、朝、田舎道  138.    唱歌「ふるさと」は何故3拍子なのか?    139. 幸田 文『崩れ』(没後1991年出版) 140. ひさしぶりにシューベルト 141. 葛 142.   アムンゼン『南極点制服』 143. 尾崎一雄『虫のいろいろ』 144. 日本の智慧ある人を・・・ 145. 「人間環境宣言」
146. 思い出の記ーー鰹節 147. 思い出の記ーー初冬、夕闇 148. 鴨長明『方丈記』 149. 谷崎潤一郎『文章読本』 150. 「絆」という言葉への違和感 151. ヒトは遊ぶなり。 152. 南方熊楠(1867ー1941) 
153. 自然は飛躍せず。 154. しみじみと讃嘆 
155.   ガン患者とその家族① 156. ガン患者とその家族② 157. ガン患者とその家族③ 158. 最近、ガルシア・マルケス『百年の孤独』が・・・
159. 生命というもの  160. 心月両相照   161. 思慕の念 162. 生物時計 163. アラン『幸福論』より① 164. アラン『幸福論』より②
165. サッカー日本代表の森保一監督が本日12日、日本原水爆被害者団体協議会へのノーベル平和賞授与に関してコメント。166. 田中 正造 
167. 野焼き 168. 椎茸の効用 168. 蒟蒻 169. 杉の森 170. 松浦 武四郎 171. 時代錯誤だろうか。 172. 自然と自然法① 173. 自然と自然法② 174. 自然と自然法③ 175. 私が忘れていた事 176.   ブリ(鰤)
177. ショパンの葬儀で 178. 浅田 次郎『終わらざる夏』上中下(2010年~2013年) 179. 有機栽培の効用 180.水たまりなど気にすることもあるまいに・・・  181.「想定外」ということ 182.里山への憧憬 
183.山口 彊『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』(初版2009年)概要
184. 蛇ながすぎる。 185.寓話表現の不思議   186.北越雪譜(江戸後期) 187.学徒動員  188.出征の様子 189. 神坂次郎『今日われ生きてあり』(初版昭和60年) 190. 文化とか文明ではなく、呆然と・・・
191. 志賀 直哉『暗夜行路』 192. 植物の「鼻」と「耳」
193.    井伏鱒二『黒い雨』(1966年刊) 194. 東野 圭吾『天空の峰』(1995年刊) 195. 木枯らし一号  196. 不確実性を隠さない !
197. 歳はとりたくないもの  198. 菊 花(白居易(中唐))
終わりに代えて(逍遥もしくはペリパトス)


1.    「・・・つつしんで・・・」
   自分はいまこそ言はう     山村暮鳥
なんであんなにいそぐのだらう
どこまでゆかうとするのだらう
どこで此の道がつきるのだらう
此の生の一本みちがどこかでつきたら
人間はそこでどうなるのだらう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
谿間(たにま)をながれる泉のやうに
自分はいまこそ言はう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行かうと思ふと

(「一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで」というところが、いいですね。)

2. 割り箸
 いつだったか、安価なラーメンを食べたとき、純日本産の素材は水だけだと聞いたことがある。当然、割り箸も外材ものである。ところが、純日本産の割り箸についての新聞記事を読んだ。
 奈良県のほぼ中央に位置する吉野の山並みはスギやヒノキの美林が濃い。吉野のスギの割り箸は最高級品として他の追随を許さない。その起源は、南北朝の時代に後醍醐天皇に献上したのが始まりだそうだ。木目が詰んだスギ箸の美と芳香が喜ばれ、一般に普及したらしい。
 「スギの箸は吉野でしか作れません。目が細くて木目がきれい。香りもいい。吉野は、夏は昼間は暑いけど夜はぐっと冷える。冬はそりゃさぶいでぇ。だからいいスギが育つ」と箸職人は自慢する。
 普及品は機械化されているが、高級品は今も熟練の職人が手作りしている。特に、赤身のスギ箸は高級品。かつて、千利休は茶会を催す際に赤スギの端材を取り寄せ、客の数だけ箸を作ったといわれる。
 材料は、原木の中心部を柱などの建材に挽いた端材を使う。製材した端材を野外で約3ヵ月自然乾燥させる。風雨に晒すことでアク抜きにもなる。箸の厚みに柾目割りしてから1本ずつ小割りする。それの両面をカンナで削り、縁を削って1本1本仕上げていく。最後に、天日に1日から3日干す。天日で干した箸は木肌のつやがいい。
 新聞氏曰く「料理に添えられる割り箸を割る時の心の豊かさと平穏さ。たなごころに馴染む柔らかな感触と、ほのかににおいたつ木の香。清潔で美しい日本の文化が一膳の箸に凝縮している。」
 同感である。現在では贅沢かも知れないが。木を上手に使うことに越したことはない。たかが割り箸、されど割り箸、というところであろうか。

3. ことば
   ことば
ことばが生まれるとき
こころの中に道が通ります
行き先はあなたが決めます
小山を越えるか 小川を渡るか
その時に 見つけることば
あなたのこころで結晶したことばは
あなたの勇気になります

ことばはある日 突然やってきます
驚かないように 推敲する勇気
勇気をもたなければならないのは
あなた つまり ぼくなのです
あなたは ぼくが発見した人です
ことばを記すことで
あなたとぼくは 同体になります

4. 森林の力
 林野庁のホームページによると次の等式が成り立つそうだ。
   国内の森林≒443億リッポーメートル
 この等式は、国内の生活用水の3年分に相当する約443億リッポーメートルの水を保つ力が、国内の森林にある、という事を表す。こう言われても実感できないが、保水力が森林に備わっているとい事は周知のところである。
 森林に降った雨水は、スポンジのように柔らかい森林の地面に染み込み、地層によって濾過されて徐々に河川へ流れる。森林が保水に優れ、「緑のダム」と呼ばれるのも故ある事である。
 森林の木々は根から水を吸い上げ、葉から水蒸気として大気に戻す。森林が気温を下げているのはこの時の気化熱のおかげである。この他にも、土の中に張り巡らされた根が土砂崩れを防いだり、微生物から動物まで様々な生物を育んだり、また言うまでもないことだが、二酸化炭素の吸収に大きな役割を果たしている。
 森林の重要性をもっともっと認識する必要がある、と強調したことがあったが、都会の若い人は怪訝な顔をしていた。森林浴でも体験すれば、森林の恵に気が付いてくれるのだろうか。それにしても、大阪市内には森林が少ない。今夏もヒートアイランド現象に襲われるのであろう。

3. 杞憂
 杞は古代中国にあった国の名。杞憂とは、その国の人が天が落ちてきたらどうしようかしらと寝食を忘れる程心配したという故事に由来する言葉らしい。
 近頃私は、第三次世界大戦が起こりはしないかと、明確な理由もなしに心配している。もちろん杞憂に終わって欲しい。しかし、前世紀が戦争の世紀であったとの見方があるが、(事実、そうなのだが、)戦争の世紀が今世紀にも持ち越された事は、現在のところ確実なのではないか。それとともに、地球環境が悪化していることは確実である。愚かな事だと思う。愚かな事だとの思いが杞憂に終わる事を切望する。
 どんな心配も杞憂に終われば良いのだが、すべての心配が杞憂に終わるということはないだろう。

5. 「人生は短く、一日は長い。」
 私は十八世紀ドイツの思想を学んできました。何と言っても、ゲーテです。私はゲーテを専門に学んできたのではありませんが、若い頃から暇を見つけては、ゲーテを読んできました。ひとつ、学んだ事を披露します。
  「人生は短く、一日は長い。」(『西東詩集』より)
 これを反対にしてみる。人生は長く、一日は短い。こう言うと、多分若い人たちの感想となるだろう。しかし、所詮、どちらも主観的な感想だ。歳をとると、する事が無く一日を無為に過ごすから、一日を長く感じ、先が短いと思うから、人生の短さを嘆くのだろう。若者たちはその反対という訳だ。
 どちらにせよ、主観的な感想だから、若者たちのように、好奇心のおもむくままに仕事なり、趣味を精一杯味わい一日を短く感じ、前途など予測できないのだから、前途の予測などという無駄な事は考えないで、人生を長いものと考え、一刻一刻を楽しもうではないか。
 ゲーテは、短い詩句でこのような事を言いたかったのだと思う。さて、一日一日を楽しむ事ができるであろうか。歳をとると、楽しむ事さえも苦行である場合がある。しかし、ゲーテの詩句の意味するところを脳裡においておけば、坂道をゆっくり下る事ができるかもしれない。

6.   草花
 道端の草が一斉に萌え、花を咲かせている。律儀に去年と同じところにナズナが咲き、ハコベが咲いている。
 山の花、野の花の多くは、人の目にふれることなく咲き、そして散る。「それもよからう草が咲いている」という山頭火の、定型を破った句がある。名誉利己を望まず、雑草のように野辺に散る、それもよかろう、と自分に言い聞かせているようだ。
 山頭火の句をもう二つ。

  雑草よこだわりなく私もいきている
  生きられるだけは生きよう草萌ゆる

 山頭火のように、生涯、漂白の旅を続けることは出来ないが、気持ちは彼の様でありたいと思う。

7.   良寛さん
 ボーとしておりました。例によって、そこいらにある本を斜め読みしておりました。中に、良寛さんについて記したところに目が行きました。良寛さんは子供の頃から名主の昼行灯と言われ、阿呆のように見られていたそうです。その阿呆の意味が良寛さんの場合、世間の人々が謂う意味とは違うらしい。世間では、世間に通用しない者を阿呆と謂い、通用する者を利口と謂う。良寛さんにとっては世間から阿呆呼ばわりされることを寧ろ是認する気こそあれ、利口者などと言われると有り難くなかったそうです。詩がひとつ引用してありました。
  余が郷に兄弟あり
  兄弟心各々殊なり
  一人は弁にして聰
  一人は訥にして且つ愚なり
  我れ其の愚なるものを見るに
  生涯余り有るが如し
  復其の聰なるものを見るに
  到るところ亡命して趨る

 この詩を読んでも、愚なるもの、阿呆には悠々たる余裕があると良寛さんは言っています。利口なるものについては推して測ることができます。良寛さんの謂う意味で、阿呆はめったに居るものではないと思いつつ、私のあさはかさを知らされました。

8.   空気
 毎月送られてくる、或る老人ホームからの便りに、空気について分かりやすい説明が載っていたので、引用させて頂く。
 「私たちは、酸素がなくては生きていけません。そのため、寝ているときでも休みなく酸素を取り入れています。その酸素を含んでいるものが空気です。
 空気のような存在というたとえのように、私たちは普段、空気のことをあまり意識しません。でも、体調が優れないときや、汚れた空気の場所にいるとき、何か息苦しい感じがする経験はあります。それは、私たちの体がよどんだ空気を敏感にとらえて、きれいな空気をほしがっているためです。
 ナイチンゲールは、公害や犯罪、病気が多発する産業革命の時代に生き、環境と健康の関係を強調しました。そして、呼吸する空気の条件を整えることが看護婦の役目だと述べています。時代は越えても、新鮮な空気の必要性は変わりません。
 まだストーブの入っているこの時期は、窓を開ける機会も少ないですが、時々空気を入れ換えましょう。また、木の香りのするものや、空気をきれいにするという観葉植物などを置いて、森林浴効果を試してみてもいいですね。」

 生きていく上で空気の必要性を私自身が重く感じたことはない。ただ、私の兄は片肺がなく、65歳で亡くなったが、晩年酸素ボンベを側に置いていた状況を思い出すと、空気の存在を重く感じていたことであろうと追憶する。日常生活において現実に息苦しいという体験は、いかほどに苦しい思いをするのであろうか。便りを読んで、思わず兄のことを思い出した。

9.   生きる指針
 作家(代表作『阿弥陀堂だより』)で内科医の南木佳士(なぎけいし)がパニック障害(私はこの障害がどんな障害なのか、詳しい事を知らない)を発病し、十年間死ななかった理由を3つ挙げている。
 (1)医者としてのプライドを捨て去り、患者になりきり、主治医の指示通りに薬を飲んだこと。
 (2)病んでいる間にも時は過ぎ行くのだから、元の状態に戻ることが治癒だと考えるなら、それはあり得ないと諦めたこと。
 (3)未来は己の意志で切り開けるものなのではなく、降って湧く出来事におろおろしながら対処していく、そのみっともない生き様こそが私の人生なのだと恥じ入りつつ開き直ること。

 この3つを適切に言い換えれば、生きる指針になるかもしれない。しかし、生きる為の「主治医」は自分自身である他は無く、矢張り自分が自分自身を世話しなければならないのだと思う。ただ、その場合、(2)と(3)は充分に指針となるのだろうと思う。とりわけ若い人が自分自身に自信を無くした時は。そういう時は幾ら前向きになろうとしても、上手くいかないものなのだ。「恥じ入りつつ開き直る」ことがあってもいいではないか。

10.   他人の好意
 我々が、他人の好意を
 心から喜ぶ時、
 我々は、心底、生き生きとするのだ。 (ゲーテ『箴言と省察』より)

 幼児は、いつでも、他人の好意をそのまま素直に受け止める。だから、幼児の表情はいつも美しい。
 ところが、歳をとるに従い、相手の下心を知らされたり、裏切りを経験したりなど、人生の悲しむべき学習をした結果、人は素直さを失い、他人の好意を率直に喜べなくなることがある。
 夾雑物を取り除いて生き生きと人生を送るか、疑いの心をもって暗い余生を送るか、私次第なのだ。

11.   どんな態度をとればいいのだろう。
(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙しおおせることはない。」

 私は時々、むきになって直言することがある。人様から見れば傲慢なヤツだと思われていることだろう。直言した後、もう少し謙虚な物言いが出来なかったものかと忸怩たる思いをする。しかしながら、上の箴言によれば、傲慢が謙虚を装うと騙しになる。それでは、言うべきことがあるとき、どんな態度や言葉遣いで話せばいいのだろうか?
 箴言というものは、物事の一理を鋭く説く言葉である。そこには時代を超えた真実が表現されている場合も多い。気がついた箴言を傾聴していると、身動きがとりにくくなる。
 高ぶってもへりくだっても傲慢の偽装となる。それでは、どうせよ、というのだろうか。謙虚と傲慢という言葉を僕の辞書から無くせばいいのだ。だが、そんなことが出来るはずもない。困ったことだ。

12.  素朴さ
 素朴さとは一体どういう心意気なのだろう。
 都会人より山里や海辺に住む人の方が素朴に生活されているだろうと推測される。この文脈での素朴さの意味には自然の摂理に逆らわないという側面があるのであろう。
 もう少し一般的に素朴さの意味を探索してみたい。素朴さの積極的な意味は、心を開いてありのままの自分を見せることだと思う。率直さと言い換えてもいい。この意味での素朴さとは、自己を偽ることへの嫌悪、自分の欠点を正直に打ち明けることなど、自他の関係において隠し所の余地がないことだと思う。
 このような意味での素朴さを私は持ち合わせていない。隠し所を大いに持っている。この歳で我ながらあきれはてたことだと思う。
 素朴さの消極的な意味、それは自然の摂理に逆らわないということであろう。消極的な、と言ったが、この形容詞は当てはまらないとも思う。自他の関係にも自然の摂理というものがあって、その自然の摂理に沿うことが素朴さなのであろう。生身の人間だから、他人に対する好き嫌いの感情を抱くのは自然なことであろう。その好き嫌いの感情を良い悪いの判断に転化してしまうところに、素朴さと対極をなすと考えられるエゴイズムが顔を見せる。
 そうすると、エゴイズムからの自己浄化された状態が素朴さということになるのであろうか。素朴さの意味をまだまだ探索しなければならないが、探索すればするほど、私には縁遠いもののようにも思われる。不惑には到底なれない気がする。 

13.  吉野林業の父・土倉庄三郎
掲示板に土倉庄三郎という人物の名前が登場した。全く知らない人物なので、ネットで検索した。
  http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-rin/j-rin.htm
 このページは奈良県川上村の林業に関するホームページです。それによると、次のように書かれています。

 吉野林業の中興の祖と呼ばれる土倉庄三郎は、天保十一年(1840)年に川上村大滝の山林地主の家に生まれました。16歳で家督を継いだ彼は、林業の発展に力を入れ、後に苗木の密植とていねいな育成で優れた多くの材木を生産できるように工夫した「土倉式造林法」という独自の造林法を生み出しました。そして地元の吉野だけではなく全国各地(群馬県伊香保・奈良公園・兵庫県但馬地方・滋賀県西浅井町・台湾など)にその技術を広め、各地で成果をあげていきました。また借地林業や村外地主の森林所有者による経営、これに伴う山守制度(管理制度)などの基礎を築くなど、吉野林業の父といっても過言ではありません。
 土倉庄三郎は、事業のかたわら、道路の整備や吉野川の改修などの推進や日本赤十字への寄付など社会貢献にも努めました。また、私費によって奈良県初の小学校を川上村に開校したり、同志社大学や日本女子大学の創立にも一役かっています。板垣退助の洋行を援助するなど自由民権運動にも力を注ぐなど、林業以外の分野でも多大な功績を残しています。
 土倉庄三郎は、吉野大滝村で生涯を過ごし、1917年7月に78才で多くの人々に惜しまれながら死去しました。1921年10月には生前の功績を記念して、川上村大滝の鎧掛岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立されています。
 川上村の山の緑がいきいきと輝くのは、今も土倉庄三郎の熱い魂が村に息づいているからでしょう。そして、木を愛し、木と生きた偉人伝は語り継がれ、その魂は山を、そして自然を愛する川上村の人たちに受け継がれています。

14.   水のようであれたら・・・ 
水は常に自分の進路を求めて止まない。
水は自ら活動して他を動かす。
洋々として大海を満たし、蒸発して雲と変じ雨ともなり、凍っては氷雪と化す。
しかもその正体を失わないのが水。

若いうちは水のようでありたいと思ったこともあった。若い人は水のようであってほしい。融通無碍であってほしい。(なお、水を比喩とした上の教訓は王陽明のものと伝えられている。)

15.   執心・妄信
 時々、日本の名文を読み返すことがある。その一つ、鴨長明『方丈記』の末尾から引く。
 「・・・一期月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。・・・しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。・・・もしこれ、貧賤の報のみずから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。」
 高貴の身を捨て、世俗を去り、山中に六畳ぐらいの草庵で暮らせば、現世でのしこりを忘れ、木々のざわめき、小鳥の声、虫たちの戯れなど、時には読書など、誰からも干渉されることなく、気ままに生を楽しみ営むことができる。しかし長明は心静かに安楽としておれなかった。「執心なかれ」と思っても、妄心に至る。仏の教えを求むるも、達っせざる自らの「心は濁りに染め」る。これが、我が心が「よどみに浮かぶうたかた」であるという事実なのかもしれない。
 事実なのかもしれない。事実なのだ。

16.  ブナと文字
 家に居る間はPCでいろいろしている以外は手当たりしだいに本を斜め読みしている。木に関する本が多い。
 昔々、ドイツ人やイギリス人の祖先ゲルマン民族やフランス人の先住民族ケルト人は文字を知らなかった。紀元直後の頃、アルプスの南から文字の存在を知ったらしく、24個のルーネ文字を作った。鋭い刃物の先で呪文のような記号文字を、滑らかなブナの樹皮や板に引っ掻くようにして記した。だが、ルーネ文字は不便なのでまもなくラテン文字に変わった。
 ところが、「書く」という言葉は残った。鋭い刃物などで「引っ掻く」ことをラテン語でスクリーベレというが、これをそのまま借用したのがドイツ語のシュラィベン(書く)、英語のスクライブ(掻く、書く)、スクリプチャー(文章、聖書)である。エジプト産のパピルス紙やギリシャ産の羊皮紙も持たない貧しいゲルマン民族は、もっぱら滑らかなブナの樹皮や板にルーネやラテン文字を引っ掻いて書いた。そこで、ドイツ語では「文字・字母」のことを今でも「ブナの枝」(ブーフシュターべ)という。「本・書物」を表す英語のbook、ドイツ語のBuchは、「ブナの木」Bucheの語そのままだとも言える。
 北ヨーロッパの文字文化は、ブナの木とともに始まった。ドイツ人にとっては大切な木なのだ。
 
 こういう話を読むと、何故か嬉しくなる。僕らの文化というか生活が木ときってもきり離せないということが、とにかく嬉しい。何故かというと、私は木の味方だからである。

17.  虚飾
ゲーテ『箴言と省察』より
 「虚飾を捨てさえするならば、人間はなんとすばらしい生物であることか。」

つまり、人間の諸悪の源は虚飾にある、ということなのだろうか。もっともなことであるとは思う。
だが、反面、人間を人間らしくしているのも、虚飾と言えよう。場合によっては、この虚飾が、人間の生き甲斐になっている事も大いにあるだろう。
虚飾がなければ、文化も貧弱なものになっていたかも知れない。
虚飾を捨て切れない人間!人間とは哀しくも、面白い存在である。
だが、過ぎたる虚飾は人間とその文化をつまらなくしてしまう。これも事実であろう。

18.     感激屋と批判家
  熱狂的な感激屋と
  冷たい批判家とは、
  実のところ、同じだということに、
  本人たちは気づいていない。
     (ゲーテ『箴言と省察』より)

 熱狂的な感激屋は、あばたもえくぼに見えるから、こういう人の価値判断は当てにならない。
 冷たい批判家は、えくぼもあばたに見えるから、こういう人の評価も当てにならない。
 東洋では中庸、ドイツでは黄金の中道(die goldene Mitte)というらしいが、これこそ価値を見つける確かな道なのだろう。もっとも、その道を見つけるのは、至難の業なんだが。
 私はといえば、時には感激屋、時には批判家、どっちつかずでこれまで生きてきた。私の言うことはすべて当てにならないということになりかねない。ただ、熱狂的な、冷たいという形容詞は付かないと自負している。

19.   自然暦
 『自然暦』の編著者川口孫治郎氏によると、「自然を目標にとった自然暦、それが往々却って太陰暦、太陽暦よりも確かなところがある」。どんなに高度な科学技術でも、自然の複雑さには太刀打ちできないし、それだけに、永年にわたって培ってきた単純な経験的推測の方が自然を的確に捉えるということなのかも知れない。
 同書には次のような記述がある。「自然観察が、言い伝えとなり、諺となって固定したのが自然暦である。猪苗代湖南の村々では、湖をへだてた北の磐梯山に残る雪形を見て耕作の時期を知り、寺の境内の大きな桜の木を種まき桜と言って、その桜の花の咲く時を播種の基準として生活してきた。日本アルプスをはじめ各地にある白馬岳、駒形山のような名のついた山も、その山に残った春雪の形で農耕の時を知ったことから、ついた名である。」
 自然暦は農耕に関連する。農業にとって、農作業の適期を知ることが何よりの関心事であったに違いない。適期をはずせば、農作物の命取りにもないかねない。農作業の適期は、その年の気象条件が決めるのであって、カレンダーが決めるものではないから、自然暦の方が合理的だという説には肯けるところがある。
 同書には様々な諺やその類が載っていて、夫々に面白い。自然の摂理に根ざした知恵というものは、場合によれば、科学的を称する知識よりも有益であろう。逆に言えば、有益でなければ自然の摂理に根ざした知恵とは言えないということであろう。ただし、こんな薀蓄はどうでもよく、農業の現状が先細りになっていくのではないか、その事が気にかかる。

 自然暦は農作業の目安となる諺などを集めただけではなく、食べ物に関する諺などにも事欠かない。特に「寒」についてのものが面白い。
 例えば、羽前北小国村(現・山形県小国町)の「ヤマドリは寒明けに脂が不足する、タヌキは寒中に脂で太る」などは、土地の人の永い経験に裏付けられた知恵として面白い。その他、食べ物の上に「寒」をつければ、それで立派な自然暦の役目を果たすらしい。「寒雀」(飛騨高山)、「寒ウツボ」(紀伊田辺町)などと同様に、フナ、カレイ、ブリなどの上に「寒」がつけば、美味ということになる。
 食べ物の話は、特に雪国の寒中の冬籠りに欠くことのできないものであるが、自然の生き物たちは、この時期最も厳しい試練にあっている。生き物たちは、春を迎えるまでの長い期間苦闘の連続であろう。タヌキが寒中に太るとか、イノシシが太るなどと人間はうそぶいているが、タヌキやイノシシは生き延びるための必死の対策をとっているのであろう。
 僕らは自然の摂理をもっとよく知るべきだと思う。が、その知り方をまず教えてもらわなければならない。自然の摂理を知らない人間が多くなり、自然を荒らすものだから、タヌキやイノシシが里に来て悪さをする。お互いのテリトリーを守るのも自然の摂理の一つだろう。

20.   志村ふくみ と 石牟礼道子
 敬慕している染織家(人間国宝)志村ふくみ(1924~)からまたも教わった。感銘を受けた。
 以下、『私の小裂たち』(文庫化、2012年)からほんの一部を引用。

 藍の仕事は際限もなく、終わりもなく、人類が生きつづける限り存在するだろう。藍は命の根源の色である。海、そこにこそ藍の本性、命がある。
 今、生命そのものの海が侵されつつある。天に向かって祈ろうとしても、その天が病んでいる、と石牟礼道子さんは唄う。海についても同様である。それはすべて人間の侵した罪である。

 不知火と名づけた裂を、今、織っている。『石牟礼道子全集』の表紙の裂として使うためのものだ。

 藍の精が加護してくれますように、と。

 ・・・・・この地上の生物の恩人である植物をまたもや人間が侵していることを、私たちは肝に銘じなければならない。人間のためにのみ植物はあるんじゃない、と叫びたくなる。緑いろの山々野をみたときのあのいいようのない安堵感、よろこび・・・大切に守ってゆきたい植物であり、緑である。自然は侵されるままに言葉を発しないが、人間は多くの言葉を発して自然を侵している。その代償を誰が負うか。我々の子、孫なのだ。

(なお、この本には多くの可愛い小裂(和服などに仕立てて残った布の端切れ)の写真が随所に掲載されていて、見るのも楽しい。)

21.   近代化ゆえの窮乏
 柳田国男の民俗学への発心の一つは、日本の近代化への批判的な視点にあると思う。
 農政学を専攻し農政家となった点にも、そこから転じて民俗学を興した点にも、そういう視点が貫かれている。近代化は人々の暮らしに不幸感を蓄積しつつあるという視点。『遠野物語』などの民族学研究にも、このような視点が色濃い。
 その不幸感の源は近代化ゆえに発生してきた窮乏にあった。柳田曰く「昔の貧乏と云えば放蕩その他自ら招いた貧乏か、又は自分の家に現はれて来た一時の大なる災害不幸の結果で稀に起こることでありましたが、現代では此外に真面目に働きつつ尚少しづつ足りないと云う一種の不幸が現はれて来ました」。
 こう述べて柳田は、「是は金銭経済時代の特色で」、「今日の貧乏は自覚しつつ防ぐに術の無い苦しい窮乏」と断定している(『時代ト農政』1901年)。
 100年以上前の警告ではあるが、現代の所謂ワーキングプアを予想していた感がある。「防ぐに術の無い苦しい窮乏」の時代が繰り返すということか。近代化、就中、工業化という事を考え直す時代も繰り返す方が良いと思う。
 第一次産業への立脚を重視すべきだと思う。

22.   知里幸恵と『アイヌ神謡集』
 私は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、私の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
            (『アイヌ神謡集』は漸く岩波文庫に入った。)

23.   故・西岡常一語録
 西岡常一、言うまでもなく宮大工の第一人者だった人物。法隆寺や薬師寺の建造物の建築や修復を見事にやってのけた稀有な人物。この人の木についての話には説得力がある。以下、失礼を顧みず拾い読みする。

 「樹にとって東西南北というのは大事なことだす。樹というものは生えてきたら動けん。つまり樹の命にとって東西南北はこの世から消えて無(の)うなるまでついてまわる。それですから樹の東の部分からとった柱材は、その建物の東のほうの柱に使わなあかん。西も北も南も同じだす。これをいい加減に使ったら、建物は間違いなく捩れてきます。これ、材が生きている証拠だす。
 家に伝わる口伝にこんなんがあります。一、堂塔建立の用材は木を買わず山を買え。一、木は生育の方位のまま使え。峠、中腹の木は構造骨組に、谷間の木は雑作材にせよ。まぁ今の大工さんは普通は山を買うなぞはできんし、材木屋で買うわけですから、その材の生育の方位などわかりまへんし、仕方がないといえばそうやけど、材の命が見えていたらこれは我慢できまへんわなぁ。」

 (「我慢できまへんわなぁ」。樹木の真実について頑固なこと、この上ない。僕なんかはとても真似のできない本当の頑固さである。)

 「法隆寺も薬師寺の東塔も材は千年檜ちゅうもん使うてます。生えて千年経ってる檜ということです。この千年檜の材というものは作ったときは弱い。それが年々強くなって、作ってから千年目が一番強い。」
  「法隆寺修復のときの端材の外側は灰色で煤けた色合いだが、それも一粍足らずで、その中は真っ白できっちりと締まる。」
 「この千年目を境にして材は徐々に弱くなり、二千年目にはじめの建造時の強度に戻ります。それから何とか五百年は持ちますさかい、まぁ二千五百年は持ついうことですな。コンクリートというものは、百年ほっといたら砂になります。・・・とにかく、檜というこんな丈夫な材を使うたさかい、法隆寺も薬師寺の東塔も今日まで持った。それはそうどすけど、それだけではおまへん。」
 東塔の屋根を支えている垂木の二、三寸おきに点々と小さな穴が幾つもあいている。
 「あれは今までの修復のときの釘穴どすわ。つまり修復のたびに、少しずつずらして釘を打ったんどすな。この垂木、まだまだ塔のなかにはずうっとのびてましてな、これを少しずつずらしながら修復していけば、そうどすなぁ、まだ千年や千二、三百年はでけるんとちゃうやろか。」
 「できてから、これから先、全部足し算したら二千五百年。これ、千年檜の材のちょうど寿命になりまっしゃろ。つまり千二百年前にこの東塔を建てた人たちはきちんと千年檜の寿命を識っていたちゅうことですわなぁ。」

 (樹を熟知している人にも、その樹にも、当然の事ながら、とてもとても太刀打ちできない。肯くだけである。)

24.  藤沢周平『三屋清左衛門残日緑』(概要)
 生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも秀逸な珠玉の一品だと思う。
 舞台は江戸時代、北国の藩。清左衛門は藩の重職を退き、隠居生活に入る。隠居生活では自由気ままな日々を送れると思っていたが、今までの世界から全く切り離されてしまったという孤独感にさいなまれる。しかし、彼はその孤独感から立ち直り、新しい人生を生きていく。表題の「残日」とは死に至る残りの日々という意味ではなく、新たな人生の日々という積極的な意味が込められている。「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」なのである。
 隠居したものの、現役から慕われる。だが、生々しい権力闘争から距離を置いて、藩の重大事に公正に対処することが可能となっている。ここには、隠居というものの積極的な役割が描かれ、そうした存在を大切にする組織のあり方が示されているようにも思える。
 江戸時代の藩や武士の家というものにのしかかるしがらみの中で、必死に生きている人々の誠実さに清左衛門は限り無い愛おしさをもって向き合い、それを嘲る人々に容赦の無い態度で接する。そうすることによって、妻を失い、人生の意味を疑っていた清左衛門自身が新たな生きる喜びを見出していく。薄幸の女性に対するこの上なく細やかな心づかい、藩の派閥闘争のために無残に犠牲にされる若い武士への配慮、中風で倒れた同僚が必死に立ち直ろうとする姿を見たときの大きな喜び。
この歩行訓練を始めた大塚平八の姿に清左衛門の心は波打った。その時の深い感慨・・・
「人間はそうあるべきなのだろう。衰えて死がおとずれるそのときには、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて終わればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ、そのことを平八に教えてもらったと清左衛門は思っていた。」
 この作品は、世の中の残酷さを静かな筆致で描きながら、素晴らしい人々の生きざまを語ってやまない。

25.   島崎藤村
 明治以降の作家で最も大きな作家は島崎藤村だと思う。僕の好みも入っているが、これはかねてよりの僕の持論だ。抒情(『若菜集』)から社会問題(『破壊』『夜明け前』)まで、その一つひとつの作品において完成度が高い。
 どういう意味で高いのか。他の作家との比較は措く。思うに、詩、小説、随筆、紀行にいたるまで、藤村文学の底を流れるのは、回想という方法で人生を歴史の流れにおいて反芻し、凝集している点である。その事が、一方では自我の浪漫的な凝視と顕現となり、他方では自我の求道的な充実と社会的実現となっている。
 この二つの特色が藤村を、山また山の木曽に生いたった農山村の民として生活を営む、腰の坐った実生活者たらしめ、かつ理想主義者たらしめているのだと思う。昨日一日、藤村をあれこれ読んだ。短文を二つ。

 「屋根の石は、村はずれにある水車小屋の板屋根の上の石でした。この石は自分の載って居る板屋根の上から、毎日毎日水車の廻るのを眺めて居ました。
 「お前さんは毎日動いて居ますね。」
と石が言ひましたら、
 「さういふお前さんは又、毎日坐ったきりですね。」
と水車が答へました。この水車は物を言ふにも、じっとして居ないで、廻りながら返事をして居ました。(「ふるさと」屋根の石と水車より)

 「檜木、椹(さはら)、明檜(あすひ)、槇、ねず---を木曽の方では五木といひまして、さういふ木の生えた森や林があの深い谷間(たにあい)に茂って居るのです。五木とは、五つの主な木を指して言ふのですが、まだその他に栗の木、杉の木、松の木、桂の木、欅の木なぞが生えて居ります。樅の木、栂の木も生えて居ます。それから栃の木も生えています。」(「ふるさと」(五木の林)より

26.  鱈(たら)
 魚扁に雪と書いて鱈。文字通り雪の降る冬が最も美味で、魚食民族日本人が昔から好んできた魚類の一つ。
 鱈には何種類もあるそうだが、食材として大量消費されるのはマダラとスケトウダラ。マダラは体長1メートルもある巨漢で、水深150~200メートルの岩礁などに棲んでいる。東北以北の北洋、北の日本海、アラスカ、北アメリカに分布。繁殖期が12月末から2月ごろまでで、産卵のため浅い海に群遊してくるころが漁期。味も旬。マダラに比べて細身のスケトウダラは、太平洋には少ないが、日本海では山口県以北、北洋、ベーリング海、北アメリカに多く分布。各国の二百カイリ経済水域決定後、双方の鱈とも漁獲高が減り、高価な魚になってしまった。
 日本人の鱈の食べ方には全く驚かされるとは、食の博士・小泉武夫氏の言。身はもちろん、皮も内臓も卵も、一匹全体の殆どを食べてしまう。肝臓は脂肪、タンパク質、ビタミン類に富み、白子には特殊なタンパク質や強壮源が多く含まれることから、肉以上に内臓を大切にする地方もある。
 胃袋、頭、骨、皮はアラ汁に、卵は煮付けにと、日本人はこの魚の持つ調理上の特性をよく知りぬいて、驚くほど多くの料理法で食べ切ってしまう。鱈ちり、寄せ鍋、吸い物などに向くのは、豆腐や昆布との味の調和が良いからである。
 また、白身で淡白な鱈は酒粕とも調和し、食通によると「鱈の粕漬けは鯛の粕漬けに勝る」のだそうだ。身をほぐして「そぼろ」や「でんぶ」も鱈の食べ方である。
 マダラの卵巣は、生鮮のまま「本タラコ」として市販され、煮付けや佃煮にして重宝される。スケトウダラの卵巣は塩漬けされ、赤く着色して「タラコ」として広く食用されている。これに唐辛子を添加した「明太子」も人気が高い。
 スケトウダラのすり身は、蒲鉾などの練り製品に欠かすことが出来ない。しかし最近は例の二百カイリで漁獲量が激減しているそうだ。明太子の高いこと、高いこと。

27.  柊(ひいらぎ)
 柊の葉には独特のトゲがあり、これを鬼の目突きというそうだ。節分の日、魔よけのために柊の小枝をイワシの頭とともに門口に立てる慣習はかなり古くからあるそうだ。
 ものの本によると、面白いのは、柊が五十年から八十年ほど成長すると、葉のギザギザが自然に消えることだ。年輪を刻んで、次第にトゲがなくなる。角がとれて丸くなる。柊に学びたいと思うが、私なんぞはなかなかこうはいかない。
 葉にトゲがある若木をオニヒイラギ、年を経てトゲがなくなった老木をヒメヒイラギと呼ぶのもいかにも面白い。日本産ヒイラギ人種は、とげとげしい過密国で暮らさねばならないせいか、五十歳を過ぎても、六十歳を過ぎてもヒメヒイラギのように角がとれない。
 先日、所用で奈良県中部の市に足をのばした。電車の中で樹についての本を読んだ。着いた先の市役所の傍に、冬空を背にして、葉をあらかた落としたケヤキが厳しい姿で立っていた。宙に描かれた梢の線は、繊細でしかも力強く、野放図のようでいて、ある調和を保っている。そのケヤキにトゲ葉をつけた柊が寄り添っている。その姿が、なんとなく面白く感じられた。

28.  森への畏れ
 私どもの教わった知識では、自然は合理的な体系をなすものである。この点に自然科学の発展も起因する。
 ところが、私の幼少時の体験からすると、森は合理的な因果関係だけで説明されないのではないかと素朴に思う。もしかすると、森の木々も草も苔も水も彼らの流儀で、生真面目に、あるいはランダムに生きているのかも知れない。森は様々な生命が交流する小宇宙だ。その様々な生命のあり方、言い換えると、生きている事の意味については、たとえ遺伝子の構造などが分かっても、分からないのではないか。そうだとすると、生命の社交場としての森について私どもは全く知らない面があるのではないか。合理的な思考では人間の生の意味が分からないのと同じように、生きている森の事も分からないのではないか。
 そうだとすると、私どもは森への一種の畏れを持ち続けなければならないと思う。何故なら、決して理解できない生命の社交場としての森を、一時の人間の思いつきで、大きく変え台無しにしてしまうかもしれないから。熱帯林がその例である。
 幼少時の私が味わったのは、社交場で遊ぶ楽しさと夕闇迫る森への恐れだった。先入観かもしれないが、近世以降の人々が失いかけたのは、この恐れ、畏れの感覚かもしれない。この感覚を忘れかけた時、森を合理的にとらえ、合理的に利用しようとする時代が始まった。
 このように言って林業を批判しているのではない。ただ、少し懸念される事は、人工林の役目が規格品を大量に得る事であるからには、おそらく人工林は森の本来の生命力を低下させているのではないか、という事である。かといって、人工林の生産を止める訳にはいかない。難しい問題だと思う。難しく考えることもないのかも知れない。人工林は、森の生と人間の生との相互補完関係を保証するものだと考えられるのかも知れない。
 このように考えたとしても、森の生命への畏れを忘れてはならないと思う。こう思う事が、本当の生き易い文化への道なのではないだろうか。

29.  藁草履
 私は小学1、2年生の頃、4キロ近い道のりを祖母が夜なべで編んでくれた草履で通学した。が、冬も草履であったかどうか。冷え込む中、草履ではなかっただろう。では、何を履いて通学したのか、憶えがない。足袋に草履ではなかったと思うが。
 草履(ぞうり、わらじ)と言えば芭蕉に

       年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

という句がある。『野ざらし紀行』の一句。芭蕉は貞享元年八月、江戸を発って伊賀へ帰郷の旅に出た。九月八日帰郷。その後、大和、吉野、山城と廻って名古屋、熱田で十二月末まで滞在し、正月は故郷で迎えた。そして、二月には奈良で東大寺二月堂のお水取りを見て、京都、近江から東海道を下って四月に江戸に戻った。あしかけ九ヶ月の長旅で、のちに紀行にまとめたのが『野ざらし紀行』である。芭蕉、四十一歳から二歳にかけての旅だった。
 この句は「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前書きがあって、名古屋から伊賀への旅の途中の句。漂白のうちに年が暮れてゆく。その漂白の旅のなかの自分の姿をありのまま描いた句。旅を続けること半年余り、笠をきて草履のままの姿で、年が暮れてしまうのかという感懐が一句になった。旅の寂しさとともに、故郷へ向かっての旅という気安さもあったのだろう。芭蕉の句にしては、何となく安らかな思いが感じられる句である。
 
 現代は草履の時代ではない。小学校からの下校途中、雨で濡れると草履が縮み、足の指に食い込んでくる。痛かった。裸足で帰った。 

30.  ド忘れ恐れるべからず
 物忘れは仕事上困るだけではなく、気分もよくない。ド忘れを連発すると、「歳かな」などと開き直るか、自己嫌悪に陥るかもしれない。
 最近発表された、エジンバラ大学の認知心理学者の論文は興味深い。彼は「水迷路」と呼ばれるネズミ用の記憶試験法を編み出した脳科学者として有名な学者である。最新論文の実験でも水迷路を活用している。この試験はプールにネズミを放して水を回避できる場所(避難所)を覚えさせるという試験である。
 訓練を積んで避難所を覚えたネズミの海馬という脳の部位を部分的にダメにする。すると、ネズミは避難所を思い出せない。いわば人工健忘だ。これは脳科学者の間ではよく知られているそうだ。
 最新論文で面白いのは、こうして記憶をなくしたネズミは、新しい水迷路を訓練することによって、古い記憶を次第に取り戻したという点にある。失われていた記憶が蘇える「きっかけ」があるというのだ。
 どんな「きっかけ」が最適なのかというのが問題なのだが、「ド忘れする前と似た状況を作る」ことが最適なんだそうだ。例えば、隣の部屋に来たものの、何が目的だったかをド忘れした場合、その場で「なんだっけ」と考えあぐねるのではなく、元の場所に戻って周囲の状況を見渡してみるのが最も効果的なんだそうだ。
 ところで、ド忘れは大人に特有な現象ではない。物忘れがひどくなったと感じるのは、「歳をとると記憶力が低下する」という通俗的な思い込みのせいである。子供もド忘れする。ただ、子供は物忘れをいちいち気にしない。大人は「歳のせいだ」と逃げる。
 子供と大人とでは記憶量が違う。千個の記憶から一つを思い出すのと、一万個の記憶から一つを検索するのでは、労力や時間に差があって当然である。ド忘れしたとき、「それだけ私の脳には沢山の知識が詰まっているのだ」と前向きになるべきだろう。
 とはいえ、最近、ド忘れが多すぎる。

31.  雑木林
 私のひ弱な文学遍歴の最初と言えるものは、独歩や蘆花の随筆だった。この二人が見出したのが、雑木林の美しさだった。ツルゲーネフなどのロシア文学にも負うているのだが、それまでの日本人が殆ど見落としていた雑木林を、美しいものとして、心を動かすものとして、初めて積極的に認めたのだ。これは一つの心象革命と言ってよいと思う。
 松や桜や梅、また杉や桧と違って、せいぜい炭焼きの材料にしかならない雑木林にその美を讃えることはなかった。
 蘆花と独歩が、明治30年代、つまり明治維新という政治革命から30余年を経た時代になって、美意識の変革、自然を見る目の変革にとりかかったのだった。『自然と人生』や『武蔵野』に自然の美しさを見る新しい目が生まれた。
 『自然と人生』の中に「雑木林」という文もある。「東京の西郊、多摩の流れに到るまでの間には、幾箇の丘があり、谷あり、幾筋の往還は此丘に上がり、うねうねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流れあり、流れには稀に水車あり。丘は拓かれて、畑となれるが多くも、其処此処には角に画(しき)られたる多くの雑木林ありて残れり。余は斯(この)雑木林を愛す」と言って、楢や橡やハンノキなど、それまでは雑木として、見かえられることのなかった木々の林の四季折々の美を描き出した。
 『武蔵野』では「美といはんより寧ろ詩趣といひたい」と言って、新しい自然美を打ち出した。
 明治30年代は自然美の維新時代だった。
 
32.  こんな詩があります。
   遠い道でもな
   大丈夫や
   一歩ずつや
   とちゅうに
   花もさいているし
   とりもなくし
   わらびかて
   とれるやろ

 原田大助君という少年の詩集『さびしいときは心のかぜです』(樹心社)から一つ選びました。僕がどう生きるのがいいのかを、こんなにも明晰に、こんなにも優しく語ってくれる言葉は、めったにあるものではありません。かつて観たテレビ・ドラマ『北の国から』の五郎や純や蛍が歩いた道も、こんな「遠い道」だったのだと思います。ドラマの中だけの「遠い道」ではないようです。こんな「遠い道」を歩いている人も居るわけで、学びたいと思います。だいぶん歳をとりましたが、歩けると思っています。でも、わらびをとるのは難しくありませんが、「遠い道」はやはり「遠すぎる道」なのかもしれません。「ほどほどに遠い道」が待っていてくれることを願います。 

33.  埋もれ木
 私んちのすぐ近くに、歩いて5分とかからないところに鎮守の杜がある。人気が無く、常緑樹で覆われている杜の境内をそぞろ歩きしていると肌寒いが、樹々に風が遮られてそれ程冷たくはない。鎮守の杜とは鎮守の神を祭った森である。森は神の棲むところであり、非日常の世界である。
 子供の頃、山の神行事で、夜中に小高い山を松明を掲げて歩き回った記憶は僕の心象風景の原点と言ってよい。
 グリムの『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』などの物語は森に踏み入って始まる。小さくとも鎮守の森(物語の世界)が近くにあることは有り難い。
 その鎮守の森の傍で水道工事をしていたが、その最中それほど大きくはない木が出てきた。長年地中に埋まっていた埋もれ木である。人気が少ないとはいえ、町の中での埋もれ木は珍しい。埋もれ木は、世間から顧みられない存在の喩えでもある。このところ私は凹んでいて、どうせなら埋もれ木のようになれたらと弱気になっている。一日、ボーとしていることが多い。しかし、このボーは今に始まったことではなく、私の持ち味ではある。

34.   歌うことを禁じられた童謡「たきび」
 よく知られ、口ずさまれることも多い童謡「たきび」が歌うことを禁じられた時期があった。
 皇紀2600年と称して、国民的な祝いの行事が繰り広げられた1940年(昭和15年)、作曲家・渡辺茂(1912-2002)は奉祝歌の作曲公募で2等に選ばれた。それが目にとまったのか、翌41年9月、NHKから「12月の子ども向けのラジオ番組で使いたいので曲をつけてほしい」との依頼が舞い込んだ。
 巽聖歌の詞を見たとき、これはいけると思った。新宿の自宅で何回か口ずさんでいるうちに、旋律が浮かび、わずか10分ほどで五線譜に音符を書き込んだ。29歳の時だった。
 「たきび」が初めて電波に乗ったのは、その年の12月9日。太平洋戦争開戦の翌日だった。放送されたのは、「軍の番組管制が完全に行き渡るまで」の12月9、10日の2日間。翌日には軍からお叱りが来た。曰く「落ち葉も貴重な資源、風呂ぐらいはたける。それに、たきびは敵機の攻撃目標になる」。
 以後、「たきび」は戦後の1949年(昭和24年)まで封印された。封印がとかれた同年、NHKが放送開始した松田トシ、安西愛子による「歌のおばさん」で取り上げられると、たちまち全国の幼稚園や小学校で歌われた。(だが、今度は消防庁が「街角の焚き火は困る」と言い出したとも。)

(こういう小さな?話題にも歴史が重くかぶってくる。戦争はイヤだ。)

35.  牡蠣
 私は牡蠣をよく食する。旧職場の食堂で昼食に牡蠣フライ定食を食べて、帰宅して夕食にまた偶然にも牡蠣フライということもあった。それでも全く飽きない。と言っても、そんなに何度も牡蠣フライを食べる訳ではない。
 牡蠣は世界中で食べられているそうで、ローマ帝国時代に既に養殖されていたという。「 r のつく月の牡蠣を食せ」という言い伝えがある。英語の月名に r がつく秋冬になると、牡蠣のグリコーゲンや各種のアミノ酸が増えて旨みが増すからだそうだ。
 牡蠣はその栄養価の高さから、周知のように「海のミルク」とも呼ばれる。牛乳より高タンパク・低脂肪で、鉄分やビタミンも多い。また亜鉛の含有量も飛びぬけて多い。亜鉛は抜け毛や肌のかさつきの予防に効果があるそうだ。血中コレステロールを下げ、高血圧を予防するタウリンも多いそうだ。各種ビタミンの含有量も多い。
 生牡蠣を食べるのが一番栄養をとれるそうだが、私はどうも生牡蠣は苦手である。食べないことはないのだが、やはりフライにして少量の塩で食べるのが好きである。
 それにしても、カキは牡蠣と、何故こんな難しい漢字を当てるのだろうか。『大辞林』で調べたが要領を得ない。参考までに「かき」の項を引用しておく。
 「イタボガキ科の二枚貝の総称。左殻はよく膨らんで海中の岩などに付着し、右殻は割合に平らでふたのようになる。殻の表面には薄い板状の生長脈が発達する。肉は美味で、各地で盛んに養殖が行われる。食用とする主な種類にマガキ、イタボガキ、スミノエガキなどがある。殻は肥料や養鶏飼料とする。」
 カキは何故「牡蠣」なのか、分からぬ。

36.  風呂敷
 学生の時、中国文学の若い先生・高橋和巳の講義に出た。三ヶ月と続かなかったが。(小説家・高橋和巳を知ったのは後である。)
 その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。

37.  田毎の月
 平松純宏『写真集 棚田の四季』をゆっくりと観賞した。棚田(千枚田)に映る田毎の月に見ほれた。「田毎の月」という昔聞いたことのあるような言葉に惹かれて、調べてみた。この言葉は、江戸初期の「藻塩草」(1669年)に表れている。
 「信州更級(科)の田毎の月は姨捨山(冠着山、1252m)上より見下ろせば、・・・」
 姨捨山伝説からも推測されるように、棚田の一つひとつは、食べる米がないという現実から農民が止むを得ず山に登り耕していった労苦の所産である。にもかかわらず、田毎の月を映す棚田は美しい。それは、農民が厳しい自然に素直に従わざるを得なかった結果であろう。
 自然との深刻なかかわりこそが、人の心を打つ美しさを生むのだと思う。大型機械の入らない棚田での作業がどんなにか苛酷であったかと想像していたら、島根県柿木村・大井谷の棚田についての報告書に、当事者たちは「その苦労はなかった」「むしろ後から、動力脱穀機を田から田に担いだときのほうが大変だった、切なかった。」と、微笑む、と記されていた。
 棚田は43道府県の891市町村に残っているそうだ。晴れた夜にはそれぞれの棚田に田毎の月が凛然と存在しているのだろう。

38.  他者
 妙な話を聞いたような気がする。昨日久しぶりに大阪へ出た機会に或る画廊に何気なしに入ると、新進の女性画家の女性を描いた絵ばかりが展示してあった。どの絵も多少とも現実ばなれした、画家の内なる女性像である。目録に次のような画家自身のコメントが載せてあった。
 「女が女を描くことは、ある意味では難しいことかもしれません。優しさも可愛らしさも、甘えることも、そしてちょっぴりの意地悪さも、みんな知ってのことですから。」
 「みんな知ってのことですから」何故に「難しいことかもしれ」ないのだろうか。みんな知っていたら、易しいことなのではないだろうか。どうも分からぬ。そこはそれ、人間の表象能力の錯綜したところかも知れない。
 ところで、「みんな知ってのこと」と言えるだろうか。女性同士の事は僕には分からぬ。しかし、男性同士の事でも、「みんな知ってのこと」なんていうことはあり得ない。異性の事はなおのこと分からぬ。
 概して言うと、他者の事を「みんな知ってのこと」と言うことは出来ないのではないか。「みんな知ってのこと」でないから、他者が他者たる所以なのだと思う。そこに誤解も共感も生じる源があるのだと思う。
 翻って、自分の事は自分が一番知っている、というのも怪しい。自分の何たるかを知ることを気にかけず平々凡々と暮らしている僕が、「みんな知ってのこと」という領分に立ち入れないのは当然な訳で、そうすると、先の画家自身のコメント「みんな知ってのこと」はその画家の内面では真実なのかも知れない。あくまでも《知れない》の領分である。
 同性異性を問わず、真実のコミュニケーションは可能なのだろうか。

39.『木を植えた人』
 ジャン・ジオノ『木を植えた人』の物語が実話なのか虚構なのかは不明である。虚構であっても、この短編から大きな感動を受ける。フランス南部のプロヴァンス地方に生まれたジャン・ジオノが、その地方の荒れ果てた高地を森に変えた一人の男を描いているのがこの短編である。
 その男、エルゼアール・ブフィエは毎晩ドングリを百粒を荒地に植えていた。植え始めて三年、十万粒のドングリの内二万本の芽が出た。その半分はネズミやリスにかじられたが、一万本のカシの木が荒地に育った。第一次大戦後五年を経て、「私」が再び訪れると、一万本のカシの木は既に人の背丈を越え、ブナやカバの森も育っていた。広大な荒地が緑の森に変わっていた。
 近くの村には小川が流れていた。そこに水が流れるのは随分と久しぶりのことで、誰も覚えていないくらい昔のことだった。男の育てた森が小川を生み出していたのだ。
 更に二十数年、男は根気よく森を育てた。廃墟だった村に気持ちの良い生活が戻り、「森が保持する雨や雪を受けて、古い水源がふたたび流れはじめ、人々はそこから水を引いている。」
 森が水をつくってくれるのだ。森は薪も炭も与えてくれるが、何より水を与えてくれる。豊かな森には豊かな水がある。
 私どもは森の恵みをどれほど認識しているだろう。文明というものが、森を切り拓くことによって進歩してきたというのが事実であるならば、この事実を反省しなければならないと思う。

40.  落ち葉
  夏の間、太陽の光を吸い、活発に働き続けてきた落葉樹の葉は、秋風に散って土を覆う。土を覆う落ち葉は、土壌内の生物との合作で肥料になり、その肥料はまた根から吸収される。自然界の循環作用である。一説に、原生林の林床を踏む場合、両足の靴底の面積を約400平方センチだとすると、両足で8万匹もの生きものを踏みつけていることになるそうだ。森の土には、土壌ダニなどの小さな生物がそれだけ沢山いるということだ。それらの生物が木の葉を食べ、肥料を生産する有り様はまさに精密工場なみだと言わなければならない。
 都市部ではアスファルトやなけなしの土の上に散った落ち葉もすぐに掻き集められ、捨てられる。木の葉という栄養分の補給がないから土壌内の微生物も死に絶える。都市部の土は死んだ土になりつつある。
 命のこもっている木の葉の恵が忘れられつつある。忘れずに、木の葉と微生物の合作活動に思いをいたすことがあっても良いのではないだろうか。秋の夜長に。

41.  時雨かな。
 夜明け前からしとしとと雨。時雨かな。今はどうやら上がったようだ。
 ブログを記すようになってから、季節の移り行きに敏感になったような気がする。毎日毎日そんなに記すことがあるはずもないので、自ずと季節についてなけなしの知識を本で補いながら記すということになる。
 日本海側や京都盆地、岐阜、長野、福島などの山間部では、十一月初め頃、急に空がかげったかと思うとシズシズと降り出し、短時間でサッとあがり、また降り出すという雨がよくある。これが時雨である。
 この時期、勢力を増した大陸性高気圧のため、北西の季節風が吹き始め「木枯らし」となる。これが中央脊梁山脈を吹き上げ、冷やされて雲をつくり降雨する。この残りの湿った空気が風で山越えして来る時に降らせる急雨が時雨である。
 時雨は本来、ローカルな気象現象なのだが、何故か日本人の好む言葉となっている。蝉時雨とか、時雨煮とかというように。確かに何となく響のいい言葉ではある。桑名の焼き蛤は美味だが、蛤の時雨煮も美味だ。アサリの時雨煮も美味い。牛肉の時雨煮は不味い。
 日本全土に平等に雨が降ってくれればいいのだが、気象異変のせいか、局地的豪雨に襲われる地域が多くなったような気がする。大地震や火山噴火の後に豪雨ということもある。たまったものではないだろう。神仏は何をしてござるのか。

42.  シューベルト
 好きな作曲家を一人挙げよと言われたら、難しいことであるがもう何年も前からシューベルトを挙げている。歌曲に真骨頂があり勿論いいのだが、ピアノ・ソナタに魅力を感じる。弦楽四重奏曲や弦楽五重奏曲も好きだ。この五重奏曲を聴くと、何処へ連れて行かれるか少し不安になりながらも、楽想に沈潜してしまわざるを得ない。その吸引力が凄まじい曲だと思う。色んな形式の曲がすべて好きなのであり、要するにシューベルトの音楽を僕は好きだ。
 ピアノ・ソナタ10曲に思いを巡らしてみると、そこには共通する特徴が幾つかある。まず第一に、第一楽章の主題が多くの場合、静謐で長く、展開部を導き出すような動的な力に乏しい。第一楽章だけでひとつの長い歌であるかのような美しい旋律で満ち満ちている。第二に、このような主題の特徴の故に、展開部はごく控えめであるが、中にはあまりにも魅力的な美しさに溢れている楽想がある。あるいはまた、シューベルトの人知れぬ苦悩が提示されている。第三に、心の底から紡いだ歌への未練から抜け出す事ができず、同じ旋律をオクターブで繰り返したりすることがしばしばあるが、殆ど同じような旋律をメタモルフォーズしていく手法のなめらかさは、抒情的に静的な美しさを醸す。その美しさは単調であるかもしれないが、音色の微妙な変化が一種恍惚感をもたらす。第四に、シューベルトがピアノに求めたものは、日常的な個人的生活感情を何の衒いも無く表現することにあった。この点に、ベートーヴェンがピアノに交響曲的規模を表現しようとしたこと、ショパンが(誤解を招くかもしれないが、)打鍵に民族的抒情を表現しようとしたこと、ヴェーバーやリストがピアノに超絶的な華やかさを表現しようとしたこと、などと合わせ考えると、シューベルトの特徴が際立って感じられると思う。
 シューベルトの曲には彼の等身大の楽想で彼の喜怒哀楽が構成されているのだ。そこがいい。

43.  カザルス
 カザルスの伝記のような本を斜め読みした。これで何度目か分らない。どのページにも感動的な事が書かれている。一つ引く。
 「私には、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスといういつも変わらぬ友があった。また、演奏旅行には、たいてい音楽仲間で親友のハロルド・バウア、アルフレド・コルトー、ジャック・ティボー、フリッツ・クライスラーが一緒だった。どこの国に行こうと、どこで演奏しようと、それがモスクワの貴族会館ホールであれ、メアリランドの高校の講堂であれ、見知らぬ土地で異邦人だと感じたことは一度もない。モルフィ伯が数ヶ国語を勉強するように言ってくれたことに、いつも感謝していた。私は七ヶ国語は流暢に話せた。しかし、どこでも人々と理解し合えたのは、根本的に音楽を通してだった。国語は違っても、われわれの心を結ぶ言葉は同じであった。国境を越えて異国の町で眠っても、この共通の友愛の精神を常に発見できた。」
 懐かしい演奏家の名前が出てきた。僕の個人的な事を言えば、コルトーのショパンを聴いて、これがピアノ音楽というものかと実感した事がある。それはさて措き、「共通の友愛の精神」、現在の世界で最も求められている精神なのではないだろうか。この精神は平和を希求する精神に通じる。スペインのフランコ軍事政権に追われたカザルスが、いつだったか、おそらく70年ぐらい前に国連総会で感動的な演奏した。その演奏をテレビ報道ではっきりと覚えている。故郷カタルーニャの民謡「鳥の歌」を弾いた。弾く前に一言、「カタルーニャの鳥はピース、ピースと啼きます」。

44.   木枯らし一号
 関西では26日に木枯らし1号が吹いたとのこと。
 童謡「たきび」で、たきびをしている場所はどこだったかというと、山茶花が咲き、木枯らしが吹く寒い道だ。山茶花が咲き始める季節と木枯らしが吹き始める季節とはだいたい同じ頃なのだ。今年はまだ山茶花は咲いていない。
 冬の初めの、北または西寄りの強い風を木枯らしという。その年の最初の木枯らしを「木枯らし一号」と呼ぶ。ものの本に依ると、東京に木枯らし一号が吹いた日の平均日は十一月八日。この日は偶然にも立冬(毎年十一月七日か八日)と一致する。平均日というからには、早い年には十月下旬に、遅い年には十二月初旬に木枯らし一号が吹くということだ。
 ある風を木枯らしと言うには、幾つかの条件がある。風が吹いた時の気圧配置が西高東低であること、風向きが北から西北西の間で、最大風速がおよそ八メートル以上あること、日中の気温が前日より二、三度低いこと。このような条件を充たし、冬に最初に吹く風が木枯らし一号なのだ。
 木枯らしが吹く仕組みはどうかと言うと、だいたい次のようであるらしい。太平洋側で木枯らしが吹く頃、日本海側では時雨が多くなる。上空の気圧配置が西高東低になると、北極から水分を含んだ寒気が押し寄せる。この寒気は、日本海側の山地で雨や雪を降らせ、水分を落とす。こうして、山地を越えて、太平洋側に吹く乾燥した寒気が木枯らしとなる。
 今年の木枯らし1号は立冬以前に吹いた。天に坐します神様、お願いだから秋の風情を楽しませてよ。
 東日本大震災の被災地は、もうだいぶん寒くなっているだろう。仮設住宅などに暖房装置をつけて欲しい。冬になれば雪下ろしも大変!!!

45.  菊
  菊 花   白居易(中唐)

一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し

(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
 寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
 そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
 その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

 一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かぶ。このところ朝晩、秋冷が続きます。お風邪など召しませぬように。

46.   焼く料理
 炭火の熾った七輪の上の網に秋刀魚をのせると、ジュージューと音をたてながら、まず表面が焼ける。が、表面だけが早く焼けるようでは焦げついてしまうので、中までうまく火が通るようにしなければならない。そこは炭火のよいところで、火を加減すれば充分にうまくいく。
 あの煙の匂いは、魚の皮や皮下脂肪が焼けて炭化する時のもの。秋刀魚には30%近いタンパク質と7~8%もの脂肪があるから、これが炭火で焙られると脂肪が溶け出し、これが炭火に落ちて燻られる。その煙の匂いには魚の生臭みの成分や脂肪とタンパク質が炭化した際の化合物などがあって、それらが特有の匂いを発する。
 「焼く」という調理法は、ごく一部の例外を除いて、地球上のほとんどの民族が最初に行った手法である。長い食の歴史を経て世界各国には「焼きの食文化」が盛衰してきた。
 その中で、食生活に独自の焼きの手法を取り入れ、バラエティに富ませ発展させたのが日本人であると、食の博士・小泉武夫氏は語る。もちろん外国には、肉を串に刺して焼いたり、鉄板の上で肉を焼く料理、魚の燻製など、焼き料理は多数ある。しかし日本人ほど材料の持ち味を活かして焼く手法を確立した民族は珍しいらしい。塩焼き、照り焼き、付け焼き、串焼き、蒸し焼き、包み焼き、ほうろく焼き、等々。街には炉ばた焼き屋、焼き鳥屋、串焼き屋、たこ焼き屋、お好み焼き屋、焼き芋屋、等々。
 日本で焼く料理がこれほど独自に発展した理由は幾つかある。まず、魚介類や肉、野菜など、焼かれて美味い素材が豊富であること。焼いたものへの味付けとして醤油、味醂、日本酒などの特有の調味料があること。さらに備長炭に代表される炭や七輪、金網など焼く用具を調理に合わせてしつらえたこと。このような条件がそろっているのだから、焼いた料理を食べてまずいはずがなく、日本人の好む料理法となった。
 焼かれて美味い魚は多くの場合、日本の近海のもので、脂肪ののった魚である。その代表が秋刀魚。炭火で焼いてアツアツの内に食べるのが一番美味い。
 ところが残念ながら、いつの頃からか七輪が姿を消した。大抵の家庭ではガスで焼く。炭火とガス火では味が微妙に違う。脂の落ち方が違うのだろう。なお残念なことに、炭火を熾す、火を熾すという習慣が、特に都市部でなくなったことだ。

47.  神さま 仏さま
 僕のような無心信者が宗教について云々するのは僭越である。僭越なんだけれど、ほんのちょっとだけ宗教について記すことにする。積極的に記す気はないんだけれど。
 思うに、日本人は、個々人の生き方に関しての平安や救いについて仏さまに期するところが大きいように思われる。一神教の国では、生活の繁栄も個々人の安心立命も自然の恵みも神に祈り、神に感謝する。
 古代インドの悠久の大地で成立した(と思われる)、途方も無い大きいスケールの輪廻の宇宙観は、小さな島国たる日本にはそれ程根づかなかったように思う。むしろ、西方浄土で現世の苦からの解脱を期待することが主要な関心事となったように思う。そして、願わくば現世での苦から少しでも解脱すること(この言い方は本来はおかしいのだが)を望む人々が日本の仏教を支えてきたように思われる。
 ところが、日本人の多様な信心は神さまにも向かった。五穀豊穣を祈るのは田の神さまに対してである。山には山の神さまがおられる。海には海の神さまがおられる。
 神仏習合は、それ程の褐藤もなく成立したのではないだろうか。それは、個々人の信のあり方としてだけではなく、境内に七福神を祭ったり、お稲荷さんを祭ったりしている寺院があることからも肯ける。仏壇と神棚をお祭りされている家々がある。(一神教の国の信心深い友人をかつて京都の神社仏閣にお連れした時、彼は手を合わせていた。仮に手を合わせたのだとは思われなかった。)
 僕は特別に宗教を意識することはないが、もって生まれた血の中に、そういう、苦からの解脱や平安を与えて欲しいと願う仏さまと、山の神さま、田の神さまが棲んでおられるのではないかと思う時がある。

48.  土
 僕は焼き物を観るのが好きだ。もっと若い頃は衝動買いで安物を手に入れ、悦に入ったことがあった。日本の焼き物は土を焼成したものが多い。変なことを考えた。土とは何か?
 長大な時をかけ焼かれたものが冷え、固まって風化した、それが地球だ。その地球の表層が土だ。土がもし無かったら、多くの植物は生えない。植物が生えなかったら、光合成がなされず、殆どの生物は存在しない。そうすると、仮に僕らが生存できるとしても、僕らの用を成すものの殆どは生育しない。勿論、樹木も野菜も生育しない。
 だから、人間を含む生物は土無しには生きられないのだ。当たり前のことだが、都市部の人々は土に感謝しているだろうか。土が見えないようにアスファルトで覆っているではないか。
 ところで、土を耕す人々が居る。彼らこそ地球の住民だ。土に養分を施し、豊かな土に種を蒔き、植物を育てる。その植物を僕らは金で買って食べて生きている。土に密着して植物を育てる人々のお陰で、僕らは生きることが出来る。僕らは土から浮遊しているのだ。浮遊物なのだ。
 浮遊物なんだけど、時には土に思いを馳せることがあってもいいのではないか。いずれ土に還るのだから。土と仲良くしておく方が寝心地がいいだろう。

49.  自然
 だいぶん前から気になっていた言葉の一つに「自然」がある。この言葉を僕らは何気なしに使っているが、nature という言葉が西欧から入ってきたのは勿論明治以降である。それ以前の日本では、漢字の自然はそれほど用いられていなかったようだ。(親鸞の「自然法爾(しぜんほうに)は有名だそうだが、僕は知らない。)親鸞の語法はむしろ例外的で、「おのずから然(しか)ある事柄の相」を指して自然という言葉は用いられていたと思われる。現在僕らが用いている自然という言葉は「天地」「天地万物」、あるいは山川草木、日月星辰、森羅万象を意味する語として用いられてきたと思われる。
 明治の初め西欧の学問とともに入ってきた nature をどう訳すかについてはだいぶん困ったふしがある。明治14年には、本性、資質、造化、万有などが当てられ、明治44年に初めて「自然」という訳語が追加されている(井上哲次郎「哲学字彙」1881年)。
 そこで、昔の日本人は、自然ということで「おのずから然ある事柄の相」を理解していたようで、自然という漢字で、山川草木、日月星辰、森羅万象を理解するようになったのは、むしろ新しいと考えられる。
 で、何が言いたいかというと、「自然」のむしろ新しい理解に昔の理解を重ねて、自然を重層的に理解するのが良いのではないか、ということです。荒廃した山川草木を「おのずから然ある事柄の相」で改めて見直すことが大事だと思う。思うだけでは何にもならないと思うが、そのように見直す姿勢を保っておれば、自然の違った相が見えてこよう。

50.  感じの良さ
 『ラ・ロシュフコー箴言集』より
 美しさとは別個の、感じのよさなるものについて語るとすれば、それはわれわれの知らない法則にかなったある調和である。顔立ち全体の、そして顔立ちと色つや、さらにはその人の風情とのあいだにある、ひとつのえも知れぬ釣り合いである、と言うことができるであろう。

 これは言い得て妙である。私の長年の友人たちは、こう言うのは僭越ではあるが、まことに感じがよい。何故感じがよいのか、その理由は上記の通りである。一見したところ、お顔だけを感じがよいとは言えぬかも知れない。だが、それぞれのお顔とそれぞれの風情とのあいだには、「えも知れぬ釣り合い」が看取される。「えも知れぬ」である。まことに「えも知れぬ」である。
 人物の感じのよさというものは、言葉では表すことができない。言葉で表すことができて、「さもありなん」と言えば、感じがよいとは言えないだろう。
 知り合いを思い出すと、「えも知れぬ」人物と「さもありなん」人物が居られる。テレビでたびたび見る首相や政治家連中は「さもありなん」人物である。

51.  秋風
 秋というと当然、紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。ただ、今年は猛暑が長続きしたためか、十月も今になって秋の風を感じる。
 風に色があると留学生に話したことがある。

   石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。色があるからではないが、与謝野晶子に

   おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。風が見えるという感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。
 こんなことを徒然に思うのは、今朝の起きがけの涼しさに秋の心象を抱いているからだろう。

52.  湯豆腐  
 僕は京都で十一年間下宿住まいをした。下宿を5回替わった。最後の下宿の主人が時々自ら豆腐を買ってきて、湯豆腐をご馳走してくれた。上質の豆腐を作っている店があるそうだ。そういう店は京都の各地にあるそうだ。なぜ豆腐の名産地が京都かというと、京都は昔から名水の地であり、周囲の丹波、近江と大豆の産地を控えて、更には、寺院の多い土地柄、精進料理の流れをくむ豆腐が親しまれたからであろう。寺院の門前で湯豆腐が発展したのは自然のなりゆきであったのかもしれない。 
 そもそも豆腐の起源は中国とされ、日本では平安時代の文献に「唐符」の名で登場するのが最古の記録だそうだ。それ以降は禅宗の寺院を中心に、精進料理の貴重なタンパク源として広まったらしい。室町時代には全国的に普及したものの、まだまだ一部の富裕層のぜいたく品で、日常の食材として庶民の食卓に上るようになったのは、江戸中期以降らしい。豆腐専用の料理本『豆腐百珍』がベストセラーになったらしい。
 下宿の主人の湯豆腐も美味かったが、日本で最古と言われる湯豆腐の店・奥丹で食べた湯豆腐の味と口当たりが今も記憶に残ってる。

53.  ミル『自由論』
 僕が影響を受けた人物は多いが、その内の一人はジョン・スチュワート・ミル。彼の『自由論』はもっと緻密に考察されてもよいと思う。要点だけを。
 自由には哲学的な「意志の自由」と政治的・社会的な「思想・行為の自由」の二種がある。ミルが論じているのは、社会の一員である個人が自らの幸福を追求する際に必要となる政治的自由である。ポリティックスとはギリシア語「ポリス(都市)」に由来し、ポリティコスとは市民という意味である。つまり市民的自由が論じられているのである。特に第二章「思想と言論の自由について」、第四章「個人を支配する社会の権威の限界について」が必読の箇所だろう。
 もともとミルはベンサム主義者の父の影響のため政治的過激派だった。26歳の時に論理学を徹底的に研究し、その結果、政治哲学は理論科学ではあり得ず、実験科学でしかあり得ないことに気がつく。そこで、彼は一切のイデオロギーから脱却できた。彼は市民社会に見られる多数派の押し付けを一貫して批判し、この視点から自由の限界を指摘した。つまり多数派といえども、その自由に限界があるのである。(つい最近のソマリヤ沖への自衛隊派遣、場合によれば武器使用も辞せずという。国会の多数派の自由の乱用である。)
 ミルの自由論の核心を一言で表現するとすると、「自分が正しいと思うことを、他人に強制する権利は誰にもない」ということになるだろう。だが、他者の言論や行為を間違っていると判断した時には、言論による粘り強い説得や教育が必要であり、それには思想と言論の自由、出版の自由が不可欠であるということである。

54.  「虚飾と傲慢」、久しぶりにラ・ロシュフコー
 「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙しとおせることはない。」(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 僕は時々、むきになって直言することがある。他人様から見れば傲慢なヤツだと思われていることだろう。直言した後、もう少し謙虚な物言いが出来なかったものかと忸怩たる思いをする。しかしながら、上の箴言によれば、傲慢が謙虚を装えば騙しになる。それでは、言うべきことがあるとき、どんな態度や言葉遣いで話せばいいのだろうか?
 箴言というものは、物事の一理を鋭く説く言葉である。そこには時代を超えた真実が表現されている場合も多い。気がついた箴言を傾聴していると、身動きがとりにくくなる。
 高ぶってもへりくだっても傲慢の偽装となる。それでは、どうせよ、というのだろうか。謙虚と傲慢という言葉を僕の辞書から無くせばいいのだ。だが、そんなことが出来るはずもない。困ったことだ。

55.  大根
 美味い大根はまだちょっと早いが、冬大根が野菜の中で一番好きかもしれない。かつて自分で野菜を耕作していたことがあったが、冬に突然の来客があると、まるまると太った大根を抜いてきて、フロフキにして馳走した。ブリ大根なども好きな副食である。おでんの具では真っ先に大根をとる。
 大根の古い言い方は「おおね」だそうだ。これに大根という漢字を当てたわけで、漢語ではない。中世の頃から「だいこん」と音読するようになったそうだが、そこには「根」という言葉を避けたい人々の思いがあった。飢饉になると、木や草の根で飢えをしのぐことが一般的だったので、「根」はどうしても飢饉の苦しみを連想させたからである。飢饉に見舞われたからこそ「だいこん」という言葉が生まれたというのは言い過ぎである。
 大地の恵に感謝する気分が薄れてきたように思う。子供に限らず青年たちの教育にも土とまみれる耕作をもっと取り入れる方が良いと思う。

56.  上手(じょうて)と下手(げて)
 焼き物の本を読んでいたら、上手(じょうて)と下手(げて)という言葉に出会った。普通の読み方ではない。いつの頃からか焼き物好きが言い出した読み方であろう。
 僕は焼き物が好きだ。何故好きかと問われても答えはない。焼き物についての本も読む。本に概略次のような戒めが載っていた。

 勿論、誰も好んで下手のものを買う人はいない。皆、その時はその品に魅力を感じ、懐具合と相談しながら、買う訳だから、それはそれでいい事だ。
 問題は、その後六ヶ月、一年とその品を座辺に見続けて一向に飽きがこない場合で、しかし研究、経験が進み美意識が昇華すれば下手のものには飽きが来る場合だ。これは必ず来る。およそ、この世界でビギナーがいきなり下手から上手へジャンプする事は至難の事で、根本的に己の美感覚を研鑚する事が肝要だ。研鑚には次の三項目を目安とすべし。
  1、上手のものを扱う筋のよい店とつき合う。
  2、掘り出し根性は捨てる。
  3、よき先輩の忠告を虚心に聞く。

 この三項目は、焼き物鑑賞に限らず、他の分野でも言える事ではないかと思う。僕などは掘り出し根性丸出しで、外国の文献を漁り変てこな考えに肯き、後になって後悔した事も一度ならずある。「よき先輩の忠告を虚心に聞く。」この「虚心」という事が難物で、我欲が出てくる。よき先輩は幾らも居るのに、忠告を聞かず、我欲が出てくると上手のものにも出会わない。何事かに通じるという事は困難を極める事ではあるが。さりとて下手の領域に甘んじるのも気持ちが許さない。

57.  限りない応援を捧げます。
(朝刊より)
 野田 あすかさん

 人の顔を見ても誰だかわからず、表情も読みとれないーーー。子どもの頃から悩み、隠してきた。でも、言われたことを守るので、小学校の通知表には「素直で真面目な子」と書かれた。
 2歳から家のオルガンで遊び始め、やがてピアノの道へ。宮崎大芸術文化コースに進学したが、過呼吸を繰り返し、2年で退学。宮崎女子短大音楽科(当時)に入り直すが、22歳のとき、留学先のウィーンで再び過呼吸を起こし、広汎性発達障害と診断された。
 帰国後、パニックとなって自宅2階から飛び降り、足の骨を粉砕骨折した。ピアノをやめたくなったが、恩師から「感情がそのまま出てて、すてきな音よ」と言われ、自信が持てた。27歳で出場した「国際障害者ピアノフェスティバル」で、銀メダルとオリジナル作品賞、芸術賞を受賞した。
 いまは宮崎市内の自宅でピアノ教室を開き、県内外の老人施設や学校へ演奏に出向く。「挑戦すること、見守ってくれる人がいること。ピアノさんが教えてくれた。」
 5月、そんな胸の内をつづった本『発達障害のピアニストからの手紙』(アスコム)を、CD付きで出版した。自作の一曲「生きるためのメロディ」で、こう歌う。

 みんなと少し違うけど私だけの音楽 この音楽を大切にしよう 人と自分が違っても それがきっと 生きるということ

58.   武という字
 字を手で書くことが少なくなった。現に今、字を打っている。手で書くことが少なくなればなるほど、字の意味を忘れるのではないか。意味を忘れる前に、字を忘れることもあるだろう。やはり字は書かれなければと思いながら、この文の字を打っている。

 近頃気になるのは「武」という字である。或る辞書によると、「武」は「弋(ほこ)と、足の形の止とからできて、ほこをもって勇ましく進むこと」とある。僕はこの意味を直感的にいぶかった。
 そこで、図書館で『漢字学』という古い本を見つけ調べた。それによると、「そもそも武(勇気)とは軍功をたてれば戦いを止めること。それが本当の勇気である。だからこそ「武」という字を見よ。それは止(やめる)と弋(武器、いくさ)とからできているではないか。」武という字の本義は、武器の使用の停止にある。これが本義だと思う。
 本義を忘れた世界の武器をもてる荒武者たちよ、もういいではないか。戦いを止めるがよい。

59.  大和の秋
 収穫の秋がすぐそこまで来ているような、そんな空気を感じます。
 大和の秋は富有柿の実りの秋です。柿日和という言葉があるぐらいです。柿の大木の鈴なりの富有柿は、それは見事なんです。美しいんです。賑やかなんです。そんな季節が間もなく到来します。
 富有柿の実が少なくなった頃、秋は深まります。

  ゆく秋の大和の国の薬師寺の
       塔の上なるひとひらの雲   佐々木信綱

 私の住まいから少し歩けばこんな光景が見られます。大きな景色から、しだいに視野を絞っていき、最後は「ひとひらの雲」を大きな構図にきっちりと定着させている詩だと思います。

 いよいよ本格的な秋。そして初冬。僕の一番好きな初冬がやってきます。

60.  自由な考え方
 「本当に自由なものの考え方とは、他を認めることだ。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 人ひとりの考えなど、しれたもので、そこから生まれるかもしれない行動の規範は極めて狭い。井の中の蛙が自由であるはずがないではないか。
 自縄自縛という言葉があるが、その縄は「自分自身」であり、その縄の拘束力は比類ないほど強いばかりではなく、厄介なことに見つけにくい。
 自分の殻を脱いで他を認める時、初めて私どもはその縄から解き放たれ、自由なものの考え方をすることができる。
 概略、このような意味であろう。しかし、言うは易しく行うは難しで、僕なんぞは自縄自縛の状態にある場合が多い。縄をほどき殻を脱ぐには、他の言を傾聴することが大事だと思う。たとえ、その言がつまらなく、愛想のよいものであっても。但し、その言が立て板に水を流すような言ならば、あるいは権威を傘にきた(つもり)の言ならば、僕は逃げることを良しとする。
 とかく、自由な考え方というものには達し得ないものだ。そしてまた、もの言えば唇寒し秋の風ということも時々はわきまえておかなければならない。

61.  自己愛はこれ程まで強いのだろうか?
(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「友達の幸福からわれわれがとっさに感じる喜びは、われわれの生来の気立ての良さに由来するのでもなく、友達に抱いている友情に由来するのでもない。それは自己愛のひとつの表れであって、自己愛が、次には自分も幸福になれそうだとか、友達の幸福から何か便宜を引き出せそうだとかいう希望で、われわれの心をくすぐるのである。」

 友達の幸福を素直に喜ぶこともあると思う。自己愛に基づいて友達の得た幸福をやっかむ場合もあるだろうが、そんな場合だけではないと思う。そうはいうものの、こう思う僕ももっと若い時は今より自己愛に耽溺していたと回顧できる。自己愛の程度が弱くなったのは歳のせいだろうか。
 ラ・ロシュフコーの箴言は、読む年代によって異なった意味を与えると思うが、だいたいにおいて、人間にまつわる真実を描いているとも思う。
 あなたの自己愛はどれ程でしょうか?

62.  或る山の歴史
 島崎藤村が生活していた所から遠くない所、木曽福島の一つ手前の駅がJR上松である。木曽福島では毎年音楽祭があったり、先輩が居たりして、行くことがあった。上松は木曽の樹木の寄せ場で賑わった所である。その近くに赤沢自然休養林がある。第一回森林浴大会が行われた所でもある。パンフレットを探し出し、木曽・赤沢の歴史を復習した。
 天正18年(1590)秀吉、木曽氏領有地を直轄領とする。
 慶弔 5年(1600)家康の直轄領となる。強度伐採始まる。
 天和元年(1615)尾張徳川領となる。築城、造船、土木用材伐採。
 明暦 3年(1657)江戸大火。復興材伐出。
 寛文 5年(1665)留山、巣山を設ける。赤沢檜木林留山。(当時は小川村小川入南山と称す。)
 元禄年間(1688-1703)小川入り赤沢留山檜木林の強度伐採。
 宝永 6年(1708)檜木、さわら、あすなろ、こうやまきの四木、停止木となる。後にねずこも停止木となる(木曽五木)。
 元文 3年(1738)かつら、けやきが留木となる。
 明治12年(1738)山林局設置。(官林)
 明治22年(1889)帝室林野局御料林となる。
 明治39年(1906)神宮備林設置。
 明治44年(1911)中央本線開通。
 大正 5年(1916)小川森林鉄道完成。神宮備林施設開始。(太平洋戦後の経済成長により樹木が大量に伐採。しかし、「檜木大径保存林」「学術保存林」に指定。)
 昭和22年(1947)林政統一。国有林となる。
 昭和44年(1969)全国初の自然保養林に指定される。
 昭和50年(1975)森林鉄道廃止。全線自動車輸送となる。
 昭和57年(1982)第一回森林浴大会開催。
 昭和58年(1983)「21世紀に残したい自然100選」に選ばれる。
 昭和62年(1987)森林鉄道復活(森林浴用)。

 何故こういう歴史を辿ったかというと、森林の重要性が焦眉の的であり、森林文化という発想を木曾・赤沢の人々が改めて強く考えて、訴えたからである。しかし、この訴えが全国的に広がることなく、現在に至っている。

63.  昨日は重陽の節句、別名:菊の節句
    菊 花   白居易(中唐)
 一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
 芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
 耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
 金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し

(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
 寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
 そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
 その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

 一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かぶ。
  このところ朝晩、秋冷が続くようになってきています。お風邪など召されませぬように。

64.   初秋
  初秋、朝、田舎道

朝、田舎道を歩いていて楠の大樹の根元で野仏に出会う。田の神であろう。
人智の及ばぬことを知っていた野の人々は野仏とともに暮らすを常とした。
頭を垂れた一面の稲穂が視界をつくる。
これが我が原風景というものであろうか。

あるいはフランシス・ジャムが、
    宇宙
  水色の
  絹の空、
  小山の上では
  犬が吠える、
と詩った、その「宇宙」というものであろうか。

かつては幾多の大樹から成る豊かな森林であったのであろうが、
伐採開墾され、それでもこの大樹だけは難を逃れ、
今ではこの世界の精となった。

野仏を抱いたこの楠の大樹は、
もしかして遥か彼方の昔からこの世界の主だったのではなかろうか。
人々はこの大樹を遠望し、あるいはこの大樹の下で憩い、五穀豊穣を祈願した。

人々はこの大樹に人の世の哀しみを託し、あるいは喜びを舞い、
あるいは畏れを祈った。この大樹は人々に会うを無上の喜びとした。
その証しとして サワサワ サワ と風を紡いだ。

65.   興味---記憶---老化
  「興味がなくなれば、記憶もなくなる。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 記憶の要領は興味をもつこと、これは当然であろう。問題は、絶えずいろいろな事に関心をもつ事が難しい点にある。難しいが、老化防止には役立つに違いない。
 ゲーテが、短命な時代に八十三歳近くまで生きて、最後まで活躍できた原動力は、彼の多様で旺盛な関心にあったのであろう。
 しかし、物忘れを恐れない事も大事だと思う。コロッと忘れてしまったような事柄は、裏を返せば、関心をもつに値しない些事なのだ。
 しかし、些事かどうかをどうして決めるのか。忘れた事は些事と言っていいのだろうか。そうは言えまい。僕はしばしば大事な事を忘れる。後で、後悔する。後悔するのは、忘れていた事を思い出した時であるが、その時は後の祭りである。
 しかし、まあ、忘れたら、気にせず、自己嫌悪などに陥らず、さらっと生きる事に心がけようと、最近になり思っています。しかし、そうすると、老化が早くなるのでは・・・。矢張り、興味津々の日々を送らねばならないのではないかと、ゲーテの言葉に頼りない蘊蓄を傾けながら、思う次第です。

66.  あかとんぼ
   「夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か」
 三木露風作詞の童謡、「あかとんぼ」、四番まであるんですが、全部歌えます?全部歌える人は多分少ないのではないでしょうか。人々が歌わないからか(?)、あかとんぼが日本の秋空から激減しているそうです。
 八ヶ岳東山麓の美しの森で採集調査したところ、10匹足らずだった、97年までは100匹以上採れた、98年ごろから減り始め10分の1になった、大阪の金剛山や神戸の六甲山でもここ数年めっきり減った、との記事があった。
 「アキアカネは暑さが苦手。・・・南関東では6月下旬に羽化するが、この時期の気温の上昇のため暑さにやられてしまう個体が多いのでは・・・」と、温暖化や異常気象が原因と指摘する専門家も居る。
 あるいは、「コシヒカリやアキタコマチなど・・・早稲品種の田植えは4月ごろで、従来より1ヶ月早く、そのため一時田圃から水を抜く中干しも1ヶ月早く5月下旬ごろに。これがアキアカネのヤゴを直撃するのでは」と分析する専門家も居る。
 いずれにせよ、人間の都合があかとんぼの受難の原因であることに間違いはない。
 4番まで全部歌える人々が増えたら、あかとんぼも戻ってくるかもしれない。 
 一、夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か
 二、山の畑の くわの実を こかごに摘んだは まぼろしか
 三、十五でねえやは 嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた
 四、夕やけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおの先

67.   ふるさと
   ふるさとの山に向かひて
   言ふことなし
   ふるさとの山はありがたきかな

   汽車の窓
   はるかに北にふるさとの山見え来れば
   襟を正すも

 この啄木の詩に初めて接した時のことを思い出す。あの頃は、啄木の山が有名な岩木山であるからこそ、彼はひとしおの感を抱いたのだと思った。だが、今はそうは思わない。他郷の人から見ればどんなにつまらない山であっても、ふるさとの山には幼い日の思い出が浸みついている。啄木の山がたまたま岩木山であって、汽車の窓から臨み見えたのであって、名もない山でも啄木は同じ気持ちで詠んだに違いない。僕もふるさとを離れて久しい今、そう思う。
 ふるさとは確かに実在するものに相違ないが、永く離れている者にとって、心の中で美化され育まれてきた一種観念的な存在でもある。永く離れていればいるほど、空想の部分が膨れあがり、ふるさとは温かみと輝きを増し、懐かしさに充ちたものへと変わっていく。子供の時の「山の神」行事が限りなく懐かしい。松明を掲げて夜の山を駆け巡った心地よさは、他に喩えるものがない。
 誰にでも在るふるさとを僕が今日いつもよりも愛おしく懐旧するのは何故だろう。 この何故だろうに応えようとするのは無粋というものだ。 

68.   福永武彦『玩草亭百花譜』
 故・福永武彦の画文集『玩草亭百花譜』を気の向くままに見る。この作家が死の直前まで描き続けた野の花の写生集である。
 ナデシコ、オミナエシなどの絵がある。信濃追分を吹く風の音が聞こえてくるようだ。林道に咲くマツムシソウもクサアジサイも不思議なほどの清澄さを醸している。野の花を友にした著者は、スケッチに心を遊ばせ、小さなものの命を見つめることで肉体の苦痛を逃れることが出来たらしい。一枚一枚の絵には、野草の生命力に対する憧憬が感じられる。
 詩人・木下杢太郎にも『百花譜』(一昨年だったか、岩波文庫で復刻)という写生集がある。この木下作品に福永武彦が一文を寄せている。「木下さんは、ひそかにその命の焔の長くは燃え続きそうにないことを知って、最後の夢を写生に託し情熱の一切を傾けたのではないか」と。野の花は二人を最後まで励ましたに違いない。この心境がなんとなく分る歳に僕もなった。
 私の住まいの猫の額には、有り難いことに白いムクゲが咲いてくれている。朝咲いて夕方にはしぼむ一輪一輪の生命は儚くとも、豪雨にも負けない気丈さを醸成している。

69.   或る編集後記(昭和20年『文藝春秋』)
 『昭和二十年の「文藝春秋」』という新書版の本を買った。この年『文藝春秋』は4月から9月まで発行されていない。発行された分の編輯後記に関心をもったので、引用する。

 ○新年号の編輯後記より
 大東亜戦争の天王山といわれる比島の決戦が日日に熾烈さを加えている今日、敵機の空襲はようやく執拗さを増してゆく。晴れわたる祖国の空を仰いでB29の醜翼を見る者、誰か烈々たる敵愾(ガイ)の情心中に滾(タギ)るのを感ぜぬ者があろうか。われら銃後の健闘が直ちに主戦場比島に繋がることを痛感せぬ者があろうか。事実はあらゆる形容詞を一蹴して、われら一億を真の野戦へ起(タ)たしたのである。戦わん哉。戦わん哉。

 ○二月号の編輯後記より
 今や全国民の熱願をこめて、比島戦は開始された。粛々として動かざるわが主力が、迅雷の行動を起こす時をわれ等は刮目(カツモク)して期待しているのである。米兵の鏖殺(オウサツ)、ただ鏖殺あるのみ。敵をして出血の夥大(カダイ)に悲鳴をあげさせるまで、われ等銃後の生産陣は一刻の懈怠(カイタイ)も許されないのだ。

 ○三月号の編輯後記より
 われわれは今こそ前線に繋がる悦びを持つ。グラマンの跳梁を抑えて大空を乱舞する友軍戦闘機群の爆音。校正室の窓ガラスをビリビリ震わせて咆哮する高射砲の轟き、そして異様なる音響をたてて落下する銃弾に破片――これが戦場でなくて何であろう。今まで銃後と前線との緊密さについて、しばしば口に叫ばれ筆に書かれたが、それらの言葉が真実であればあるだけ、それの伴う実感には時に空白なるもののあるのは否定し得べくもなかった。銃後国民の本当の肚(ハラ)の底から出るべき決意と行動が、いつの間にか空転し、空念仏に終わるの撼(ウラ)みさえ乏しくはなかった。しかるに一度硝煙が本土にわき上るに及んで、我等の衷心から覚える勇躍感はどうであろうか。遅疑すべく何物もなく、今や我等の全存在はこの大みいくさの戦場にしっかと立ちはだかっているのである。前線将士と同じ誇りに立ち同じ苦難と歓喜を頒(ワカ)ち合う今日の事態を、我等は敢闘一本に貫くことを誓い合おうではないか。

 ○十月号の編輯後記より
 三月号以後の空白、この間の感慨はことさらにこれを省略したい。四月号は編集終了直後五月二十三日印刷所で焼失、ただちに代行印刷所を選定しその再編輯もほとんど成ったところで終戦の御詔勅を拝受した。終戦と同時に急遽立上って作製されたものが本号である。
 「日本人の大半は一度として自由を拘束されざる出版というものを経験した事がないのである。従って厳重な監視下にあった出版が民主主義的な特権を享受する出版へと移行するのは容易な業ではなかろう。日本の編輯者は各自が印刷するものについて慎重に考慮し、熱狂の余り無意識のうちに自由の域を越えて放縦の世界へと足を踏入れることのないようにせねばならぬ」と、在る米週間時評家が述べているそうである。終戦直後の寄稿を掲載した本号を一読すれば、人々が次々にたぎる憤怒と反省を自ら制御し難きままに打(ブ)ちまけている荒い呼吸づかいを紙背(シハイ)に聞くのである。編輯者に止まらず、一際の日本人はただいま「自由」の風圧下に自失していると云うのがあらゆる面での真相である。
 昨日迄一億総決起、本土決戦を強調したアナウンサーがその口調と音声で今日は軍国主義を忌憚なく指弾し民主主義を高調している。アナウンサーは人格ではなかったのだ、機械なのだ、と市民は云う。耳を塞いでこの言葉を聞かずに過ごす資格を我々は持たぬ。我々の過去の道は実にジグザグであった。あらゆる強要に対して家畜の如く従順であった。従順である以上に番犬の役をかって出た者もあった。今日の侮過(ケカ)の激しさを役立てねばならない。

 ○十一月号の編輯後記より
 敗戦の痛苦は、いまやっとはじまったばかりである。・・・
 一人の義人あるなし、戦いの直前にかく嘆じたわれわれは、この惨憺たる敗戦の今日、再び同じ嘆きを発せずにはおれない。到る所に見る頽然たる人心の荒廃と麻痺なり。
 われらは天下の声に和して、率然と「自由」に晏如(アンジョ)たるを得ない。あふれ出るわれらの涙で洗い清め上げられた「自由」を、幽かに光りと仰ぐものなり。

 ○十二月号の編輯後記より
 われら日本国民の忘れんとして忘れ得ざる昭和二十年を旬日のうちに送らんとするに当たり、読者諸氏の感懐や如何に!! 我等編輯同人等しく無限の悲愁と衷情を籠めてこの[註:昭和二十年の]最終号を諸氏の机辺に贈るものである。
 痛烈なる自己革新のなきところ、輝かしき前進はない。敗戦以来、我々は何処に痛恨骨を噛む如き残恨と贖罪の文章に接したであろうか。あるものは比比として表層的な民主主義への転身謳歌のみである。かくてわれらは真の民主主義に徹することなく、再び世界の舞台に乗り出し得ると思っているのであろうか。
 再建日本に近道はない。日本知識人の叡智と友愛を信じつつ、この新たなる苦難の歳をわれら自らの手によって切り拓くことを、相共に誓い度いと思う。

 (『文藝春秋』に限ったことではないのだが、戦前と戦後との編輯後記がいかに異質なものか!仕方がなかったとは言え、その変わり身の早さ! 変わり身の早さが、戦後5年の朝鮮戦争特需で日本がぼろ儲けし金権体質を露呈しても、無反省につながったのではないか。それ以降、民が主という民主主義は日本に根を下ろしたのであろうか。)

70.   死ひとつ
 昨日、書店で文庫本を買って帰宅したら、玄関の真ん前でアブラゼミが一匹仰向けになって死んでいた。四十分ほど前には見られなかった光景である。濃い茶色に黒い斑点模様の羽根は裏から見ても同じである。 
 なぜこんな人工的なところで死んだのか。生木の下とか草の中とか、ふさわしい死に場所があったであろうに。死に場所を選ぶ余裕がなかったのであろう。一生懸命に鳴き続け力尽きたのであろう。アブラゼミの中にはは鳴くところもあまり選ばないのが居る。軒下とか外柱とか、乾ききった材にとまって鳴くのが居る。生木にとまって鳴くのなら多少の湿気もあり過ごし易いだろうが、軒下とか外柱では鳴くのも鳴きにくいのではないだろうか。そんなアブラゼミが一匹、何にも拘泥することなく玄関の真ん前で死んでいた。
 僕は死んでいるアブラゼミをそのままにして、家の中に入り汗を拭き麦茶を飲み、猛暑にあてられた身体を労わった。死んだアブラゼミは死ぬ前に身体を労わるということをしなかっただろう。そのことを思うと、僕の身体がほんの少し震えた。動物としてはアブラゼミも僕も同じなのにと思った。仕方の無いことだとも思った。僕の脳裡を占めたのは、死ひとつだけであった。

71.   詩人・尹東柱『空と風と星と詩』
 尹東柱(ユン ドンヂュ)、創氏改名させられて平沼東柱。戦時下、立教大学そして同志社大学に留学。祖国解放について密談したとの嫌疑で特高によって拘束。1945年2月福岡刑務所で獄死(27歳)。死の前に九州帝大の医師によって特攻兵の士気を高揚させるための試薬を注射されたとの説あり。死後、詩人として認められた。

    序詩

 死ぬ日まで天を仰ぎ
 一点の恥なきことを
 葉群れにそよぐ風にも
 私は心を痛めた
 星をうたう心で
 すべての死にゆくものを愛さねば
 そして私に与えられた道を
 歩みゆかねば

 今宵も星が風にこすられる    (1941年11月20日)

 この詩は高等学校の教科書にも載っていることもあり、知る人も案外に多いかもしれない。同志社には詩碑も建立されている。30年ぐらい前に初めてこの詩を読んだとき僕は戦慄を覚えた、その稀有な殉情に。

 「序詩」は、死後刊行された詩集『空と風と星と詩』の冒頭におかれた。
 この詩集に収められた詩の多くはハングルで書かれた。日本統治下でハングルで詩を書くという事は何を意味したのであろうか。
 仲のいい彼の従兄弟・宋夢奎とは生地も絶命の地も同じである。二人の希求したのは朝鮮の独立であった。政治活動家の宋に彼は密かに憧れの念を抱いていたふしがある。政治活動に入れないことを密かに恥じていたふしがある。しかし、東柱は暗喩としての果敢な政治活動をしていたと言える。朝鮮語廃止の時代に、あくまでも母国語で書き続けたという事実に凄みがある。しかも、詩である。権力が最も恐れるのは言語芸術である。意味把握の難しい詩という暗喩こそを権力は憎悪する。だから、必死になり日本語に訳させた。終戦時に焼き捨てられた詩もあった。
 このような時代に詩を書くこと自体が芸術的抵抗である。反権力の抵抗詩を書いたという事ではない。詩作が、それだけで抵抗なのである。
 東柱は内向的、非社交的な性格であった。政治活動をできない事を恥と捉えていたと思われる。彼の恥はとてつもなく奥深いところに根差していた。暗闇の時代にあって、母国民としての殉節を貫く事を信条にしていたからこそ、絶えざる励ましと慰めを求め、「天を仰」がずにはいられなかった。「天を仰ぎ一点の恥なきことを」誓わずにはいられなかった。彼はそういう詩人であると思う。
 (先頃ようやく岩波文庫に入り、漸く多くの人に知られることとなった。)

72.  認知症予防の6カ条
少しだけ関係していた特別養護老人ホームから毎月送られてくるパンフレットに、
【認知症予防の6ヶ条】なる具体的な提案が載っていた。
 ① 活発な生活や運動をして筋力・体力を維持・増進しよう !
 ② しっかりした食事で活動に必要な栄養をしっかり摂ろう !
 ③ 栄養をしっかり摂る為に、口の健康を保とう !
 ④ 家に閉じこもることなく外出し、気分転換しよう !
 ⑤ 人と交流・会話して楽しく過ごそう !
 ⑥ 人と会うことで刺激を受け適度に緊張感を持とう !

 はて、さて、退職した後、僕はこの6ヶ条にだいぶん抵触しているようだ。気をつけなければ。本欄をお読みの方の中にも、もしかしたら例えば①をお読みになって、ああ、と思われる方も居られるかも。
 
73.  フランク「ヴァイオリン・ソナタ」
 フランス音楽が苦手の僕にも例外的に好きな曲がある。フォーレとフランクは若い時からしばしば聴いている。中でも、フランクのヴァイオリン・ソナタは好きを通り越して、この曲を弾きたいがために、ヴァイオリンの猛練習をしたことがある。(今は全く弾けない。) 何処に魅力があるのか。ドイツの古典にのっとった構成を堅持し、その上でフランス風な感覚が楽想となっているが、その感覚が極度に純化されている、そんなところに魅力の源泉があるのではないかと思う。
 19世紀最後の四分の一世紀に、ブラームスのヴァイオリン・ソナタと並んで一般に高く評価されているのは、豊かな旋律形態と、和声の色彩の豊かさ、説得力の強い形式の故であろう。第一楽章は4小節のピアノの前奏に続いて、何とも美しく感動的な主題が始まる。この感動をどう表現すればいいのか。この品の良さは、白い服の女性が、少しだけ、ほんの少しだけコケティシュに、透き通るような森の中で舞っている、そんな光景を思い浮かばせる。これは、第二楽章の一種のスケルツォと対照的である。第三楽章は幻想曲風で、第四楽章はカノン風な主題で、対位法を完全に使いこなしている。もったいぶった表現主義に陥ることなく、古典的楽想とロマン的楽想が融合している。
 この曲が好きだという人が多いと聞く。人は何かしら共通感覚というものを共有しているのかもしれない。

74.  漂泊者もしくは命について
   年たけて
   また越ゆべしと
   思ひきや
   命なりけり
   さやの中山
と西行は詠んだ。「命なりけり」とは「命あってこそのことだ」の意味。ここには老いへの感慨があり、同時に自分の命をいとおしむ心境が詠われている。
 
 芭蕉は、おそらくこの西行の詩を思いやり、
   あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
   此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
と詠んだ。芭蕉にとって命とは、燃え盛るものであるとともに、沈潜するものであったようだ。芭蕉の「命」には西行の「命」が受け継がれているように思われる。漂泊者の命を思慕していたのであろう。
 
 私どもは誰だって漂泊者という命運を逃れ得ない。そのことを自覚するか否かは別の問題なのだが。あるいは自覚する時期がいつなのかは別の問題なのだが。 

75.  グリム兄弟
 私はいろんなことを試みてみたいと思ってきたが、試みてもどうしても出来なかったことの一つがメルヘンの創作である。これをするには少々の知識では無理で各地の伝説などを収集する根気が不可欠である。グリム兄弟が多くの人々から聞き集めたメルヘンには民衆の心が生きていると言われる。
 兄ヤーコプ弟ヴィルヘルムは、苦学の末、良き師にも恵まれて文法学、歴史法学、比較言語学、神話学の世界的創始者になっただけではなく、言論の自由を訴えてゲッティンゲン大学教授の職を追われても国王の違憲を弾劾した実践的な正義の人であり、巨大な「グリム大辞典」の編集を始めた。後に東西分裂の最中にも旧東西ドイツの言語学者たちは協力して、この大辞典を完成させた。
 二十歳という若い日に、法律学徒の二人がメルヘンを集めるようになったのは、言葉と祖国への愛だったと言われている。時は1806年、ナポレオンの侵攻によって、八百年の歴史を誇る神聖ローマ帝国という名のドイツが崩壊した年。「ドイツの空が屈辱に暗く雲っていたとき、私たちはドイツの言葉にドイツの心を求めたのです」と、後にベルリン大学に招かれたときに語っている。メルヘンはお伽噺ではないのだ。
 話は変わるが、それから約130年後とんでもない人物が現れる。ヒットラー。グリム兄弟が築いたドイツの心を台無しにする野望を実現し、その後ドイツは混迷状態に入る。東西ドイツが統一されたのは1989年だったか、崩れるベルリンの壁の上で踊る若者たちを見て、当時の首相コールは「今は踊るのもよい。これからが問題だ」と言ったのを覚えている。
 何故グリム兄弟のことを記したかと言うと他意はないのだが、グリム童話選を読んでいて、メルヘンの奥にあるものを掴みたかったからである。

76    モーツアルト vs. ベートーヴェン
 夕刊に興味深い記事が載っていた。脳生理学者の解析によると、モーツアルトはベートーヴェンより絵画的だというのだ。
 精神活動の際に発生する脳波の一つ「ベータ波」が音楽を聴いてどう変化するか、千分の2秒刻みで解析することに成功した。その結果、ベートーヴェンの「田園」を聴いた場合、脳の最前部にあり、意思決定や理性を司る「前頭前野」がまず反応し、その後、右脳側面の「失音楽」という領域と前脳前野が千分の16~18秒の周期で交互に活性化していた。「失音楽」は音楽を聴く際に特徴的に作用する場所とされ、損傷を受けると合唱や演奏がうまくできなくなるそうだ。
 一方、モーツアルトの「交響曲40番」を聴くと、前脳前野が反応するまでは同じだが、その後は、画像を見たりイメージを思い起こしたりする際に動く後頭部の「視覚野」と前頭前野が交互に活性化した。周期は同様に千分の16~18秒だった。
 この科学的解析は僕にとっては意外な結果である。両方の楽曲を何度も聴いているが、科学的解析とは正反対の印象をもっている。音楽は謎めいた「生き物」である。科学的解析を許すようなものだろうか。
 脳生理学者氏は「今後、周波数やリズムと、脳を活性化する部分の関係が解明できれば、特定のイメージや感情を呼び起こす曲を「設計」できるようになるのでは」と話しているそうだ。科学万能を信じるのも程ほどに、というのが僕の考えなのだが、僕の考えを超えていくのが科学なのかもしれない。しかし超えて欲しいとは一向に思わない。 

77.   金子みすゞ
 もう40年も前に、金子みすゞという詩人の名を聞いていたのだが、わずか二十六歳でこの世を自ら去った女性に畏れをなして、読まず知らずで来ていた。が、5、6年前に気を取り直してと言うと大袈裟だが、読んだ。大正十五年の『日本童謡集』(童謡詩人会編)には、北原白秋、西條八十、野口雨情、三木露風、泉鏡花、竹久夢二などとともに、みすゞの詩が二編選ばれている。彼女の詩をひとつ。

   繭と墓
  蚕は繭に 
  はいります、
  きうくつそうな 
  あの繭に。
  けれど蚕は
  うれしかろ、
  蝶々となって 
  飛べるのよ。 
  人はお墓へ 
  はいります、 
  暗いさみしい 
  あの墓へ。
  そしていい子は 
  翅がはえ、 
  天使になって 
  飛べるのよ。

みすゞは早世したが、彼女にはその詩とともに翅がはえ、彼女は天使のように飛んでいる。

78.    胸中にしまっておけばいいものを・・・
 一ヶ月余りで今年もまたあの日がやって来る。僕の気持ちでは本当は胸中にしまっておけばいいのですが、記した後またしまいます。

    コレガ人間ナノデス  原 民喜(「原爆小景」より)
  コレガ人間ナノデス
  原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
  肉体ガ恐ロシク膨張シ
  男モ女モスベテ一ツノ型ニカヘル
  オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
  爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
  「助ケテ下サイ」
  ト カ細イ 静カナ言葉
  コレガ コレガ人間ナノデス
  人間ノ顔ナノデス

 広島出身の原民喜が大正13年に上京して以来、広島に住んだのは昭和20年1月から昭和21年4月にかけての一年数ヶ月だった。あたかも運命に導かれるかのように広島に帰り、原爆に遭遇した。代表作『夏の花』(原題は『原子爆弾』であったが、GHQの検閲を恐れ、掲載が見送られられたという経緯がある。)などを発表。昭和25年6月朝鮮戦争が勃発。民喜は人類の将来に対する暗い予感と戦争に対する抗議が届かない無力感に襲われる。翌年3月13日自死。享年46歳。

79.   病むこと
 51歳の時に大病というのか急病というのか、とにかく一歩間違えば彼岸にいく病を得た。それ以来、投薬を続けている。体調はいたって順調ではあるが、順調であるように思えるだけで、病んでいる事は事実のようだ。
 近頃思うのだが、病は生命のひとつの姿ではないかと。(当然だと言われれば返す言葉がないが。)病む事があるからこそ、生命のバランスを保っているのではないかと。一病息災とはよく言ったものだと。一病であればいいのだが。
 病んだとき、例えば風邪で寝たぐらいのときでも、風の音に耳を傾け、流れる雲を静視する自分に気がつく事があった。
 志賀直哉は交通事故の後養生に城崎温泉へ出かけ、蜂や鼠やイモリの死を見つめる事で死生観を問い直し、『城の崎にて』を書いた。梶井基次郎は肺結核の療養で滞在した伊豆の湯ヶ島で『闇の絵巻』や『交尾』などを書き、自然と生命を凝視する眼を澄ませた。島木健作は修善寺に病身を運び、そこで見た蛙の死に、小さな命に宿る崇高さを感得し、『赤蛙』を書いた。彼は敗戦の翌々日に病死するが、『赤蛙』には、四十二歳という若すぎる最期が未完でなかった事が窺える。
 病んで、場合によっては死ぬ事があっても、自然の本当の姿を垣間見る事が出来る。病む事は生を豊饒にするとも考えられる。僕の場合、問題は、「考えられる」という事だけで、上に挙げたような作家のようには感受性がはたらかないという事である。

80.  歩く
  ある旅人が、詩人ワーズワースのメイドに「ご主人の書斎を見せてください」と頼んだところ、彼女は「書庫ならここにありますが、書斎は戸外にあります」と応えたそうだ。詩人にとっては散策する野や森、風や光こそが書斎だったのであろう。
 『森の生活』を書いたH.ソローは、「僕は一日に少なくとも四時間、普通はそれ以上だが、あらゆる俗事から完全に解放されて、森の中や、丘、野を越えてさまよわなければ健康と生気を保つことは出来ない」と書いている。ソローにとっては、森や野を彷徨することは生きることと同義語であった。
 散策を人生の糧にしていたソローは、また次のようにも書いている。「僕はこれまでの人生において、歩く術、散歩の術を心得ている人には、一人か二人しか会ったことがない」。
 こんなことを記しながら、この2年余り、僕は歩くことを忘れているようだ。足腰が弱くなっている。その分、頭もずいぶん老化しているに違いない。

81.   ヒトの厚み
 生態学の本には興味深いことが一杯載っている。次はその一つ。
 地球という生態システムにおけるヒトの占める位置の量は極めて小さい。
 地球の半径は約6400km。その周囲に生物は貼りつくようにして生きている。生物が生存する範囲は、高さがせいぜい数千m、深さは最深の深海生物が棲む所でも10km。この範囲に生きている生物を全部集めて地球の表面に均等に並べると、その厚みは(驚くなかれ)1.5cmにしかならない。
 しかもその90%は植物で、動物だけの厚みは1.5mmにしかならない。動物の大部分は海の動物で、陸上動物はその250分の1、つまり0.006mmの厚みにしかならない。
 現在、陸上動物の中で量的に最も繁栄しているのはヒトである。勿論個体数だけをとれば、バクテリア、微生物などはヒトより遥かに多い。が、重さを含めて計算すると矢張りヒトが一番である。大雑把な計算によると、ヒトの総重量は約1億6000万トン。これは陸上動物のほぼ4分の1だと推定される。だから厚みにすれば0.0015mmぐらいになる。半径6400kmの地球に対して0.0015mmの厚み。
 この微小なヒトの存在が地球という生態システムに甚大な悪影響を及ぼしてきた。ヒトは生活するためにも様々な有害物質を排出してきた。このまま行けばこの生態システムはいつまでもつのだろう。

82.  ベルリン・ヒロシマ通り
 東西ドイツが統一された後、程ない1990年9月1日、ベルリンのティアガルテン区で或る通りと或る橋の改名式が行われた。旧名を海軍提督の名をとった「グラーフ・シュペー通り」、「グラーフ・シュペー橋」と言う。改名式で区の代表者が次のような演説をした。
 「・・・ヒロシマという新しい橋の名前により、私たちは、最初の原爆投下の影響により今なお苦しみを受忍している都市のことを思い起こすのであります。
 人間精神の比類なき倒錯である原爆は、ドイツ・ファシストたちによって始められた犯罪的戦争の最後に現れました。1933年リュツオフ橋をグラーフ・シュペー橋に改名したのもファシストたちでした。この時、この付近で多くの通りが旧国防軍(海軍)の将校の名前を付けられたことを私は思い起こします。・・・グラーフ・シュペー通りをヒロシマ通りと呼ぶことができるようになったことは、私の深く喜びとするところであります。・・・
 ヒロシマという名前は、世界の人々がナチスのテロにより受けた多くの犯罪と苦痛をも代弁するものとなるのであります。」

 忘れることをよくする僕らに忘れてはならないことがあることを、ベルリン市民の行動が教えてくれている。大戦に対する反省の度合いが、日本よりドイツの方が強いということは、しばしば聞くところである。ヒロシマという名前を通りと橋に付けることによって反省を明確に表す行動を他山の石にしてはならないと思う。

83.  読む度に恥ずかしくなる本
 マルクス・アウレ-リウス『自省録』(神谷美恵子訳)は読む度に恥ずかしくなる本である。
 特に、その初めの方には、例えば「驚かぬこと、臆さぬこと、決してあわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、作り笑いせぬこと。また怒ったり、猜疑の心をおこしたりせぬこと」という句がある。
 このような句の意味するところを我がものとし得ないことは言うまでもない。
 常日頃の座右の銘にするのも僭越である。臆したり、あわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、そんなことばかりしているのではないかと顧みるばかりである。ただ、僕は作り笑いはしないのではないかと密かに思つている。世の中には作り笑いの得意な人もいる。
 しかし、そんな現状も、訳者の神谷美恵子のライ病患者への献身を思うと、たいした事ではないのではないかという気がする。『自省録』の句と神谷美恵子の生きざまとが重なり、僕に迫り来るが、いかんせん、恥ずかしくなるだけである。

84.    はたまたゲーテの言葉

  なんと馬鹿げた日常か!
  私は毎日毎日の仕事を
  いまいましく思う。
  なぜなら、いつだって
  バカげているからだ。

とはゲーテの言葉。
毎日毎日の学校生活もつまらない。だって皆な、勝手なことばかりしているんだもの。
でもね、ゲーテは続けて言ってるよ。

  とはいえ、
  出来る限りの努力をし、
  その日常から得たものが、
  いつかは加算されて
  ものをいうことになるだろう。

そうなんだ。よほどの天分に恵まれていない限り、日々の生活は単調で、時にはやりきれないと感じるだろう。
ゲーテのような天才で、陽の当る道を歩いていたように思われる人でさえ、俗物貴族と顔をつき合わせて仕事をしなければならない毎日を送った。
しかし彼は、出来る限りの努力を惜しまず、自分に対して誠実な仕事をし続けた。彼の偉業は、そうした仕事が加算、累乗された結果なのだ。

85.   武という字
 字を手で書くことが少なくなった。現に今、字を打っている。手で書くことが少なくなればなるほど、字の意味を忘れるのではないか。意味を忘れる前に、字を忘れることもあるだろう。やはり字は書かなければと思いながら、この文の字を打っている。

 近頃気になるのは「武」という字である。或る辞書によると、「武」は「弋(ほこ)と、足の形の止とからできて、ほこをもって勇ましく進むこと」とある。僕はこの意味を直感的にいぶかった。
 そこで、図書館で『漢字学』という古い本を見つけ調べたことがある。それによると、「そもそも武(勇気)とは軍功をたてれば戦いを止めること。それが本当の勇気である。だからこそ「武」という字を見よ。それは止(やめる)と弋(武器、いくさ)とからできているではないか。」武という字の本義は、武器の使用の停止にある。これが本義だと思う。
 本義を忘れた世界の武器をもてる荒武者たちよ、もういいではないか。戦いを止めるがよい。

86.  憲法第九条の源
 乱読に続く乱読で、系統だった知識が一向に身につかないのだが、いろいろと読んでいるときに一つ気づかされたことがある。
 1946年に発布された日本国憲法、特にその第九条の源と言える条約にぶつかった。満州事変に先立つ1928年の、米仏を中心とした「不戦条約」。これに日本も締結・調印している。締結・調印しておいて満州事変を起こしたのは、政府の意向を顧みない関東軍の無理強いであった。それはともかく(とは本当は言っておれないのだが)、「不戦条約」は二つの眼目をもっている。一つは、国家の対外政策の手段としての戦争放棄、もう一つは、各調印国は紛争処理の方法として平和的方法をとる、というものである。即ち、
  戦争抛棄ニ関スル条約
    第一条 締約国ハ国際紛争解決ノ為、戦争ニ訴フルコトヲ非トシ、且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ厳粛ニ宣言ス。
    第二条 締約国ハ相互間ニ起ルコトアルベキ一切ノ紛争又ハ紛議ハ、其ノ性質又ハ起因の如何ヲ問ハズ、平和的手段ニ依ルノ外之ガ処理又ハ解決ヲ求メザルヲ約ス。・・・

 見比べてみるために現憲法の第九条第一項を引く。
   日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 現憲法第九条第一項がその発布の18年前に日本が締結・調印した「不戦条約」に酷似していることは明白である。第九条は戦勝国・米国の単に一方的な押し付けではなかったことが、これによって分る。

87.  若いって本当にいいなあ
 高等学校の美術部を指導していた友人で著名な画家が、生徒たちの絵画展の案内を贈ってくれたことがあった。生徒たちのひたむきな言葉を載せたパンフレットを読んでいると、若いってのは本当にいいなあっとつくづく思った。二、三紹介したくなった。
 「いまはまだ、毎日の生活のなかで、見えなくなってしまいそうな自分を自分自身で確認するために、自分の呼吸を確かめるように絵を描いています。」
 「この世界が儚き共同幻想だったって? そんなこと、ずうっと前から僕は知っていたよ。」
 「私は絵に対してまだ勉強不足だが、描きながらある素晴らしさに気付いた。それは自分だけの線、自分だけの世界だ。自分だけがもっている線と感性で“自分”をだせることは、同一化が進む現代社会では素晴らしいことだと思う。私は“藝術”という海のまだ浅い所を泳いでいる。そしてもっと沖の方を目差す。あまりの深さに溺れ苦しむかもしれない。波に襲われるかもしれない。しかし私は突き進む。そしていつか広い海へと出るんだ。」

 再帰不可能な領域。参った。

88.   心の優しさ
 最近の私の心情を記します。
   心の優しさは、
   正義がもっている領土よりも
   もっとずっと広い領土を持っている。
        (ゲーテ『箴言と省察』より)

 我こそは正義なりと声高に演説するのは、その人を支持する側から見ればすこぶる格好のいいものだと思う。
 しかし、その人に反対する側から見れば、とんでもないことで時としては許し難い行為である。それ故、「正義がもっている領土」なるものは、極めて限定されたものだと言わざるを得ない。
 これに反して、「心の優しさの領土」は、年齢、性別、国籍、民族、宗教、政治的立場などの相違を越えて、広大無辺だと言えよう。
 ゲーテの言う通りだと思う。しかし、現実には様々な分野で「正義」はもとより「心の優しさ」も現実離れしているようにも思われる。
 私はかつて、「正義」について机上で熟慮したつもりであったが、それはやはり空論であった。
 私は大抵の時、「心の優しさ」を持とうと思っているが、この思いと反対の行為に出たいと思う場合もあった。それは、猜疑心の強い蛇蠍の如き輩が陰で私に対して来る場合である。
 思うに、「正義」も「心の優しさ」も、もうひとつ奥深い所で「自然の摂理と合体した人間」としての「優しさ」に支えられていることに気がつかねばならないのだ。

89.  三宅一生さん、NYタイムズで被爆体験明かす、2009年7月14日(朝刊)
 世界的デザイナー三宅一生さん(71)は14日の米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿し、7歳の時に広島で被爆した体験を明かした上で、「核兵器なき世界」を訴えたオバマ米大統領に広島訪問を呼びかけた。
 三宅さんはこの中で、原爆投下時の「真っ赤な閃光(せんこう)に続いて黒い雲があがり、人々が逃げまどう」風景が今も目に浮かぶと記した。「ほかのだれも体験すべきではないこと」だとして、その悲惨さを強調した。放射線を浴びた母は後に亡くなったという。
 これまで、被爆体験については、ほとんど語ってこなかったが、その理由について、「“原爆を生き延びたデザイナー”といったレッテルを張られたくなかった」と説明。原爆について尋ねられることも不快だったと述べ、忘れようと試みたこともあったと明かした。「破壊されてしまうものではなく、創造的で、美しさや喜びをもたらすもの」を考え続けた末、衣服デザインを志向するようになったと記した。
 だが、オバマ大統領の言葉が、「私の中に深く埋もれていた何かを呼び覚ました。今まで、話すことをためらっていたことだ」といい、核爆弾を生き延びた一人として発言するよう「個人的、そして倫理的な責任」を感じるようになった。8月6日に広島で開かれる平和式典への大統領の出席を望み、核廃絶に向けた「現実的で象徴的な一歩になる」と主張。日本が北朝鮮の核の脅威にさらされ、ほかの国でも核技術の移転が進むと報じられる中、「少しでも平和への希望を生むためには、世界中の人たちがオバマ大統領と声を合わせなければならない」と訴えた。
 オバマ大統領はこの年の4月、訪問先のプラハで、核廃絶を希求する演説を行っていた。

90. 『夜と霧』(概要)
 人間はどこまで悪くなれるか。僕の乏しい想像力では把握できない事である。ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』が示唆してくれたように思う。フランクルは1905年ヴィーン生まれのユダヤ系の精神分析学者。ナチス・ドイツのオーストリア併合で、一家は両親、妻、二人の子供ともどもアウシュヴィッツに送られ、彼以外の家族はすべてそこで殺された。『夜と霧』には妻を想う瑞々しい言葉がある。
 「私はアウシュヴィッツにおける第二日目を決して忘れないであろう。その夜私は深い疲労の眠りから、音楽によって目を覚まさせられた。(中略)ヴァイオリンは泣いていた。そして私の中でも何かが涙を流した。なぜなら丁度この日、ある人間は二十四歳の誕生日を迎えたからである。この人間はアウシュヴィッツ収容所のどこかのバラックに横たわっている筈であった。従って私と数百メートルあるいは数千メートル離れているだけだった。・・・この人間とは私の妻であった。・・・」
 ナチスの行為は人間がこんなにも人間的でなくなる事ができるという極限を明示した。そしてもう一つ明示した事がある。極限状態で、人を殺して自分が生きるか、自分を捨てて人を生かすか、という選択に迫られた時、人を死に追いやって自分が生きるチャンスを掴もうとする事に殆ど躊躇しないであろう、という人間の弱さを明示した。
 この本は他にも人間の有り体を示している。再読しなければならない。

91. 「長崎の鐘」 
 「長崎の鐘」の作詞でよく知られている永井隆は、放射線医学の専門家であった。昭和20年8月9日、浦上天主堂近くの病院勤務中被爆。自宅では妻・緑が殆ど骨盤と腰椎だけの姿で爆死。からくも生き残った永井は救護活動に骨身を削る。が、やがて危篤状態に陥る。病床で執筆活動を続ける。「・・・幸いなことには、私の研究したい原子病そのものが私の肉体にある。・・・」(「この子を残して」)
 昭和23年如己堂(にょこどう)完成。このわずか二畳の部屋から、「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命の河」「長崎の鐘」などの名作が誕生。「神の御栄のために私はうれしくこの家に入った。故里遠く、旅に病むものにとって、この浦上の里人が皆己のごとくに私を愛してくださるのがありがたく、この家を如己堂と名づけ、絶えず感謝の祈りをささげている。」(「この子を残して」)
 如己堂から発表される作品や言葉は、世界の人々の胸を打ち、ヘレン・ケラーやローマ法王特使をはじめ、多くの人々が如己堂を訪れた。
 昭和26年、かつての職場である長崎大学付属病院で静かに帰天(享年43歳)。
 言葉なし。今年もまた暑く物憂げな季節が来る。

92.   パーマカルチャーという生き方① 
 パーマカルチャーとは、パーマネント(永久の)とアグリカルチャー(農業)もしくはカルチャー(文化)を合わせた、提唱者ビル・モリソンの造語で、人間にとって持続可能な環境を創り出すための生活のデザイン、あるいはそのシステムの事です。(参照、『パーマカルチャー』農文協刊)
 自然の中にある物と物との関係を知り、その関係に人間の生活を調和させていくという事は、日光、土、岩、木、動物や気候、地形といった自然を織り成す有形無形の要素との関係を損なう事なく利用していけるように人間の生活を見直し、設計し直す事で、自然に逆らうのではなく、自然に従っていこうというのがパーマカルチャーの基本的な考えです。
 つまり、人間の生活を自然の構造にできるだけ近い形にデザインし直す事によって、人間の生活を自然に融和させ、自然が備えている永続性を人間の生活も取り戻す事ができる、とパーマカルチャーは主張している訳です。
 基本的な考えはこのように要約できますが、パーマカルチャーの特徴は、現実的なデザインの描写にあります。すなわち、「植物や動物の固有の資質とその場所や、建造物の自然的特徴やを活かし、最小限の土地を活用して都市部にも田舎にも、生命を支えていけるシステムを創り出していく」ために、自然のシステムを観察し、昔からの農業のやり方に含まれている知恵を、そして現代の科学・技術を活かして家、村、街などをデザインしていこうというものです。なお、「パーマカルチャー」でネット検索すると興味深い情報が得られます。(続く)

93.   パーマカルチャーという生き方②
 そのようなデザインに基づいて、地形や生物資源を効果的に利用し、エネルギーの再利用によってエネルギー消費を減らしていく方法、地域に適した土地の使い方、建物の建て方、農業の方法、菜園の作り方などについて様々な提案がなされている。
 具体的には、ひとつの要素を使うとき、幾つかの異なった視点から分析して、多くの利用法を考える。例えば、防風林を作る場合、牛が食べる餌葉や豆殻となる木、焚きつけや薪になる木を選ぶ。一例として、アカシアの木を選べば、鳥の食べる実を提供するし、葉は家畜の餌にもなり、土壌中に窒素を固定し、花はミツバチに蜜を提供できる。このように、ひとつのものができるだけ多くの機能をもつように考えることが必要だという訳です。
 あるいはまた鶏を飼う場合にも、卵を産む、食用肉となる、羽毛を利用する、害虫を食べるなど、鶏のもつ要素を分析し、それにふさわしい効果的な利用法を考えることが必要だという訳です。
 このように、日常生活の中にある木や水や、家畜、エネルギー、建物などを自然との関係において考えることによって、忘れ去られていた、あるいはこれまで気がつかなかった可能性や機能性が明らかになり、これを利用することによって、より環境に負荷をかけない生活をデザインすることができると、パーマカルチャーでは考えられています。
 パーマカルチャーは、東西、南北を問わず、すでに世界各地で実践されています。(続く)

94.   パーマカルチャーという生き方③
 ビル・モリソンの運営するパーマカルチャー・インスティチュートなど、パーマカルチャー推進の中心となって活動しているところでは年に数回、コンサルタント養成のための講座が開かれ世界中から受講生が集まってきている。
 また、世界各地で経験を積んだコンサルタントたちが講師となりワークショップが開催されたり、定期的な講座が開かれている。ネパールなどでは発展途上国に対する支援の一環としてパーマカルチャーによる農園整備の指導も行われている。パーマカルチャーは宗教や文化の相違を超えて受け入れられているが、その理由はパーマカルチャーが基本的に「成長する結晶」であることに依ると考えられている。
 原子の集まりが様々な法則により結び付けられて結晶となるように、ビル・モリソンが設定した原則により、様々な要素が結び付けられながら、自然の中に組み入れられた人間の生活というシステム=結晶が創られるという訳です。
 多種多様な要素で有機的に構成されたシステムが「環境と共生する」機能と「永続する」性質をもつ訳です。ですから、世界のどこにおいてもパーマカルチャーの実践は可能ということになります。
 エネルギーの利用を最小限にし、資源の無駄使いを無くすために、例えば、石油を消費する大型トラクターの代わりに、ゴミの減量にも協力してくれる牛を使い土を耕し、同時に有機肥料の撒布まで行うことができる。窒素肥料を使う代わりに緑肥やマメ科の木を使う。芝刈り機使わないで、草食のアヒルや背の低いハーブを使う。台所の生ゴミを堆肥に使う。風や太陽光を電気エネルギーに転換する、家の構造や材質などに自然の要素を取り入れる、などアイディアは様々です。実践する人の創意と工夫によって、新しい結晶が次々と生み出されていく、と考えられている。(続く)

95.   パーマカルチャーという生き方④
 日本でのパーマカルチャーの可能性の高い理由は二つある。ひとつは「日本には既にパーマカルチャーがある」という事、もうひとつは「都市が病んでいる」という事である。
 日本の伝統的集落は「地域社会と地域住民の生活と生存を支えるために、土地や環境を活用する事によって形成されたものであり、生活空間の結晶体である」と考えられる。パーマカルチャーでは土地を有効に利用するために、目的、用途に合わせたゾーンを設定する事が基本になっているが、日本ではゾーンによる土地の区分けが、個人レベルだけではなく集落レベルで行われ、居住地域、生産地域、保全地域が自然の地形や気象に合わせて巧みに配置されていた。このシステムを発展させる事によってパーマカルチャーも成長していくと考えられる。
 二つ目には都市の問題がある。かつてビル・モリソンは過剰な放牧によって緑が失われた土地を6年間で実り豊かな森に変身させ、「世界中をジャングルに変える」と言っていた。彼の故郷タスマニアの原生林の9割が既に伐採されているという事がその言葉の背景にあったのであろうが、人間による開発によって病んだ土地をパーマカルチャーによって癒すという強い意志が感じられる言葉である。
 人間の営みによって森を失った場所は病みます。土壌流失や砂漠化が進んで土地は生産性を失い、浄化されなくなった水や空気は汚染されたままになり、人間は健康を損ない、そして何よりも、自然とのつながりを失う事により文化を維持できなくなる、と考えられる。
 現在、日本では都市がそういう状態にある。(続く)

96.    パーマカルチャーという生き方⑤
 日本の都市では、建物の屋上を緑化したり、共生型住宅が造られるなど、都市に緑を取り戻そうという試みが為され始められているが、それらは断片的であり、計画的な都市再生の試みではない。また、都市に住む人々が自分たちの生活を基点としてライフスタイルを捉えなおすところまで到っていない事において、根本的な変革に到る事はないと考えられる。
 今、必要なのは、都市における生態系の修復を行う事である。パーマカルチャーの原則は、「自分の生活を自分でつくる事」、そしてその生活が「自然に優しい事」、「人間に優しい事」、そして「余剰物を分かち合う事」である。この原則は都市においても不変で、都市に住みながら実践する事も可能である。現在、組織されつつある「パーマカルチャー・ネットワーク」の参加者の9割以上が都市の住民であるという事からも分かるように、パーマカルチャーへの関心は農村よりも都市で高いとみられる。この事実は都市生活の改革の必要性を多くの人々が意識しつつある事を示しているように思われる。比較的小さな地方自治体においても町づくりにパーマカルチャーという考えを取り入れようという動きも出てきている。(続く)

97.  パーマカルチャーという生き方⑥
 パーマカルチャーは、お仕着せのマニュアルとして世界を型にはめるのではなく、世界各地で実践していく事によって自ら成長していくと考えられている。したがって、どんな環境にも適応可能で、実践者の創造力と参加の意識を基礎としているため、特定の枠組みを必要とせずに広がっていく事が可能だと考えられている。
 地球規模の環境問題が、リサイクル運動や緑化運動などの、個々の問題解決志向では解決しない事は明らかだと思う。こんな事を考えている時に、パーマカルチャーというキーワードに出会った。個人個人が自分の生活を見つめ直し、自分の生活の中から自然と調和した生き方を自分なりの方法で創造していく事によって、環境と共生する人間社会の実現が可能となるのではないか、と考えた。勿論、環境破壊がここまで進んだ状況では、この考えは楽天的にすぎる。だが、出発点が自分の生活を見つめ直す事にあることは言うをまたないとも考えられる。
 さて、私が私自身の生活を見つめ直せば、パーマカルチャーの推進に役立つところがあるだろうか。これは、なかなかの問題である。他の人よりエネルギー消費量は少ないかもしれない。だが、私個人の生活全体としてはどうか、即答はできない。(了とします。)

98. 「女性が世界をリード」ノーベル平和賞の三氏が会見
(新聞より)
 ノーベル平和賞を受賞したリベリアのエレン・サーリーフ大統領(73)と平和活動家リーマ・ボウイーさん(39)、イエメンの人権活動家タワックル・カルマンさん(32)が9日、ノルウェーの首都オスロでそろって記者会見した。
 紛争の解決や民主化に果たす女性の力を評価された3人。「女性が犠牲者とみられる時代は終わった。平和で民主的な世界づくりに参画し続ける」などと語った。
 長期独裁が続くイエメンの民主化を求めてきたカルマンさんは「女性が世界をリードする」と強調。中東で続く民主化運動について、「世界中の独裁者の運命が終わる。(民主国家をつくる)私たちの夢は始まったばかりだ」と話した。
 宗派や民族の異なる女性を束ねてリベリア内戦の終結に貢献したボウイーさんも、「女性が平和構築に果たす役割が認められた」と受賞の意義を説明。「もう世界が女性を排除することはない。技術と能力を認めたのだと女性に語りかけている」と力を込めた。
 内戦で荒廃したリベリアの再建に取り組んできたサーリーフ大統領は「紛争の重荷を背負ってきた女性を代表して賞をうけたい」と述べた。11月に再選を決めており、若い女性の教育などに力を入れるという。

(ノーベル賞選考委員会は世界をよく見ていると思う。三人の女性に万感の敬意を表したい。が、三人の談話は、まだまだ楽観的ではないかとも思う。もっとも、楽観的でないと積極的に活動できないのも事実である。)  

99. 美
 美、
 それは、考えたり反省したりせず
 直接、人間が気にいる
 いっさいのもの
 つまり気高い調和である。
              ゲーテ『箴言と省察』より

 私はスランプに陥るということが少ない輩だと自分では思っているが、それでも時々気が滅入る時がある。そんな時は好きな音楽を聴いたり、絵を観に行ったりする。旅行する時は、ほぼ必ず美術館に赴く。地方へ行く時には、これは必ず焼き物の窯場を訪れる。
 そこでは、理屈ぬきで感動させてくれる「美」に出会う。気高い調和の世界に浸り、考えも反省もせず、ボーとする。
 今年はそんな世界に浸る機会が少い。だから、今年の私は例年より元気がないのかもしれない。

100. 民話の説得力
 私は柄にも無く(?)宮崎アニメのファンです。大抵の作品は読んでいる。初期のものと思われるが、『トトロ』よりは後かもしれない『シュナの旅』という、映画化されていないアニメがある。これは、チベットの民話『犬になった王子』が元になっている。穀物をもたない貧しい国民の生活を憂えた或る国の王子が、苦難の末、竜王から麦の粒を盗み出し、それがために魔法で犬に変えられてしまうが、ひとりの少女の愛によって救われ、ついに祖国に麦をもたらすという民話である。王子や少女の姿は、『ナウシカ』などの主人公とそっくりに描かれている。
 現在、チベットは大麦を主食としている唯一の国だが、大麦は西アジアの原生地から世界に伝播したそうだ。だから、王子が西に向って旅をしたというのは歴史と符号しているとも考えられる。ただ、この民話は本当にあった出来事の描写というより、チベットの人々が農作物への感謝を込めて生み出した、優れた物語だと考える方が夢がある。その方が、民話に説得力がある。
 私ども、都市部に住む者は農作物への感謝を忘れてはいないか、と気がかりになった。気がかりになったが、ただそれだけのことだった。こういったことについて、どうも鈍感になっているような気がする。ダメだなあ。

101. 大岡昇平『野火』(初版(1954年)(概要)
 なぜ私は食人をしなかったのか
 飢餓で死ぬに極った臨界状況で
 「俺の肉を喰ってもいいぞ」と
 言い残して逝った見知らぬ友兵
 私は右手で
 彼のやわらかい肉をさわった
 食べる意図を自ら感じた

 ジャングルの奥深い木々がざわめいた

 私の左手が右手を捉まえ
 止せ と
 言った 弱々しい声だった
 しかし至上命令のように響いた

 私は敵兵に捉まってもいい
 とにかく水が欲しい 水を渇望して
 捉まるのを覚悟の上で草叢を
 川を目指して歩いた
 途中 肉片のない人体があった
 水にありついた

 あの至上命令を下した左手は何だったのか
 人智を超えた何者か・・・
 それは道徳といったものではない
 左手に神が宿ったのか という考えに
 一瞬とらわれた 宿ったかもしれない 
 だが脳にまで達しない神だった
 敗残兵として生き残った私にわからぬ
 正体不明の畏怖すべき何者かだった

 ジャングルの道なき草叢を逃避しながら
 疲れきっている私は疑問に思った
 自分が生きられるという感じは
 何処に由来するのか と

 私には知識があるという自負があった
 だが知識は役に立たなかった

 陥落した兵舎から水を求めて
 山を下る途中
 木の根を枕に 喉の渇きにうなされながら
 不覚にも眠ってしまった

 たぶん夢の続きであったろう
 或る考えが浮揚した

 生きられるという感じは
 生きてきた現在までの行為を
 明日もまた続けられるであろう という
 不定な見込みに由来する と

 そう 不定なのだ
 すべては不定なのだ

 私の疑問は儚くも氷解した
 だが自分の考えだけが堅牢無比であると
 戦争の真っ只中でも
 平和を気取っている今日でも私は確信した

(作者の体験に根差した戦争文学の根幹は一応の平和裡でも息づいている。恐ろしいことではあるが、そこから私どもには学ぶべきことが多くある。)

102. 死についての言葉拾遺
・ あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生はやすらかな死を与える。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)
・ 死ぬことは恐ろしくでっかい冒険だろう。(バリー『ピーター・パン』)
・ 生あるものは必ず死す。この世を経て永劫に赴くのは人の世の常というもの。(シェークスピア『ハムレット』)
・ 悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居るという事であった。(正岡子規『病牀六尺』)
・ 死んだ後、人間は神の裁きをうけねばならぬ。この裁きに対する恐怖が当時私に、自殺を拒ませたことがよくあったのです。(遠藤周作『宗教と文学』)
・ 自然の美しいのは、僕の末期の眼に写るからである。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)
・ 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何(いか)ナル官憲威力と雖此二反抗スル事ヲ得ズト信ズ。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。(森鴎外)

 気になった言葉を順不同で記しました。まだまだあります。人は何故自分の死を気にするのでしょう。人生最後の最大の問題だから、という訳だからでしょうか。私はと言えば、私の死後、家族が残っている場合は、「あとは頼む」と言うぐらいでしょう。

103. 育ちゆくもの
 ひとが、何かしら目的を持ったとき、現在の能力だけでそれを達成しようとすると、まもなく行き詰まってしまう。そんなとき、場合によっては自暴自棄になったり、あるいは方向転換を考えてしまう。
 見通しをつけて事に着手するのは大事だが、人間万事に完璧な見通しの分かるはずはなく、先のことは分からないが、このことは是非やり遂げたいと切に考えるときは、何を頼りに前に進めばよいのか。
 夢というか希望というか、そんなものを設定できたら、自分の中の「育ちゆくもの」を信頼して進む他はない。進む道に困難が立ちはだかれば、根気を奮い起こさねばならない。素朴に何の衒いもなく愛を込めて奮い起こさねばならない。「育ちゆくもの」に信頼を込めて、そして出来ることなら、情熱を傾けて、一歩一歩前に進むことだ。それが若人の特権というものだ。
 私の中に未だ「育ちゆくもの」があるとすれば、もしあるとすれば、それに促されて、残された日々を歩み行かねばならない。

104.  生きる
 在りし日の青春を 
 在りし日の白き記憶として
 今も続くしがらみを 
 これからも続く灰色の宝物として
 逝ってしまった人たちを
 永遠に輝く金色の友人として

 私は生きる

 生きとし生けるすべてのものに
 緑色の万感の思いを捧げ
 いずれ来る最期への道に
 青磁色に光る畏怖の念を抱き
 やがて失われる世界は 
 それでも 有り余るほどの色に満ちて

 私は生きる


105. 芭蕉の秋
   此の道や行く人なしに秋の暮

 或る連句の席でこの句は詠まれたが、その時もう一句、

   人声や此の道かへる秋の暮

もつくり、「此二句の間、いづれをか」と門人らに示したという。良い方を発句にしようというのである。それで、前句の方が良いということになって、これを発句として半歌仙(十八句の連句)が巻かれた。
 しかし、この二句はどちらが良いというものではなく、芭蕉の内面では等量の重みをもっていたのではないか。人の群の中で生きることと、単独者として生きることは、芭蕉にとっては二者択一の問題ではなかったと思う。人の群の中で生きながら、なお単独者として己の道を追求したのが芭蕉だったと思う。
 芭蕉でなくても、秋には人の群の中で単独者でいる己を見出すこともあろう。

106. 秋は風も
 秋というと当然、菊の花や紅葉が連想されるが、秋の風もまたいい。秋の奥行きを深めているのは風だと思う。初秋の爽やかな風から次第に冷ややかな風に移る、その移り行きが秋を深める。
 風に色があると留学生に話したことがある。

   石山の石より白き秋の風(芭蕉)

風についてこんな句を詠めるのは日本人の特質ではないだろうか。
色があるからではないが、与謝野晶子に

   おばしまにおもひはてなき身をもたせ小萩をわたる秋の風見る

という一首がある。「風見る」という感覚をもてばこそ、秋の彩りをより深く味わえるのだと思う。
 風が見えるというのは勿論皮膚感覚ではない。かと言って、視覚でもない。思うに、心象風景だ。だから、「白き秋の風」、「小萩をわたる秋の風見る」などという表現が生まれる。

107. 0.1%
 地球は確かに「水の惑星」ですが、その99.9%は人間が飲めない水です。わずか0.1%だけが人間がすぐに使える水なのです。
 また空気中の二酸化炭素は現在0.35%ですが、これがもう0.1%増すと地球の気候変動は大変なことになります。
 0.1%の水も0.1%の二酸化炭素も森や山の状態に左右されています。人類が21世紀に、またそれ以降にも、もし持続可能な発展を遂げようとするならば、森や山とどう共生するかが欠かせないテーマです。
 木々の葉の力の、その偉大さに改めて驚かされます。サクラでもスギでもカツラでも、あの葉で水と二酸化炭素(と土壌)から太陽エネルギーの助けで太い幹を創ったのです。液体と気体から、あの葉で固体を合成したのですから、殆ど無から有を生じさせたようなものです。しかも、人間が物を製造すると、常に処理に困る廃棄物がつきまとうのに、葉は炭水化物を造る時に酸素を排出するだけです。そして当然、人間はその酸素がないと生きることができません。
 水と二酸化炭素に関する0.1%という数値は、この上なく貴重な地球の存在の重みを象徴的に表しています。そして0.1%という数値と森の営みとには切っても切れない重要な関係があります。木の葉の低力と価値には今更ながら驚かされます。私どもは、森や山からの目に見えない恩恵を普段からもっと心に留めなければならないと思うのです。

108. 木の「昼寝」
 深い森林の上層部を「林冠」という。そこでは枝葉が繁り光合成が盛んだ。
 林冠の調査研究の先鞭をつけたのは、今は亡き井上民二だった。この調査研究はその後急速に進み、最近分かった面白い事がある。マレーシア・サラワクと北海道・苫小牧の森林での比較調査での事。
 苫小牧ではイタヤカエデ、ミズナラなど6種、サラワクではナンヨウクスなど2種を調査。日中には光合成が鈍る、木の「昼寝」の仕組みが解明されたという。
 光合成には光、二酸化炭素、水が必要。だが、光が強まると光合成が盛んになり、木の上部への水の供給が追いつかなくなる。葉からの水分蒸発を防ぐために気孔が閉じ、その結果、気孔からの二酸化炭素の摂取量も不足する。こうして、測定された8種すべてで、午前10時頃から午後3時頃に光合成の量が大きく落ち込んでいた。この現象を木の「昼寝」という。5時間もの「昼寝」。うらやましい。
 だが、うらやましいとばかりは言っておれない。「森林、とくに熱帯雨林の破壊は急激で、現状では研究が追いつかない」そうだ。森林破壊が警告されて何十年経つのだろうか。砂漠化や地球温暖化が進む一方だ。「林冠」研究で分かった事は面白い事だけではなかった。

109.  憲法の「憲」
 憲法改定の是非を問うための国民投票法の改定が取り沙汰され、一部で憲法を巡る論議が盛んになっている。そもそも「憲」ってどういう意味なのか。
 憲法といえば、歴史的には聖徳太子の十七条憲法(604年)がよく知られているが、これは官吏らへの道徳的訓戒という意味が強く、近代憲法とは性格を異にしている。
 明治時代の法律家・穂積陳重(のぶしげ)の『続・法窓夜話』によると、国家の組織や統治の原則を定めた根本法という意味で憲法という言葉が使われたのは、明治の初めからだそうだ。法学者の箕作麟祥(みつくり りんしょう)が ‘constitution’ の訳語として憲法を当てたのが最初とされる。当時は、ほかに「国憲」、「律例」、「根本律法」、「建国法」など、様々な訳語があふれていたようだ。 
 数多い訳語の中で憲法が定着したのは、やはり十七条憲法の存在の影響だと推測される。
 『字通』(白川静)によると、「憲」は、目の上に入れ墨をした様子を表した字だそうだ。古代中国では、刑罰として顔に入れ墨をさせられた。それが変じて「おきて」を意味するようになったとのこと。最高法規にふさわしい厳しさをもった字と言える。

 ところで、最高法規の憲法を今、なぜ変えようとしているのか? 次代をになう小学生や中学生や高校生にも明瞭に分かるように説明する義務がエライ人にはあると思う。なにしろ「最高」を変えようとしているのだから。 

110. 井上靖『本覚坊遺文』(概要)
 利休は太閤秀吉の俄なる勘気を蒙り 堺に蟄居の後
天正十九年 聚楽第屋敷の四畳半で自刃した
何故の勘気だったのか
何故に利休は一言も申し開きをせず自刃したのか
勘気の理由は巷間様々に噂されている
大徳寺山門上に利休の木像が置かれたから とか
秀吉の朝鮮出兵に異を唱えたから とか
 私 本覚坊は
十年足らずの間 師利休のお側近くで茶の湯を教わり
師の心意気や立ち居振る舞いに親しんだ者でございます
師亡き後およそ三十年
折にふれて師への思いを胸に養い
縁の人々と師のことを語らい
あるいは 夢の中で師に出会い
追懐してまいりました
今もって判らないことは
師が自刃に到ったまことの理由であります
 東陽坊様の仰せでは
利休どのの茶は凄かったな 茶に命を張っていた
それだけに烈しかった
烈しかったから 命を全うできなかった
死の原因
結局のところは利休どの御自身が招いたことではなかったか
大徳寺の山門事件 あれは利休どのの知ったことではない
わしが太鼓判を捺す
利休どのは茶室以外のところにお座りにはならぬ
 師利休御自身が招いた自刃とは如何なることか
御自分の運命を見透していらしたということか
それはもう お覚悟は常にお持ちであったとは存じます
 『山上宗二記』には
宗易(利休)ノ茶ノ湯モハヤ冬木ナリ と記されております
師は冬木のままで死を迎えなかればならなかったのでありましょう
それだけに 何事にも酔わぬ醒めたお心をお持ちでした
 古田織部様の仰せでは
侘数寄者中の侘数寄者
もうあのような御仁はあとを断ってしまった
一言も申し開きをされず 茶は自分一代でいい
こうお思いだったのか
自分の茶がこれ以上生きて行けぬことをお見透しだったのか
ただ 何が利休どのをそのようにしたのか それが判らぬ
私 本覚坊も同念でございます
その織部様も 如何なる理由によってか自刃なされました
家康公に一言の申し開きもなされずに
織田有楽様の御見解では
織部どのは罪に服したのではない 利休どのに殉じたのだ
 有楽様の仰せでは
何十回 何百回 太閤様は利休どのの茶室に入る度に
死を賜っていたようなものだ
大刀は奪り上げられ 茶をのまされる
まあ その度に殺されている
太閤様も一度は そうした相手に死を賜らせたくもなろう
いづれにせよ 利休どのに肩を並べる茶人は居ない
自分ひとりの道を歩いた 自分ひとりの茶を点てた
 有楽様のお言葉で
今までつかえていたものが流れ出したでもしたように
気持ちがすっきりしました
 夢を見ました 師曰く
死を賜ったお陰で 侘茶というものが
如何なるものか 初めて判ったような気がしております
永年 侘数寄 侘数寄と言ってまいりましたが
やはりてらいや身振りがございました
私は生涯 そのことに悩んでいました
突然 死が自分にやって来た時
もはや何のてらいも身振りもございません
妙喜庵の二畳の席を造った時の初心を思い出すことができました

(題材の扱い、全体の構想、文体、どれをとっても本書は傑作である。
初版は1981(昭和56)年 講談社)

111. メダカからクジラまで
 1950-60年代にドジョウやメダカ、ホタルなどがどんどん姿を消した。しかし、社会の関心は、人の命に直接かかわる水俣病などに向かった。それは或る意味で当然のことであった。何故なら、環境問題の観点から農薬を問題視する風潮はなかったからである。曲がった手や足のしびれや不自由な身体活動を目の当たりにして、有機水銀中毒症の悪弊を糾弾するのは当然であったからである。私も激しい憤慨を覚えたものであった。あった、ではなく、現在も、腹立たしいことに。
 この目の当たりに出来る悪弊とは別に、奇跡の物質DDTの殺虫効果は第二次大戦が始まった1939年、スイスの化学者によって発見され、直ぐに戦争に使われ、戦場でのマラリア退治に威力を発揮した。戦後、それが農薬になった。これで害虫との闘いに勝てると多くの人が思った。
 「違う。それどころか、DDTは鳥や益虫を殺し、さらに人の命まで脅かす恐ろしい毒物ではないのか」とレイチェル・カーソンは『沈黙の春』(1958年、出版は1962年。出版を農業団体などの業界が懸念したが、見かねたJ.F.ケネディが出版に尽力したというエピソードがある。)で書いた。
 『沈黙の春』は20ヵ国語以上に翻訳され、環境問題の深刻さを伝えた。70年に『沈黙の春』が取り上げた残留性の高い有機塩素系農薬や、急性毒性の高い有機リン剤のほとんどは使用禁止になった。日本でも70年代に事実上相次いで禁止された。しかし、汚染は南極や北極にまで広がり、農薬が残留しやすいイルカやクジラからは、おそらく500年経っても消えないと言われている。メダカからクジラまで農薬の汚染は拡散したのだ。メダカは現在、絶滅危惧種に指定されている。 
 以上の事どもを許してきた人の心まで汚染されてきたのではないか。今なお、別の農薬の使用は留まるところを知らないのだから。

112. 「驚き」
 民藝運動の発起人、柳宗悦の本はかつてよく読んだ。ちょっと読み返してみたら、『 心偈 』という書き物に「驚きを抱く者は幸いである」とある。
 思うに、人間の精神的な成長が年齢とともに老化するか否かは、この「驚き」の心を持ち続けることが出来るか否かにあるのだろう。世間には、立派なもの、美しいもの、鮮やかなもの等が確かに存在する。しかし、それを、立派だ、美しい、鮮やかだと受け止めるのは自分の心であって、その心があるからこそ、その存在を認めることができると言わねばならない。その新鮮な「驚き」の心がなくなれば、それらは単にガラクタにしか見えないだろう。
 ああ素晴らしいと驚く、さすがだと驚く。驚くとは出会った物事に対する肯定的評価であり、宗悦によると、「喜び」なのである。そのような心を持ち続けている限り、心は老いることはない、
 と言って良いだろか、私にとって。

113. 寓話表現の不思議
 よく知られた寓話の一つ、「オオカミとツル」を略述すると、
「ご馳走を食べたい両者は互いに食事に招待した。招待されたツルはオオカミの出した平らな皿にうすく盛られたスープを長い嘴でつつくだけ。オオカミは舌で何杯もたいらげた。一方、招待されたオオカミはツルの用意した長い壷に入つたシチューに舌も届かず、よだれも涙に変わつてしまつた。」
 略述すると元の寓話表現のインパクトがおそろしく減るのであるが、この寓話の意味するところは、オオカミとツルは互いに相手の食べ方を忖度した心情的エゴイストだということだろう。
 ところで、寓話表現の面白さは、人や動物、ときには樹木さえもが共に会話をするという非日常を描きながらも、そこに、不自然さが感じられない、という点にある。不思議なのは、そのようなことを可能にする想像力、構想力という能力を僕たちの祖先が太古の昔から持っているという事実である。この能力をいかに使うかによつて、僕たちの未来の明暗がある程度決まると思われる。大国は貧しい小国のことを、政府は国民のことを、甲は乙のことを意を尽くして想像してみることだ。これをしなければ心情的エゴイズムが蔓延するだけだ。

114. 惨禍、もう二度と、2015年6月23日沖縄慰霊の日
 沖縄県は二十三日、太平洋戦争末期の沖縄戦が終結したとされる「慰霊の日」を迎えた。七十年前に最後の激戦地となった糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では二十二日、追悼式の前夜祭が開かれた。戦没者の遺族らが会場に詰め掛け、日本最大の地上戦で犠牲となった二十万人以上の冥福を祈った。
 戦後七十年を迎えても沖縄には在日米軍専用施設の約74%が集中しており、基地負担軽減は依然として進んでいない。
 国籍や軍民を問わず、沖縄戦の全犠牲者らの氏名が刻まれた石碑「平和の礎(いしじ)」には今年八十七人が追加され、合計で二十四万一千三百三十六人となった。
 公園内の平和祈念堂前では午後七時すぎ、「鎮魂の火」が燭台(しょくだい)にともされると、鐘が鳴り響く中で参列者が黙とう。公園には無数のろうそくが並べられ、戦後七十年にちなんで「平和70」の文字が浮かび上がった。
 「どうかこれからも家族を見守ってほしい」。沖縄戦で防衛隊として動員された父親ら家族七人を失った那覇市の宇地原雄孝(うちはらゆうこう)さん(80)は石碑に手を合わせた。
 沖縄戦では米軍が一九四五年春、沖縄本島や周辺諸島に上陸し、激しい地上戦で県民の四人に一人が犠牲になった。
(尚、沖縄慰霊の日は毎年行われている。)

115. 伐折羅像
 夕刊に伐折羅像のカラー写真が載っていた。仏像の類で惹かれるもののひとつだ。惹かれる理由は畏怖の念をもたされるからだ。切手の図案にもなった、あの形相は単に恐ろしいだけではないと思う。新薬師寺の本尊薬師如来を護る十二神像のひとつだが、慈愛に満ちた薬師如来を伐折羅たちが敬愛し護っている。その敬愛が恐ろしい形相に深く刻み込まれていて、敬愛と恐ろしさが、観る者に畏怖の念を与えるのだと思う。
 最近、奈良教育大学の構内に新薬師寺の創建当時の遺構が見つかり、そのスケールは東大寺に比肩され得る程のものだったらしい。
 新薬師寺は背後に春日原生林をひかえ、この寺の少し南には滝坂の道がある。柳生に通じる石畳の道で、その昔、柳生の剣士や荒木又衛門が往来したそうだ。途中には首切り地蔵や朝日観音、夕日観音など、土俗信仰の名残がある。ハイキングコースになっているのだが、この道を始めて歩いたとき、迷ってしまい、柳生へは辿りつかず、聞いた事のない集落に入ってしまった。その集落で窯を築いている無精髭の陶工に道を尋ね、同時に焼き物談義をした。道に迷うのもいいものだと思った。
 話がそれたが、新薬師寺の本殿は元々は食堂(じきどう)なのだが、天平の建築様式を残す貴重な建物である。この建物の姿がいい。屋根の勾配が、後世の寺院のそれと比べると緩やかでゆったりとし、おおらかである。人出の少ない時にこの建物をボーと観ていると、時間の経過を忘れる。忘れた時に我に帰ると伐折羅が眼の前に居た。 

116. 日本の植物絶滅速度は世界の2~3倍
 正確を期すために長文です。「ナショナルジオグラフィック ニュース」June 19, 2014 より。
 日本列島の植物の保全は急務である。そのことを知らせる研究が報告された。日本で維管束植物(シダ、裸子、被子植物)の減少傾向が現状のまま続くとした場合、100年後までに370~561種の絶滅が起こる可能性があることを、国立環境研究所の角谷拓(かどやたく)主任研究員と九州大学大学院理学研究院の矢原徹一(やはらてつかず)教授らが示した。
 植物1618種の絶滅リスクを分析した結果で、その絶滅速度は世界全体の維管束植物で推定されている値の2~3倍にも相当する。国立・国定公園の区域内と外で個体数の減少傾向を比較したところ、公園内では減少傾向が最大で60%程度改善されていることも確かめた。絶滅危機を警告する定量的な分析として注目される。
 国立環境研究所、日本自然保護協会、徳島県立博物館、神奈川県立生命の星・地球博物館、神戸大学、岐阜大学、愛知教育大学、北海道大学、熊本大学、人間環境大学、横浜国立大学、琉球大学、東北大学、九州大学の植物学者を総動員した共同研究で、6月12日付の米オンライン科学誌「PLOS ONE」に発表した。
 動物に比べて植物の調査は遅れがちだ。日本植物分類学会と環境省は、市民も含む調査員約500名の協力で、1994~95年と2003~04年に、維管束植物の個体数分布全国調査を実施した。全国を10キロ×10キロの調査区(4473区)ごとに、調査員が絶滅危惧維管束植物種の個体数を記録した。10年間を挟んだこの2回の調査で、個体数の記録が得られたのは1618種に上った。研究グループは今回、この結果を基に、国内1618種の絶滅リスクを定量的に分析した。全国規模で植物の定量的な絶滅リスクを分析したのは世界で初めての試みという。
 絶滅リスクを見る際、2つの情報を利用した。ひとつは第2回調査時(2003~04年)の個体数(現存個体数)、もうひとつは2回の調査の間での個体数増減(10年あたりの個体数変化率)。個体数変化の平均的傾向が今後も変わらないと仮定して、将来10年ごとの個体数は、現存個体数に個体数変化率を繰り返し乗じて算定した。この計算をすべての種、すべての調査区で行い、種ごとに絶滅リスクを推計した。
 解析の結果、100年後には370~561種の絶滅が起こると推定された。国立・国定公園に含まれる調査区では、個体数の減少防止確率が、公園外を0とした場合に、第一種特別地域で0.22、特別保護地区で0.62となっていた。多くの植物の絶滅を回避するためには、保護区の一層の拡充が求められることがはっきりした。
 ただ、保護区の面積を増やすだけでは、絶滅リスクの低減の効果は限定的なこともわかった。国立・国定公園内で個体数減少が続く要因は、踏みつけや採集が主で、保護区を設置しても影響が軽減されないか、悪化する傾向さえみられた。日本全体では、開発が植物絶滅危機の最大の要因だった。
 研究グループの矢原九州大教授は「全国規模の定量的な植物絶滅リスクの分析は世界で初めてで、国際的に誇れる研究だが、日本の植物の絶滅危機は深刻であることがよりはっきりした。生物の保全効果を上げるためには、それぞれの保護区で、個体数を減少させている要因に応じて、きめ細かい管理が望まれる。将来予測を高めるには、個体数分布を把握する広域調査を継続的に実施する必要がある」と提言している。

117. 民意とは。民藝とは。
 近頃のに限らないのであろうが政治家もしくは政治屋が「民意を大切に」という言葉を使うとき、本人が民意を傾聴してこなかったからこそ、使うのだと思う。民意を知っていれば、殊更に「民意を大切に」と言うのは自己顕示欲の発露に他ならず、知らないのであれば、自己隠蔽の誤魔化しに他ならない。彼らに民意なんぞというものが分かろうはずがないと思う。
 ところで、民藝は比較的はっきりした民意を表現している。民藝については以前に触れたと思うが、おさらいをしておく。「民衆の生活に必要な工芸品」を略して「民藝」という言葉を創ったのは、柳宗悦である。彼と彼の先人と有志については快いが長い話がある。いつかまた書くことにする。で、民藝品を民藝たらしめている特徴は次の6点にある。
 1、無銘品で只の工人の作であること。
 2、素朴で簡素で過剰な装飾がなく丈夫に作られた実用品であること。
 3、量産品で安価であること。
 4、雅趣にこったり、奇を衒ったりしない、自然のあたりまえの姿であること。
 5、地方性、民族性があること。
 6、手仕事であること。
 或る椀なり皿なり花入れなり猪口なりが、これだけの特徴を備えていれば、それらは民藝品と認められ、そこには民意が自ずと表れていると思う。が、現代という時代には民藝品は大抵片隅に追いやられている。雅趣を求め、地方性が情報化のせいでだんだんと無くなりつつある。これでは民意も品薄になるというものだ。

118. Do little !
 古本屋で『ドリトル先生物語』(全十三巻)を見つけた。相当の年代物であるが、比較的安価であった。少年の頃、縮刷版で読んだ記憶がある。買おうかどうか迷ったが、今度にしようと何故か思った。今日買っても、当分は読まないことが分かっているからで、また当分の間売れる心配がないと思ったからである。
 「ドリトル」という活字を見て、あ、そうかと気がついた。今頃気がつくのは遅すぎるのですが、「ドリトル」というのは「do little」ではないかと。そうだとすると、この物語の内容もタイトルに合うのではないかと思った。
 Do little先生は自分からはほとんど何もしない人というか、控えめに生きる人だ。控えめに!というのが、昔も今も求められているのではないかと私は考えた。
 作者のロフティング(1886-1947)は戦場で弾丸に当たって死んでいく人や負傷した人を見てきた人物である。立ち読みしたくだりに次のような話があった。戦争には馬たちも連れられる。馬も死んだり負傷したりするが、人間と違って馬は負傷したら、その場で射殺されてしまう。古来戦争に馬や牛や、その他幾つかの動物が駆り出されるが、彼ら動物は役に立たなくなれば捨てられるか、殺される。それが戦争というものだ。しかし作者は、こんなおかしなことがあっていい訳ではないと考えた人だった。馬を治療する医者が必要だ、と戦争で馬たちのために心を痛めた人だった。なにより、人間のためにも動物のためにも、戦争が地上からなくならなければならないと痛感した人だった。そういう思いから生まれたのが『ドリトル先生物語』であった。
 何をするにせよ、控えめに! というモットーを掲げるのが良いと思った。

119. 「コペル君」
 主人公が「コペル君」と呼ばれるようになったのは、天動説に対して地動説を主張したコペルニクスに由来している。物事を客観的に見る確かな目を養うこと、自分中心に世界を見るのではなく、世界の中に自分を位置づけることの大切さを自覚できる人間として成長してほしいという願いをこめたあだ名だそうだ。
 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を初めて読んだのは、中学生の時だったか高校生の時だったか。一人の中学生の体験と素朴な疑問を知的感動に変換し、その感動を明日に生きる糧へと誘う筆致の見事さは、何度読み返しても色褪せることはない。また、読み易さ抜群の文章だ。
 「へんな経験」と「ニュートンの林檎と粉ミルク」と題された物語では、個人的な経験を一回限りの経験として終わらせるのではなく、その背後にあるもっと大きな仕組みにまで思いを馳せることの重要性が述べられている。デパートの屋上から地上の人々の動きを眺めながら、また「オーストラリア製」と印された粉ミルクの缶を手にして、「コペル君」は如何に多くの人々の営みが自分と関わっているかを実感する。あたかもそれは、一人一人の人間が分子として存在し、しかも、編み目のように結びつきあっているようだと考え、それを「人間分子編み目の法則」と名づける。
 しかし何より本書が時代を超えて訴えてくるのは、その倫理的な姿勢だ。それは人間の勇気について述べたくだりにある。例えば、「勇ましい友」、「ナポレオンと四人の少年」、「雪の日の出来事」、「石段の思い出」では、勇気とは決して勇ましい行為をさすのではなく、苦しみ悩みながらも、それをしっかり見つめ、少しでも自分に悔いのないように行為することであり、不正やごまかしを見過ごさないで、怖れることなくそれに立ち向かう気持ちだ、と著者は語っている。
 この本が書かれた昭和12(1937)年は、盧溝橋事件が起きた年だ。そのような時期に、このような文章を書き続けることが、どれほど困難であり、重い意味をもっていたことか。
 今では岩波文庫で容易に手に入る。若い人に是非とも読んでほしい本だ。

120. 松下竜一『豆腐屋の四季』
(こんなにも静謐な文に出会ったのは久しぶり。
病弱の著者は20代より午前2時に起きて豆腐づくり、配達の毎日。零      細も零細。病身の父。
短歌の習作を随所に置き、四季の生活を綴った青春の記録。朝日歌壇に投稿された短歌は何度も入選。第一位も数々。以下、この本の概略。)

ぼくのつくるものなんか ほんとうは歌じゃないと思っています
歌の型を借りた生活の綴り方
ぼくにとっていちばん大切なのは 日々の現実生活そのものです

日々を誠実に生きて 
せめてその狭い世界の中だけでも懸命に愛を深めたい
自分の仕事を愛することで 豆腐の歌が生まれる
妻をいとおしむことで愛の賛歌が湧き出る

幼い妻について
  今日よりの姓松下を妻汝(なれ)が夜汽車の窓に指書きおり
  老い父の味噌汁の好み問う汝よ我妻となり目覚めし明けに
(267頁に置かれたこの歌に接したとき、それまでの著者の困窮が偲ばれ涙腺がゆるんだ。)

世の中が激動する日々にも 人々は豆腐を食べるだろう
私は黙々と豆腐を造り続けよう
臆病な弱虫の私にはそんなひそかなことしかできない
そんな弱々しい生活から生まれる歌
弱い私はそんなはかない歌にすがってしか生きえない

(だが、こんな歌もある。)
  屈せざる小国チェコを思いつつ真夜凛々と豆腐造りおり
  八月二十一日の夕刊に「ソ連東欧四カ国軍がチェコ全土に侵入」
戦車の前でなお屈することのないチェコ国民
二十九日の新聞には 
チェコ国民に絶望の気運が拡がり始めている と
思えば思うほど寂しい

(この本を底本にした、緒形拳主演のドラマがあったことは知らなかった。
著者の誠実さを概略で暗示することは到底出来ない。)

121. 『往生要集』中、死の看とり
 久しぶりに日本の古典を読んだ。大部の本だからほんの一部ではあるが。源信の『往生要集』(985年)。
 この本は後の浄土思想に大きな影響を与えたそうだが、その核心は「臨終行儀」である。それは往生のしかた、つまり死に方と死の看とり方についての考え方である。そこには、まず病人は無常院という建物に寝かせ、仏像から垂れ下がる五色の布の先を握らせ、仏に導かれて浄土に往く思いが生じるようにはからい、そして念仏の大切さを説き、とりわけ臨死者をケアする看病人の心得をこまごまと説いている。例えば看病人は「病人の気色をよくみて、その場に適した仕方でやりなさい。多くのことをしてはならない。ことばづかいにはとくに意を用い、病人の心をかき乱してはならない。・・・」と説いている。
 解説には13世紀の僧良忠による、死の看とりの決定版とも言える『看護用心抄』についての言及がある。この本は日本最初の看護学原論とも言え、臨死者の看護について19条にわたって、具体的・実践的な考えが述べられている。第一条には「病人の部屋は別に設けてきれいに飾り、病人が寝ながら拝めるところに仏を安置して、・・・」とある。続いて、病床の整え方、食事の与え方、大小便の取り方、念仏の唱え方に触れ、特に病人の心のケアについて細心の心配りをするように説いている。
 『往生要集』のことは前から少しは知っていたが、『看護用心抄』につては何も知らなかった。今日ターミナルケアとか緩和ケアと言われる死の看とりのあり方について、随分昔からよく思慮されていたのだ。
 どの分野でも古典と言われている本には、現在では忘れられていることや、現在における焦眉の課題やについて、現在の考えを先取りするようなことが書かれていると、改めて考えさせられた。

122.     楓橋夜泊  張継(中唐)
  月落鳥啼霜満天   月落ち烏啼いて 霜天に満つ
  江楓漁火対愁眠   江楓(こうふう)漁火 愁眠に対す
  姑蘇城外寒山寺   姑蘇(こそ)城外の寒山寺
  夜半鐘声到客船   夜半の鐘声(しょうせい)客船に到る

(月が沈み、鳥が啼いて、霜の気が天に満ちわたる。
 岸の楓と漁火が、うつらうつらとする旅愁の目に映る。
 そこへ、蘇州郊外の寒山寺から、
 夜半を告げる鐘の音が、わが乗る小舟に聞こえてきた。)

 高校生の頃、漢文の時間に杜甫や白楽天の漢詩を学んだが、単に景色を写しただけ(と思った)文が、なぜ詩なんだろう、と疑問に思ったことがある。詩というものは内面からの声を絞り出すものではないかと思っていた。大学で吉川幸次郎や高橋和己の授業に興味半分で出て、高校の頃の考えが変わった。詩というものは、内面の声を外界に託して、外界を内面に取り込む営為だと思うようになった。
 上の詩は、秋の夜半、しっとりとした旅愁を詠った優作である。

123. 染付秋草文面取り壺と「朝鮮の土になった日本人」
 近頃は東京へ行く機会がないが、行った時は駒場の日本民藝館を訪れた。
初めて訪れたのは40年以上前。
 柳宗悦の肝いりで1936年に竣工したこの民藝館に入ると、気分が落ち着く別世界。最初に目に入ったのが、染付秋草文面取壺。李朝白磁の逸品だが、元々は朝鮮国内では雑器であった。
 その美に着目したのは、淺川伯教(のりたか)・巧兄弟であり、伯教が宗悦に贈り、宗悦が朝鮮の焼き物の美に初めて魅せられたという逸話がある。
 大正から昭和にかけて、日韓併合時代の京城(現ソウル)に暮らす日本人兄弟が居た。昔ながらの朝鮮服を着て、木履をはいて町を闊歩する。
 彼の地にすっかり溶け込んだ生活の中で、彼らは李朝工芸の美しさを見出し、それを宗悦などの日本人に伝えた。淺川兄弟が心底ほれこんだ、健やかで愛らしい李朝の美。それを典型的に表しているのが、染付秋草文面取壺だと思う。
 淺川巧は林業技師としても朝鮮の白松などの栽培方法を研究したが、同時に兄と共に朝鮮の日常生活の中にある工芸品の美を初めて見出した。困難な時代にあって、相手国の日常の美に着目できる程に器量の大きな人物だったのであろう。巧は朝鮮の土となっている。
 朝鮮(韓国)の人々は兄弟への尊敬の心を今も失っていないと聞く。
 隣国との間柄は、こうでなくてはと強く思う。もちろん隣国と、だけではない。

124. 世阿弥「秘すれば花」
 この「秘すれば花」の意味を私は私なりに理解できる。
 よく用いられる「初心忘るべからず」は、初めての時の心がけを忘れるな、という意味ではなく、初心者の未熟さを日々忘れるな、という意味だ。何でもいつでも学び続けなければならず、同じ類の事であっても何か新しい事を学ぶ時は自分が未熟者だと自覚して謙虚に始めなければならない。ましてや惰性や慢心を自戒することが肝要である。このような姿勢で努力を欠かさない者だけが「秘すれば花」の持ち主になれる。
 為手(役者、俳優)が自分の演技の面白さ、珍しさを表に出せば、見手(観客)は直ぐにそれと気がつき、面白さ、珍しさは消える。だから、見手が気がつかないでいてこそ、為手の演技は効果的である。意外に面白いとだけ感じ、実は意図的表現だとさとられないのが、為手の魅力なのだ。そこで「秘すれば花」と言われる訳だ。
 私なんぞは効果を狙って事に当たる場合がある。私の狙いは相手に筒抜け。隠れようも無い。
 ところが、「初心忘るべからず」を知らず知らずの間に心得ている人は「秘すれば花」を地で行っている訳で、絵を描くとか野球をするとかで夢中になって事に当たっている若人たちの真摯な行いに自ずと表れる。若人の姿勢を保たなければ、心も老いる。
 が、保つことが難しい。

 日本最初の演劇論『風姿花伝』に何度となく現われる「花」の意味は、以上のような意味で尽きない。
 (第七 別紙口伝)イズレノ花カ散ラデ残ルベキ。散ルユエニヨリテ、咲クコロアラバ珍シキナリ
 花は散るから美しい、これは素直に分かる。
 その花を「いのち」に置き換えると、「いのち」が美しいのは、生の内に死を含んでいるからだ、と世阿弥は言いたかったのだ。この思想を世阿弥だけが情理の上で明確にする事により、能舞台に絢爛たる花を咲かせることができたのだ。
 世阿弥の思想は奥が深い。私ども人間の存在に二重の状態を認めた。人間の内面に死と生とを、相互補完的なものとして認めた。生は死を含み、死は生によって意味を得る。生は死によって証しを得、死もまた生によって証しを得る。「いのち」が美しいのは、それがはかないものだからであり、いずれ死が訪れるのが必定だからである。生年と享年とは同い年なのだ。この事を世阿弥は、「秘すれば花」で説いた。
 相互補完的と言ったが、現実には生と死のせめぎあいであり、人間存在は修羅場なのだと思う。修羅場に咲き散る「花」。世阿弥の洞察は凄いものだと思う。

125. 原始、森の生活
 史説によると、縄文時代後期の人々は、森という豊かな自然の恵みを受けて生活していた。日本列島は森の列島だから、人々はほどよい規模に森を開いて住居をつくり、まわりの森から衣食住のすべてを得ていた。
 人々は十数戸から二十戸ぐらいの竪穴住居をひとまとまりにして住んでいた。周辺は栗の木の多い落葉広葉樹林である。住居をつくるための木や屋根をふくカヤ類はこの森に幾らでもある。木の樹皮とか草は衣服の材料にもなり、いろいろな紐にもなる。栗をはじめとして食用になる木の実が沢山ある。若芽や若葉の美味しい木もある。
 落葉広葉樹林の森は食べ物に満ちているから、鳥や獣もたくさん棲んでいる。それら鳥や獣をほんの少し獲れば、栄養たっぷりの食肉にもなり、獣皮は衣服や敷物にもなる。
 人々は煮炊きに使う土器や、木を伐ったりする石器を念入りに楽しみながら作っていた。狩猟採集での労働時間が少ないので、土器づくりも石器づくりも、遊びに近いものだっただろう。
 高原の澄んだ空気のなかで、石斧を磨く男と樹皮の繊維をほぐす女が、はればれとした顔で話し、朗らかに笑う光景が想像される。
 私どもの先祖はこんな生活をしていたのだろう。戻ることは勿論できないが、想像すると郷愁に近い感慨を抱く。物質文明に慣れてしまった私どものDNAに原始の森の民の痕跡が残っているのだろう。

126. 遠藤周作『海と毒薬』(初版1958年)概要
 (前項125の人間と対極をなす現代人のひとつの姿を描いています。)
九州・F市の大学病院の屋上から海が黒く鈍色に光って見えた

この病棟で 戦時中 米兵捕虜が生体解剖された
人間は血液をどれほど失えば死ぬのか
血液の代わりに生理的食塩水をどれほど注入できるか
肺を切除して人間は何時間 いや何分生きるか
生理的食塩水実験は戦争医学の要請するところだった
肺の切除実験は肺の外科医が知りたい問題に沿うものだった

奴ら 銃殺と決まっているんだ
何処で殺されようが同じことだ
むしろ エーテル麻酔されて眠っている間に死ぬんだ
医学の進歩に役立つわけだ
当時 軍関係者の間で一般的な考えだったかもしれない

「神というものは存在するのかなあ
人間は運命からどうしても逃れられんやろ
運命から自由にしてくれるものを神と呼ぶならばや」
実験に参加する研修医の一人が呟いた
しかし 彼には立ち止まる良心はなかった
いわば毒薬を飲んだような心境だった
世間や社会からの罰に対する恐怖心があったとしても

「エーテルの点滴を絶やすな」 助手が言った
「脈が遅くなってきました」
「角膜反射もなくなりました」
「エーテル点滴中止 死なれては困る」

外科部長と助教授が将校たちと共に手術室に入った
「君い 手術中 写真を撮ってもいいかね」と将校
「どうぞ どうぞ 貴重な実験でしてね」と助手
「よか気持で寝とりますなあ やっこさん」と将校
「はじめますかな」と助教授 うなずく部長
「メス」「ガーゼ」「メス」 看護婦が指図される
「左肺 全摘 右肺上葉 切断中」と助手
「三十・・・二十五・・・二十・・・十五・・・十・・・
終りです」 血圧計を研修医が読み上げた
しばらくの沈黙の後 将校たちの咳ばらい 靴の音
部長は黙って死体を見おろした

命を奪ったという恐怖さえ感じられん なぜや
なぜ俺の心はこんなに無感動なんや
研修医の一人は自問した
今 欲しいのは呵責だ 心を引き裂くような後悔の念だ
だが そうした感情は起こってこなかった

捕虜の死のおかげで
何千人もの結核患者の治療方法がわかるとすれば
あれは殺したんやないぜ 生かしたんや
人間の良心なんて 考えよう一つで どうにでも変わるもんや
良心なんて 黒い海に破片のように押し流されるもんや

(日本人とは如何なる人間か、と執拗に問い続けた作者の昭和三十三年の作。後に『留学』、『沈黙』と続く。
日本人の弱さと欠陥を抉り出し、自己告発を求めた。)

127. 吾、日に三省す(『論語』より)
曾子曰く、吾日に吾が身を三省す。
人の為に謀りて忠ならざるか。
朋友と交わりて信ならざるか。
習わざるを傳えしかと。

【意訳】
曾子は言う。私は毎日何度となく自分の行ったことを反省してみる。
人のために世話をしながら、真心が足りなくはなかったか。
友達とのつき合いに、信義の欠けたことをしなかったか。
先生から教わったことで、まだ自分のものとなりきっていないものを、口先だけで人に受け売りをしていなかったか、と。

あーー、痛いところを衝かれるなあ。

128. 竹内浩三「骨のうたう」
 竹内浩三、1921(大正10)年三重県宇治山田市に生れる。1947(昭和22)年三重県知事の名による戦死の公報「昭和20年4月9日時刻不明、比島バギオ北方1052高地方面の戦闘に於て戦死」。死後、40年ほどして詩人として一般に認められた。代表作を引く。
   
    骨のうたう

 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

 白い箱にて 故国をながめる
 音もなく なんにもなく
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や女のみだしなみが大切で
 骨は骨 骨を愛する人もなし
 骨は骨として 勲章をもらい
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨はききたかった
 絶大な愛情のひびきをききたかった 
 がらがらどんどんと事務と常識が流れ
 故国は発展にいそがしかった
 女は 化粧にいそがしかった

 ああ 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 こらえきれないさびしさや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や

(2003年『戦死やあわれ』(岩波現代文庫)以来、多くの人に知られるようになった。それまでは小規模の出版社の本で細々と語り継がれていた。彼の遺族が、私が育った松阪市の日野町在だったとか。遺品が本居宣長記念館に寄贈されている。) 

129. 松阪市戦没兵士の手紙集『ふるさとの風や』
 私は小学3年生から高校3年生まで松阪市で育てられた。30年ぐらい前に久しぶりに本居宣長記念館を訪れた時に館長から 『ふるさとの風や』 という約200頁の新書版の本を頂いた。この本があることを初めて知った。以来、折に触れてこの本に収められた戦没兵士の手紙を読んでいる。この本の初版は昭和41年2月。平成7年に復刻。非売品で入手し難いのが惜しい。次は初版当時の梅川文男市長の巻頭言である。長文ですので、一部省略させて頂いた。
 「太平洋戦争で死んだ松阪市民は約四千名である。雪凍る北満の地で、暑熱のジャングルまたは孤島で、傷つき倒れ、あるいは飢え、また太平洋の底深く沈められ、はては沖縄で武器も持たず裸で殲滅されていった私たちの親や兄弟たち。
 どんな思いだっただろう。
 粛然、襟を正し、敗戦のもたらしたこの二十年間の平和を噛みしめ回想する。
 ・・・・・・・・
 なにを思い、なにを考え戦線で死んでいったろうか。わずかにそれを知る手がかりとなるのは、これらの人たちの故郷の肉親・友人への手紙ではなかろうか。
 戦時中、すべての人たちの生活は規制され統制され、型式化され、個人の恣意は許されなかった。
 軍隊ではもっときつかった。故郷への手紙だって様式化され紋切型のものだった。不安や危惧を素直に表現することは女々しく、「皇軍兵士」として恥ずべきこととされていた。
 しかしながら私たちは、農民出の兵士の「今年、田の水は大丈夫ですか?」とのさりげない文字に、その兵士の胸に湧く無量の感慨をくみとることが出来る。おそらく、この文字を書く時、彼の胸裏には、ふる里の山河の緑、空の色、雲のゆききが、いきいきと<よみがえっていたにちがいない。
 ・・・・・・・・
 「戦没市民」の人間性を探究し、記録し、後の世に残すために、この人たちの「手紙集」を市の事業として編集したいと考えている。戦没大学生の文集「きけわだつみの声」、岩手県「戦没農民兵士の手紙」に次ぐものとしたい。・・・・
 もっともらしい口実や理屈や理論をつけようとも、他国を傷つけ侵略するような戦争には反対し、平和をどのように維持していくかを、静かに思い、考え、静かに不再戦の決意を持つ手がかりともなり得たら、との発想からの企画である。」

130. 『ふるさとの風』より一通
 滝川 郁蔵(昭和20年5月19日、比島方面にて戦没、26歳)

 前文御免下され度。
 御令息、郁蔵殿と共に比島戦線に於て行動を共にし、最近帰還復員せる者に候え共、既に広報に依り御承知の御事と存じ候え共、御令息の御戦死と当時の様子御通知申上候。
 郁蔵殿と私と行動を共にせしは、二十年三月中旬以降にて、其の節は戦艦にて遭難され、比島ルソン島に上陸後三月、海軍美濃部部隊に編入され各地を転戦仕候。
 二十年三月、部隊はルソン島最北端アパリ方面警備の任を帯び、全方面に駐留致し候も、日夜激しい空襲に加うるに悪質なマラリア流行し、之が為隊員の死亡せる者多く、御令息にも三月末頃よりマラリアに羅病されしが、死亡の数週間前より容体悪くなりたる為、部隊の病院に入院加療致し候も、何分野戦の事故病院と雖も療養も思うに委せず、亦空襲の激しさも加わりて、遂に昭和二十年五月十九日、軍医官始め戦友一同の手厚き看護も其甲斐なく、眠るが如く永眠遊ばされ候。
 嗚呼故国を離れること三千数百里、異郷の地に於て日夜皇国の戦果を信じつつ戦いし、御令息の心情や如何に。又故国に在りて、只管愛児を想われる御両親様始め御家族皆様の御心情を御察しすれば、御慰めの言葉も之無候も、何卒之も運命と御諦めの上御冥福を祈念くだされ度願上候。
 郁蔵殿生前は温厚忠実、隊内の模範下士官として奮闘され、上下斉しく導き戦病死を惜まれ候。葬儀に当たりては野戦の事故何も無きも、戦友一同の心尽くしの草花、果実をそなえ、ねんごろに埋葬致され候。遺髪等は部隊本部より帰還御届けするものと存じ候。
 私病床に在り、又御家族皆様の御心事を御察しし、とるべき筆も進み難く延引の段悪しからず御許し下され度。
 茲に謹んで御令息の御戦死を御通知申すと共に、厚く哀悼の意を表し上げ候。敬白

大木勝蔵拝  滝川庄太郎様 (日付不明)

(今後こういう手紙があってはならぬ、書かせてはならぬ。)

131.   木偏の文字について
 木や森について通の稲本正さんの本を読んでいたら、面白い記述に出会った。竹は木か草か? イネ科の草だと考えられてきたが、最近、竹は独立してタケ科になり、竹は竹なんです。
 この本には木についての含蓄のある話が多く載っている。なぜ木偏に「無い」と書いて橅(ブナ)なのか? つまり木だと思っていなかったんですよね。昔は今のプラスチックみたいに、いやそれ以上に沢山あったということです。・・・無いくらいにあった、ブナだらけだったわけです。
 木偏の文字、松、桐、杉、梅、桜、・・・これぐらいは大抵の人は知っていると思うけど、江戸時代の人は五十種類ぐらいは知っていたんじゃないですか。
 木に会うと書いて檜(桧)、何故でしょう? 木と木をあわせると火が出ますね。火の木が本来で、今のは当て字なんです。(これ、ホントやろか? 疑う訳ではないけれど。)
 桐には茎があって、桐は多年草の草なんです。そこで、「木と同じ」つまり桐という当て字にしているんです。
 森は杜ですね。偏は木、つくりは土。だから杜が正しくて、森は当て字なんです。
 この本『森を創る 森と語る』には、普段気がつかない事が一杯書いてあるが、この本の主旨は「人類全体が化石燃料による物質文明を謳歌し、それこそが繁栄の証だと思い込んだ時代は終わった。それに替わる人間的豊かさと自然環境の豊かさを確保するには、何から始めたら良いのだろう」と模索するところにある。
 今世紀は環境の世紀だという謳い文句を実現するには、自然の現状を知ることから始めなければならないということを、この本は伝えたいのだと思う。

132. 説明責任について
 大事故や薬害などを引き起こした企業責任者や俗に言う大物政治家の言い訳は、「説明責任」と翻訳されるアカウンタビリティという言葉の重さを示すこととなっている。
 この翻訳には違和感がある。経過を充分に説明し、その結果について責任を取ること、ないしそもそも説明できないことをしてはいけないということ、アカウンタビリティという言葉にはそんな厳しさが込められている。「説明責任」はそんな厳しさの半分しか伝えていないし、説明さえすれば事足れりとなりかねない。事実、不祥事を起こしても、口先の説明だけで居座った経営者や政治家は多い。
 この言葉の元である「アカウント」は古くは聖書に出て来るそうだ。最後の審判のとき、人が神にする申し開きのことだという。自分の生涯が聖書の教えに反することはなかったかどうか迫られる訳だ。キリスト教国では緊張感のある言葉なのだろう。
 「説明・償責と訳してはどうか」という提案があったそうだ。中国の古典から引いた償責(責任を償い果たすこと)と説明とをセットにすれば、言葉の厳しさが伝わるというのだ。
 言い訳をした人々は、責任を償い果たしたのであろうか。はなはだ疑問である。
 そもそも言い訳すらしない人々も居る。最近覚えた言葉で言うと、理非曲直をわきまえない蛇蝎のような輩も居る。世の中、様々ではある。

133. 詩、かな?
   去り行く日の来ん時は

 去り行く日の来ん時は
 ものみなに許しを乞います

 心の髄に感じる事は
 文をなしたる事の悲哀です

 なぜか その悲哀の故にか
 泉に小石をひとつ投げてみます

 水に沈みゆく石が黙っているのは
 何と言う不思議な美しさでしょう

 口をつぐみて時間の声に聴き入ります
 時間がすべてを澄ましてくれます

 ところが 万目荒涼たる心象が
 冬近き小路に細い影をつくっています

 風の音に驚きて 草木を想い
 万物流転に身を任せましょう

 僕の歴史を顧みますと それは一行の詩
 Uni-verse Universe

 宇宙が黄昏て逝きます
 仰げばオリオンが密かに瞬いています

(こんな駄文、なんとかならないかしら。)

134. 城山三郎『落日燃ゆ』(概要)
 ぶれない作家と辛口評論家たちも認めている城山三郎が不帰の人になったのは2007(平成19)年。『落日燃ゆ』を再読した。

 1878(明治11)年に福岡県に生まれた広田弘毅は、東京帝国大学を卒業して外交官となり、諸外国での勤務を経て斎藤実内閣に外相として初入閣した。
 1936(昭和11)年、岡田啓介内閣が2・26事件のために総辞職し、広田はその後を受けて首相の座に就くが、閣内不一致で総辞職。
 1937年からの第一次近衛文麿内閣でも外相を努め、同年の盧溝橋事件に対して現地解決・即時停戦を主張するものの、日本は日中戦争・太平洋戦争へと突入した。
 敗戦後、無罪の訴えを潔しとしない広田は、東京裁判(極東国際軍事裁判)で絞首刑判決を受けた7人のA級戦犯における唯一の文官として、48年に処刑された。
 
 城山三郎は、大日本帝国海軍の特攻隊・伏龍部隊の隊員として終戦を迎えた。そんな経歴をもつ城山にとって、戦争とその責任は重大なテーマだった。
 城山の代表作とされるこの作品は、一人の悲劇の文官を描く伝記小説にして、印象的な場面に満ちた骨太の歴史小説でもある。
 広田弘毅の人柄と交流、東京裁判開廷直後に自殺した妻との逸話や法廷の異様さなど、劇的な史実を淡々と記すことで、城山は読者の胸を打つ物語を紡いだ。(毎日出版文化賞、吉川英治文学賞)

135. 思索もしくは理路
思索とは、理路を追う考えである。理路とは?
 「索」は、漢和辞典によると、太い糸のことらしい。
 そうすると、理路とは太い糸を比喩的に表したものだろう。
 思索するとは、糸を辿るように考えることなのであろう。ちょうど、カジキマグロを狙い一人で海に出た老人のように、釣り糸を手繰る行為なのであろう。思索する(釣り糸を手繰る)値うちは、その糸の先に居るかもしれない獲物(答え)の値うちであり、運良くマグロ(特定の答え)が掛かれば、糸を手繰る(思索する)行為に大きな値うちがあることになる。何も掛からなければ、その行為は全く無駄だということになるだろう。
 このように言うことが出来るだろうか。出来るとすると、僕は随分と無駄な行為をしてきたことになる。 自己弁護する訳ではないが、結果として答えが出ない思索でも、別の糸につながるかもしれない。が、別の糸につながつても、答えが出ないかもしれない。
 あの老人も獲得したマグロをサメ(別の糸)に食べられ、得たものは骨と不思議な疲労感である。思索の褒美は、殆ど、あるいは全く役に立たない答えと疲労感だけかもしれない。
 「だけかもしれない」という事でもあるまい。それ以外に何かあるはずだ。思うに、先頃は答えとか成果とかを求め過ぎてはいないか。思索の場合は、釣り糸と違い、見えない糸を手繰り寄せなければならない。さて、これから先どんな見えない糸を手繰り寄せられるであろうか。(こんなことを考えている人(私)を、人は閑人と言うらしい。)

136. 死刑制度について考えさせられた
 加賀乙彦『宣告』上中下1500頁弱
 死刑囚の刑務所内での生活と心理を延々と細密に描いているこの長編を読み切るのには難儀した。
 独房の扉に付けてある番号札は黒塗りの板で、水で融かした白墨で六一〇番と書いてある。
 主人公の感慨:
 「おれは人間であることを許されていない。法律規則という人間が作った文章が、おれから人間の属性を一つ一つ剥ぎとっていった。
 しかし・・・しかし、それでもなおおれは考える、おれは死刑囚でも番号でも一枚の板でもなく、人間でありたいと。なぜならばおれは絶望することができるから、一枚の板のように従順に静かに平和に存在するのではなくて、おれには絶望する自由が残されているから。絶望する自由をもつかぎりにおいておれは人間であるのだから、おれは絶望しなくてはならぬ。絶望によってのみおれは人間に復帰できる。」
 監獄医の若い精神科医の自問:
 「お前、近木医官、善良で無邪気な青年よ。形而上学にひそむ苦しみを知らぬ若き科学者よ。死ぬまで悪人であらねばならぬ恐怖、それが本当の死の恐怖なんだ。いいかね、安らかに処刑台に上がるには、自分が処刑台に価する人間だと百パーセント納得していなくてはならないだろう。もし悔悟し改心し悪人であることをやめたら、信仰によって神の許しを得てしまったら、もはや自分は処刑台に価しないじゃないか。お前にこの矛盾が解けるかね。イエスと立場が正反対なんだよ。無垢なる人は殺されることに意義があった。しかし悪人は殺されることに意義がないことで、はじめて意義があるんだ。おれが死がこわいと言ったのはそのためさ。わかるかね、お医者さん。」

 六一〇番は最後に宣告されて従容として刑に服する。

 死刑制度反対を声高に叫んでいる小説ではない。読者に論理的思考を促している。
 さて、上の若い監獄医の自問にどう応えたらいいのか。それが問題だ。

137. 初秋、朝、田舎道
朝、田舎道を歩いていて楠の大樹の根元で野仏に出会う。田の神であろう。
人智の及ばぬことを知っていた野の人々は野仏とともに暮らすを常とした。
頭を垂れた一面の稲穂が視界をつくる。
これが我が原風景というものであろうか。

あるいはフランシス・ジャムが、
    宇宙
  水色の
  絹の空、
  小山の上では
  犬が吠える、
と詩った、その「宇宙」というものであろうか。

かつては幾多の大樹から成る豊かな森林であったのであろうが、
伐採開墾され、それでもこの大樹だけは難を逃れ、
今ではこの世界の精となった。

野仏を抱いたこの楠の大樹は、
もしかして遥か彼方の昔からこの世界の主だったのではなかろうか。
人々はこの大樹を遠望し、あるいはこの大樹の下で憩い、五穀豊穣を祈願した。

人々はこの大樹に人の世の哀しみを託し、あるいは喜びを舞い、
あるいは畏れを祈った。この大樹は人々に会うを無上の喜びとした。
その証しとして サワサワ サワ と風を紡いだ。

138.    唱歌「ふるさと」は何故3拍子なのか?
   ふるさと

一 うさぎ追いし かの山   
  こぶな釣りし かの川
  夢は いまもめぐりて
  忘れがたきふるさと
    (2番3番省略)
 この「ふるさと」、どこか哀しい唱歌だとお思いになりませんか?
 哀しいかどうかは個人的心情の問題なのだが、このメロディが賛美歌の影響を受けていることを知った。
 作詞は高野辰之(1876-1947)、作曲は岡野貞一(1878-1941)。1914(大正5)年に初めて『尋常小学唱歌(六)』に掲載された。二人のコンビで生まれた唱歌には他に「春が来た」、「春の小川」、「朧月夜」、「紅葉(もみじ)」などがある。
 作曲者の岡野は鳥取市出身で、14歳の時にキリスト教の洗礼を受けたクリスチャン。岡山の教会で宣教師からオルガンの演奏法を習い、更に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学し、西洋音楽の理論と技術を深めた。
 後には同校の教授を勤め、音楽教育の指導者の育成に尽力するとともに、敬虔なクリスチャンとして毎週教会のオルガンを弾いていたそうだ。「ふるさと」や「朧月夜」など、岡野の作品には賛美歌の影響を強く受けたと思われる3拍子のリズムを用いた旋律が数多く見られる。
 唱歌「ふるさと」が3拍子の賛美歌の影響を残しているとは知らなかった。そのせいだろうか、クリスチャンでない私でも哀しく感じるのは。

139. 幸田 文『崩れ』(没後1991年出版)
 山河でも海でも、自然はときに恐ろしく人間のやわな言葉を拒む荒々しさを見せる。
 八十六歳の天寿を全うした幸田文の晩年の『崩れ』に描かれているのは、自然の荒々しい相貌だ。富士山の大沢崩れをはじめとして、日本列島各地の崩れに引きつけられて見て歩く一種の紀行文学なのだが、例えば日光の男体山の山肌に幾筋も見えている「薙(なぎ)」と呼ばれる崩れを描くとき、こんなふうに語りだす。
 「富士山もそうだと思う。世界にきこえる美しい山とか、秀峰とかいわれる。本当に端麗な姿をしていると思う。だが、一度大沢の崩れを見た上で、あらためて仰げば、端麗とは決して生やさしく、ぐうたらべえに成立つものではなく、このように恐ろしいきびしさの裏打ちがあることを思い知らされ、はじめて端麗の尊さに気付く。」

 私どもは、ふだん安全な観光の対象として自然を見てはいないか。粗っぽく言うなら、絵葉書の風景写真がすなわち自然だと思っている節がある。その枠からはみ出るような自然を見ようとは、あまりしない。(富士登山だけは例外か。)
 私どもの今の暮らしは日毎に人工空間化し、私どもの心は日毎に機械文明化してきた。
 火山の爆発でも戦争でもテレビ画面で安心して見る日々だ。当事者以外は安全圏にいる。そして、その日々において自然が語られ、現実の山河にも物見遊山で見る自然しか見ようとしない傾向がある。私どもの心の枠内に収められる美しく優しい自然だ。
 だが、荒ぶる山河はその外にある。『崩れ』が教えてくれるのは、普段の僕らの心の枠外にある自然だ。貴重な自然だ。

140. ひさしぶりにシューベルト
『冬の旅』より9番「鬼火(Irrlicht)」
  深き谷間へと 鬼火は誘う
  われは迷えども 心痛まず
  鬼火の誘いに われは慣れたり
  喜び嘆きも すべて鬼火のしわざなりしか

  水なき川に沿い われは下りぬ
  すべての流れは海に注ぎ
  すべての悲しみは
  墓場につづかん

 (夜の旅は、あてどない道をゆく若者に恐怖を与える。鬼火は彼を深い谷間へと誘う。しかし若者はもう慣れた。この世の喜びも悲しみもすべて鬼火の仕業だと感じる。
 この曲で、若者は一つの思想を初めて抱く。それは「諦観」である。それまでは恋人への執着を歌っていたが、この世は鬼火のようなものだという虚無感に襲われたとき、二十代後半のシューベルトは絶妙な歌曲を産み出した。
 二十代後半、懐かしい。赤面する他なし(苦笑)。)

141. 葛
 奈良に住んでいるせいもあって、葛粉を用いた菓子や葛湯などを食するときが比較的多い。親戚などへの土産として葛粉からできた干菓子を持参するが、軽く小さいわりには高価な感じがする。干菓子は噛んではダメで、舌の上で転がしていると、じわーと上品な甘味が広がる。
 葛は山野に自生する大きな蔓状の植物で、根は葛根湯などの漢方薬にも使われる程、薬効があると言われる。その葛根を何度も水にさらし、澱粉を取り出すと葛粉ができる。この過程で手がかかるので本葛粉は値が張るのだろう。奈良の吉野地方は古くからの産地として知られている。
 本葛粉と砂糖があれば葛餅がすぐにできる。葛粉、砂糖、水を混ぜ、火にかけ、透き通ったら型に入れてさっと冷やすだけ。5分ぐらいで、ぷるぷるの葛餅が完成する。できたての、ほんのりと温かい方が美味い。普通は冷蔵庫で冷やして食べるが、これでは生地が劣化して食感が失われる。冬は葛湯を飲むが、それを濃くしたものが葛餅で、温かい方が葛本来の味覚を醸す、という訳だ。

142.   アムンゼン(1872-2028)『南極点制服』(邦訳 2002年)(概要)
 (現在の南極大陸は地球温暖化のために氷が溶けだし、ところによっては原始的な苔が生えている。20世紀に南極観測が始まって以来何年が経つのだろう。砕氷が出来る観測船の往復はさして困難ではないとか。だが・・・)
 南緯八七度で北東に最後の陸地を臨んだ
 一九一〇年十二月六日 夏
 沸点が前日と同じ
 南極プラトーの最高地点に達したのだ
 ここに至るまで 大きなクレバスも克服した
 エスキモー犬たちが力をふりしぼった

 極点に到達するのは私たちが一番か
 自信はあったものの 少々不安に駆られた
 しかし 私は楽観的だった
 私たち隊員には鉄の意志が備わっていた
 凄まじい飛雪の中を
 零下五十度以下にも耐え続けた

 十二月十四日
 馭者たちが一斉に「止まれ!」と叫んだ
 ついに ついに 極点に到達
 行進終了
 凍傷の手でノルウェー国旗を掲揚した
 生命を賭した隊員たちが互いに感謝し合った
 犬たちの労苦を偲んだ

 故国への帰路についた
 輝くスカンジナビアの入江を目ざして
 その入り江で六月七日
 帆船の錨を上げたのだった
 船出の時の悲哀の情が思い出された
 海上も氷上も悪くはなかったが
 わが家のホットケーキの香りに
 優るものはないという
 そんな憧憬が苦難の代償だった

143. 尾崎一雄『虫のいろいろ』
 この作品は小説というよりもエッセイの名作の一つだと思う。そこに描かれているのは、生活者の目線で書かれた哲学だと言ってよい。生きるということはどういうことなのか。虫であれ人間であれ、生きるものにとって自由とは何であるのか。こういう根源的な問いかけが作者自身の日々のなかで行われていて、読者に深く染み透ってくる。言うまでもないが、ここには哲学用語は見つからない。それだからこそ見事な哲学の営みを記したエッセイである。
 この作品が文庫本から消えて永く経っていたが、今世紀に装いを新たに文庫に入った。僕が持っているのは昭和30年代の古ぼけた文庫本であるが、いつの頃からか文庫から消えた。何しろ易しい言葉で易しい文章で書かれているので、逆にその良さに気づく人が少なかったのかも知れない。新たに入手し易くなったことは喜ばしい。
 『虫のいろいろ』なんていうタイトルの文庫本にその特有の良さを見出すのは時代遅れかも知れないが、もう一つ『虫のいろいろ』以上にすごいと思っている作者晩年の作品がある。『退職の願い』。この作家の生き方の歴史を描いたもので、思想というものが頭ではなく体を通して造型されている。六十四歳になった作者が、「雄鶏という地位身分から去るの好機である。退職したい」という。親爺であることからも亭主であることからも退職して本来の自分に戻りたいという。その宣言が、この作家独自の上等なユーモアと共に語られている。
 僕もこういう宣言をしたいと思うが、そうやすやすと出来るものではないとも思う。そもそも「本来の自分」が何者であるかが、おぼろげにも分かっていない。

144. 日本の智慧ある人を・・・
 日本の智慧ある人を自称・他称する人はどうも道元を好むらしい。『正法眼蔵随聞記』の一節を小難しく解釈して吹聴する場面に何度か出くわした。私ははっきり言って道元を好まぬ。だから、智慧も有さない。智慧を有さない私がだいぶん前から道元を密かに読んでいたのも滑稽な話である。ただ一言自己弁護すると、道元の言葉の中には解釈の余地無く肯ける言葉があり、そのような言葉を座右に置いておく事は自分自身の為になる。例えば次の言葉が典型である。
 「玉は琢磨によりて器となる、人は練磨により仁となる、何(いずく)の玉かはじめより光有る、誰人(たれびと)か初心より利なる。必ずみがくべし、すべからく練るべし。自ら卑下して学道をゆるくする事なかれ。」(註:「仁」とは、真の人。「利」とは、優れた働きをする人。)
 問題は言うは易しく行うは難し、という事である。近頃、行うは難しを思い知らされる経験を積んでいます。こういう経験に気づく事もまた「練磨」の内に入るのだろうか。こういう経験が多すぎると入らないに決まっている。

145. 「人間環境宣言」
 ダイオキシンの研究で知られる脇本忠明愛媛大学教授が19年ほど前に『「私が変わります」が地球を守る』の中で「21世紀人間環境宣言」を提言している。
 「人間環境宣言」と言えば、40年ほど前に国連から発表されたものがある。その背景にはローマクラブが「成長の限界」で提起した問題意識があった。
 「グローバルに考え、ローカルに行動する」ために、皆の参加、協力が不可欠だ、というものだ。
 この宣言が世界に与えた影響は大きい。日本の環境庁(現・環境省)の活躍もそこに端を発している。様々な対策、国際交渉が行われ、環境問題は多くの人々の共感と理解を得ている。にもかかわらず現実には、温暖化ひとつをとっても対策のスピードは事態に追いついていない。地球環境という人類生存の土台が壊れるのは、時間の問題だと既に諦めつつある科学者もいる。もっと根本からのアプローチが必要だろう。
 脇本教授によると、ダイオキシン問題の元々はゴミ問題にある。これは私たち一人ひとりのライフスタイル、またその前提にある生活意識、とりわけ私たちを支えてくれる地球環境の恩恵に対する受けとめ方と不可分のものであるという。確かにこの環境の危機を自分の責任と受けとめ、地球環境の働きに自発的に応える、という意識改革が必要である。
 科学者も、現実がどのような危ない未来をつくろうとしているのか、その因果関係を科学の諸分野だけに限らずもっと幅広くとらえ、社会にも発信していく必要があろう。それが「科学者である前に一人の人間である」ということではないか。
 解決困難な事態に対して、枠組みを超えて対峙しなければならないのは環境問題に限らない。20世紀は専門分野を細分化し、事態の理解を細かく掘り下げることには大きな成果をあげたが、それを統合する力は弱まった。経済や政治、とりわけ最貧国への支援などでも統合する力が必要な問題が山積していると思われる。

146. 思い出の記ーー鰹節
 小学1、2年生の時は小学校まで4キロ近い道だった。在所の村から小学生が集まって歩く。冬、寒い時は集まって焚き火をし、小石を熱して、その小石を新聞紙で包んでポケットに入れて手を温めながら小学校まで歩いた。
 弁当が美味だった。白飯の上に削った鰹節を醤油でまぶしたのを敷きつめたもの。ただそれだけのもの。簡単この上ない弁当。いわば削り節丼。それが実に美味だった。醤油が白飯にしみこみ、香ばしい鰹節の味。この美味を一度味わって頂きたいものだ。何? そんな原始的な飯は食べられないって? ま、そう言わずに、食べてみて候。栄養分もたっぷりです。
 鰹節は自分で前晩に削った。削り方が人によって異なる。押して削るか引いて削るか。僕は引いて削る。近頃は削り器を持っている家は少ないかもしれない。最初から削り節を買ってくる場合が多い。だが、削り器で削った鰹節の方が明らかに旨い。削りにムラができ、ちょっと硬いのやら、粉のようなものやら、それぞれに味が違う。
 弁当でもうひとつ。これも実に簡単。醤油を塗った油揚げを焼いて白飯に添えるだけのもの。持ち歩いている間に醤油が白飯に程よくしみこんで、油揚げの切り身と一緒に食べると、これがまた実に旨い。
 ま、要するに食料が乏しかったのである。が、乏しいなりに美味であった。
 町へ引っ越してから、すぐに給食があったか否か忘れた。その給食の不味いこと、不味いこと。大豆の煮物なんて食べられたものではなかった。

147. 思い出の記ーー初冬、夕闇
 かつて山の神がそばに居たころ、森はやすらぎの場であった。
 子供たちは木々のざわめきの中で森と交信し、森は生きもの
 をすべて包んだ。月は雲の中に、真っ暗な森は、手作りの松
 明の火の下、憩いの園であった。すべてから解き放たれ、
 うちとけ合える異界であった。

 知る由もない名の巨木の周り、そこが森の底であった。その
 底の閉じた異界で子供たちは、押し寄せる漆黒の闇を気にも
 留めず、木々の精たちに誘われて、戯れた。ふだんは命令口
 調のお山の大将が案外の優しさをふりまいた。そこは森の底
 であった。安楽椅子のようであった。
 
 昏れ急ぐこの季節、はや灯がはいった里をそっと見遣るも、
 子供たちの心身は森にあった。木々と子供たちと松明の赤い
 火が、闇に浮かんだ。そこには時間がなかった。というより
 も、山の神の気にいる時間があった。子供たちをわくわくさ
 せる時間があった。

 雲間に月が出たとき、星がひとつ森の底へ向かって落ちた。

148. 鴨長明『方丈記』
 人は不思議な者だと思う。不思議なのは当然と言えば当然なのであろうが。
 二重人格、多重人格でない人が居るであろうか。無論、人格という理解困難な言葉の意味は措くとしてでのことだが。ときどき、人は不思議な者だと思わされる。長明『方丈記』を再読した。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくの如し」と世の無常を嘆く美文で始まる『方丈記』は、序の部分が終わるや突如として、筆勢が変わり、彼の体験した世の不思議が記され、『方丈記』のほぼ半分にも及んでいる。
 この部分は、60歳の老いを感じさせない程に活写されている。それは、冒頭の無常感を敷衍しようとしながらも、筆が無常感を離れ、真正の意味でリアリスティックである。過去の体験が単に過去のものとしてではなく、現在のものとして追体験されている、という趣である。この部分は、明らかに長明独特の無常の文学、隠者の文学ではない。
 例えば地震の描写について。「山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土裂けて水湧き出で、巌割れて谷にまろび入る。
渚漕ぐ舟は浪にただよひ、道ゆく馬は足の立(たち)どをまどはせり。」
「地の動き、家の破るる音、雷(いかづち)にことならず。
家の中に居れば忽(たちまち)にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ割く。」
 ところが、追体験の興奮から醒めてしまうと、再び「わが身と栖との、はかなく、あだなるさま」への感慨に落ち込んでしまう。短い作品での、この劇的とも言える変化をどう理解すればいいのだろうか。
 長明を引いたが、人は一般に不思議な者だと思う。歩みゆく人の心根は絶えずして、しかも、もとの心根にあらず。

149. 谷崎潤一郎『文章読本』
 言葉が考えを正確に伝えるのか否か、という問題がある。この問題は古くて新しい問題なので、少し前の名文を引証して、改めて少しだけ考えてみる。
 谷崎潤一郎に『文章読本』という名随筆がある。この『文章読本』は冷静に谷崎の考えを表していると思う。昭和50年発行の文庫版から二つ引く。
 「然らば、或る一つの場合には、一つの言葉が他の言葉よりも適切であると云うことも、何に依って定めるかと申しますのに、これがむずかしいのであります。第一にそれは、自分の頭の中にある思想に、最も正確に当て嵌まったものでなければなりません。しかしながら、最初に思想があって然る後に言葉が見出だされると云う順序であれば好都合でありますけれども、実際はそうと限りません。その反対に、まず言葉があって、然る後にその言葉に当て嵌まるように思想を纏める、言葉の力で思想が引き出される、ということもあるのであります。」
 言葉が考えを正確に伝えるのか否かについては、谷崎も迷っているようだが、谷崎の場合は「言葉の力で思想が引き出される」という側面を強調したいように読み取れる。しかし、次のようにも言う。
 「・・・返す返すも言語は万能なものでないこと、その働きは不自由であり、時には有害なものであることを、忘れてはならないのであります。」
 その通りだと思う。言葉というものは不自由なものだ。しかし、コミュニケーションの手段はどれも不自由なもので、言葉に限った問題ではない。不自由を相対的に自由にするものが理路というものなのだろうが、これがまた難物で、結局、正確で且つすうと伝わる文章なんてものは皆無とまでは言えないが極めて少ないのだろう。

150. 「絆」という言葉への違和感
 コンビニで偶然に見つけたフリーペーパーに載っている菅野みずえさんの文章にハッとさせられた。
 「建設中の復興住宅も、全員が入居できるわけではありません。将来的に地元へ帰れる可能性のある避難指示解除準備区域の出身の人の中から、私達のような帰還が困難な地域の人間は「賠償金でさっさと別の地域に家を建てれば良い」といった声も聞かれるようになりました。4年経っても先の見えない状況から、避難住民の間でも分断が進むくらい、みんな疲弊しています。
 私は国や県が使う「絆」という言葉は嫌いです。もともと「絆」という言葉は牛や馬を繋ぐ綱のことで、双方の繋がりの強さを示すものですが、私達は誰に引っ張られて、これからどこへ連れて行かれるのでしょうか。」

 菅野みずえさんは、福島第一原発から20キロ圏内にあり、原発事故によって帰還困難地域となった福島県浪江町出身。現在は福島県伊達市の仮設住宅在住。積極的に他県へ出向いて自身の体験を語り、人災である原発事故の恐ろしさを訴え続けている。

151. ヒトは遊ぶなり。
 ホモ・ルーデンス。遊ぶヒトの意。遊びのなかに一定のルールがあるものの、時間的・空間的に分離された場があり、そこに非日常的で利害にとらわれない自由があるとホイジンガ-が説いた(1938年)。
 ホモ・サピエンスやホモ・ファベル(道具を作るヒト)などという、文化・文明偏重の性格付けに対して、文化・文明も遊びから生まれたと想定し、近代精神を把握し直そうとした。
 思うに、ホモ・ルーデンスという性格付けは的を射ている。
 何故なら、私の日々の営みの殆どが遊びだからである。本を読むのも、囲碁をうつのも、食事をするのも、パソコンのキーを打つのも、睡眠以外は殆ど遊びだと思っている。ときどき若い人に何かを教えるのも遊びだと思っている節がある。食事をするのも、何を食べるかという選択遊びであり、日々日替わりで利害にとらわれている訳ではない。(ただ、食事の用意をしてくれる方も選択遊びだと思って欲しいと思うのは身勝手というものだろう。)
 思うに、「遊ぶ」ほうが「仕事をする」より優雅ではないか。スポーツも元々は利害に関係のない遊びであった。物作りも元々は商品としてではなく、自分好みの遊びごとであった。
 思うに多くの現代人は汲々としている。汲々とすることに慣れているのではないか。これでは文化の生じる余地は少ない。これではいけないと思う。
 今世紀は温暖化ガスとゴミを出さない「遊び」が求められているのだと思う。勿論、知に長けた戦争遊びは利害の追求であり、あってはならない。

152. 南方熊楠(1867ー1941)
 熊楠という稀有の人物を私は長い間避けてきた(今も避けている)。熊楠の入り口に立っても、そこから先へは歩んでいけないと思っているから。しかし、どうしても気になる。ほんのちょっと記してみる。
 熊楠の学問の基本は本草学である。出身地の和歌山田辺は将軍吉宗のお膝元であり、本草学が奨励された。それが西洋の博物学にふれ、相乗効果をもたらした。(と、ここまで書いて、後が続かない。)
 熊楠が終生追求し続けたのは、生命の不思議である。人間に限らず生きとし生けるものに彼の眼はそそがれた。その場合、世界中の文献博捜による知識と田辺近辺の情報とは全く等価値であった。だから、研究をうまく纏めようとする気もなかった。同じ問題でも常に追及し続け、資料を追加し、書き直し、完成することがなかった。だから、彼の知識はいつも息をしているかの如く成長した。生命の不思議にとりつかれた彼にとって、学問の枠はない。人文系と自然系を分ける必然はない。
 熊楠にとって、自身の学問が教養であったとの思いはなかったであろう。しかし、現今の学問研究に一番欠けているのは、枠外をも視野に入れるという事だと思う。そういう視野を養う事が教養というものだろう。熊楠は、最善の意味で教養を地で行った人物だったと思う。

153. 自然は飛躍せず。
 「自然は飛躍せず(Natura non facti saltum.)」とはスウェーデンの植物学者リンネ Karl von Linne(1707ー1782)の「植物哲学(Philosophia Botanika)」に出てくる言葉。彼は穏やかな人物であったらしく、植物を相手に仕事をしていたからか、自然の急激な変化を好まなかった。
 彼のこの言葉は、当時のカントのような哲学者にも受け入れられ、以後、自然科学の公理のような位置にある。確かに植物の成長には飛躍がない。植物だけではなく、動物の成長にも飛躍はない。人間も動物として自然の中にある。
 ところが、人間の営みには飛躍があるみたいだ。人間の議論には飛躍があるみたいだ。私も気をつけなければ。
 議論における飛躍のみならず、極めて危険な建造物を造り、それをメンテする過程でも飛躍というか、するべきことをしないで先に進む場合がある。
 福島第一原子力発電所でこの上ない程の深刻なトラブルの源になった非常用を含めた電源喪失事故。電源が常備されていてこそ、原子炉などを冷却できる。
 この事故が生じた年の5月、原子力安全・保安院の寺坂信昭院長が電源喪失は「あり得ないだろうというぐらいまでの安全設計はしている」と発言したが、後日「当時の認識について甘さがあったことは深く反省をしている」と述べた。
 それまでの法廷証言などで電源喪失の可能性を否定してきた班目春樹・原子力安全委員長は「事故を深く反省し、二度とこのようなことが起こらないようにしたい」と述べた。今さらこんなことを言われても・・・と思ったものだ。
 電源喪失の事態に備えてこなかったことは痛恨の極みである。自然を飛躍させた、と言う他はない。

154. しみじみと讃嘆
   冷やされて牛の貫禄しづかなり   秋元不死(1901~1977)
 農業が機械化されず牛が農耕の主役だった頃の句。
 一日暑い中を働いた牛を川や池に連れて行って洗ってやる。疲れて汚れた牛を川の淀みの足場のよいところに入れる。牛の方も心得ていて、おとなしく水の中に下半身を浸している。胴に手をかけて草束のたわしで、肌の汗を流してやる。牛も快いのだろう。「もうおー」と鳴くと、向こう岸でも牛が応えて鳴いたりする。長い夏の日もようやく暮れかかり、夕焼けも次第に褪せていく。流れの中に悠然と立っている牛。昔の哲学者のように無表情だが、王者のような貫禄がある。
 「牛の貫禄しづかなり」と詠んだのは、牛が景色の中に自分の座を宣言していると思われたからであろう。作者はしみじみと牛の貫禄を賛嘆している。

155.   ガン患者とその家族①
 家族の一人がガンで入院する。これは避けたい出来事である。しかし現実はこうした危機に満ちている。そのガン患者を家族はどう支援すればいいのか。情緒的(精神的)な支援について考えてみる。Aさんがガンを告知された時、Aさんとその家族はどのような心理状態に陥るのかということを先ず理解しておかねばならない。(ガンの種類は度外視するが、相当の重篤度にある。)
 【心理状態】
 第1段階 不安・混乱・興奮など
 第2段階 否認・現実逃避・無口・無関心・多弁など
 第3段階 怒り・悲しみ・抑うつ(PTSD)・合理化(仕方ない)・承   認
 第4段階 適応
この4段階は、Aさんとその家族に、程度の差はあっても共通である。(Aさんの年齢・性別など、その家族の収入などは度外視する。)
 【対象喪失】
 Aさんとその家族は様々な意味での喪失を体験する。例えば乳房切除とか人工肛門装着による体の機能喪失とか。それらに伴って家庭での役割喪失、社会的地位喪失など。その家族が今までに描いてきた家族の姿を変更せざるを得ない状況になる。このような対象喪失に際しては、時間をかけて様々な心理状態が繰り返され、対象喪失を知的に理解するだけではなく、失う対象を情緒的に断念することになる。
    対象喪失
    ↓
    否認・怒り・執着・悔やみ・自責・抑うつ、等
    ↓
    再適応
 【ガン診療における家族の役割】
 近い将来大切なAさんを失うかもしれないという傷つきやすく自ら情緒的な支援を必要としている「患者的な役割」と、精神的な危機に陥っているがAさんを支える「治療者的な役割」とを担っている。(続く)

156. ガン患者とその家族②
 【家族の「患者的な役割」】
 Aさんのガンを告知された家族もショックを受ける。大切な人を失うのではないかという不安がこんなにも情緒的な面に影響を与えるのかという体験をする。医師には精神的に追い込まれた心情を分ってもらえず、結果的に医療者不信につながる場合もある。そうではなくても、家族の心情とAさんの心情とはオーバーラップし、Aさんといわば同じ立場・心情でAさんを情緒的に支える役割があることを自覚することになる。
 【家族の「治療者的な役割」】
 家族は様々な役割を務めてAさんを支援できる。
 ●告知直後の衝撃段階の時期に、Aさんが泣いている時には一緒になって泣き、呆然としている時には静かに見守る。
 ●治療プラン、治療費、職場のこと、家庭のことなど、Aさんが考えなくてはならない事柄が出てくる。Aさんが混乱しないように「これは、こういうことね」などと、内容を整理しながら、話を聞く。
 ●例えば、痛みでつらい時は、「がんばって」ではなく、「つらいんだね」と体をさすってあげる。つらさを分ってくれる家族がいると思えることがAさんにとって励ましとなる。
 ●ガンに対して悲観的、否定的な情緒に陥っているAさんは、例えば「全部は摘出できないから手術ではなく、抗ガン剤にしましょう」と言われた場合、「完治する方法がないのだ、こんなことなら死んだ方がましだ」と思ったりもする。そんな時には「本当にそうなのかな? 別の考え方について一緒に考えよう」と家族が言葉をかけ、Aさんの考え方を修正する。
 ●尾ひれのついた噂からAさんを守る。見舞い客などに適切な説明をする。
 ■それでは、医療者はAさんの家族をどう支援するのか。
 【患者としての家族への情緒的支援】
 ●先述の【心理状態】第一段階の時期には「まだこれから長い期間、Aさんを支えていかなければなりませんから、今からそんなに緊張しないでいいですよ」という指示が必要である。
 ●「ガン=死」のような固定観念を修正する。
 【治療者としての家族への情緒的支援】
 ●家族の緊張を緩和すると同時に、Aさんを支えていく役割を明確にする。
 ●Aさんの怒りや抑うつ(PTSD)の意味を家族に知ってもらい、具体的な対応の仕方を教示する。(続く)

157. ガン患者とその家族③
 【家族による支え】
 Aさんとその家族はお互いにかけがえのない関係にある。ガン診療における家族による支えにおいても、かけがえのない関係にある。Aさんは家族がそばに居るだけで心が落ち着き安堵する。家族による支えは、入院以前から日常の生活において培われてきた支えである。この支えは、医療者による問診などより濃密な関係である。この関係を保証する時間と空間を医療機関は提供する必要がある。
 【ネットワーク】
 Aさんとその家族を情緒的に支えるためのサポート体制が考えられる。しかし、核家族化や高齢化社会の進行で家族の姿が変化しており、親戚や友人から成るネットワークがAさんにとって重要な支えとなる場合がある。ソーシャル・サポートと呼ばれるもので、臨床的にも必要になってくる場合があると考えられる。医療者だけの連携を強調する医療チームだけでは不十分ではないかと考えられる。つまり、Aさんとその家族の状況を総合的に把握して接していくために、Aさん・家族・親戚・友人らも医療チームに間接的にであれ参加し、ガンと闘う「支え」が必要になってくると考えられる。
 ここで問題となるのは、そのような医療チームの中での親戚や友人の位置である。家族はAさんに親しい二人称で接することが出来るが、親戚や友人はAさんからすると三人称の彼・彼女である。その彼・彼女はAさんに対して三人称で接するべきであろうか。まるっきり三人称で接すれば、よそよそしい関係になってしまう。かと言って二人称の関係になりきることは出来ない。そこで、2. 5人称の関係が浮上する。つかず・はなれずの関係で、二人称の関係の近くにあって、二人称の関係を補強し支えるネットワークを形成する。(Aさんとその家族がそのようなネットワークを必要としないならば、話は別である。)
 医師から治療の選択肢を説明されて、どの選択肢で同意するか、Aさんもその家族も同意に自信がない場合、ネットワークの中に医師の説明をきちんと理解できる人がいれば、心強い。
 治療中、長く続く鈍痛や脱毛や食欲不振などで時には悲嘆に暮れるAさんをとことん支えるには可能な限りの情緒的支援が必要である。(終り)

158. 最近、ガルシア・マルケス『百年の孤独』が・・・
 ガブリエル・ガルシア・マルケスは、南米コロンビア出身。「魔術的リアリズム」の旗手として知られ、1982年にノーベル文学賞を受賞した。スペイン語世界において、『ドン・キホーテ』で有名な16世紀のスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテス以降最も重要な作家とも評されている。
 死後10年を経て、最近また日本で読まれ始めた。
 彼ははコロンビア北部の町アラカタカで生まれた。『百年の孤独』や『落葉』、『悪い時』に登場する架空の町、マコンドはアラカタカがモデルとなっている。
 幼少期は両親とは離れ、祖父母のもとで暮らした。祖父母はともに話を聞かせるのがうまく、元軍人の祖父は軍人のあり方やコロンビアの歴史、殺人が心に残す重荷について、祖母は民話や迷信、幽霊を孫に語って聞かせたという。特に祖母の話は『百年の孤独』に大きな影響を与えた。
 その後はジョイスやウルフ、カフカやフォークナーの作品にも影響を受けた。大学卒業後は、新聞記者やコラムニストとして活動する一方で小説を書くようになり、67年発表の『百年の孤独』で名声を確立。同書はこれまでに20数カ国語に訳され、2000万部を超える世界的ベストセラーとなった。
 エピソードとして。彼は政治的左派でキューバのカストロ政権を支持する姿勢から、米国からは何度も査証(ビザ)の発給で制限を受けたり拒否されたりしたが、これは『百年の孤独』のファンだったクリントン元大統領が規制を解くまで続いた。

159. 生命というもの
 私の好きな文の一つに次の文がある。
 「とりわけ戦後むやみやたらと経済成長に血眼になることによって、私たちがともすれば見失っている日本人が元来持っていた生命というものに対するある見方・・・日本人はなにかある極限的な状態に追い詰められて、自らの存在、あるいは生命というものを顧みようとします場合に、人間の生命というものを、一切衆生と切り離したものとしては意識しないで、他の動植物、ねずみとかトンボとか、あるいは植物とか、そういう存在の中に貫かれている生命のリズムというものを凝視することによって逆に人間の命というものを迂回して考えるという、そういう性質を日本人は持っていたはずなんです。」

 中国文学者で作家の高橋和巳の、志賀直哉『城の崎にて』についての文の一節である。この人の講義に私は出たことがある。どこかおどおどした立居振舞の人で、優しい眼をした30代後半の書生のような先生であった。話し言葉は下手だが、小説の文は類稀な上手を極めた。残念にも早世された。

 ところで、上の文の醸すところに私が批評するところは全く無い。
 この文を参考にして次のような事を考えた。弱肉強食の生物界にあって、強者は弱者を慮るのが良いのではないか。実際、天然自然においてはそうなっている(空腹を満たす場合を除いて)。とりわけ人間の間でも強い人間は弱い人間を慮り愛する方が良いのではないか。強い国は弱い国を慮り手を差しのべる方が良いのではないか。そうすれば、互いに戦争を仕掛けることはないであろう。そうすれば、人間を、あるいはむやみやたらと動植物を殺すこともないであろう。他者の、あるいは動植物の「存在の中に貫かれている生命のリズムというものを凝視することによって逆に」自分の「命というものを迂回して考えるという、そういう性質」を涵養する方が良いのではないか。そうすれば、他のものの生命というものを亡きものにするということは随分と減るだろう。

160. 心月両相照
秋です。この詩を思い出します。真山民(南宋)の詩。

    山中月     山中の月

 我愛山中月   我は愛す 山中の月
 烱然掛疎林   烱然として疎林に掛かるを
 為憐幽独人   幽独の人を憐れむが為に(憐れむかのように)
 流光散衣襟   流光 衣襟に散ず
 我心本如月   我が心 本(もと)月の如く
 月亦如我心   月もまた我が心の如し
 心月両愛照   心と月と両(ふた)つながら相照らし
 清夜長相尋   清夜 長(とこ)しえに相尋ぬ

(最近、幽独の人を気取っています(微笑))。

161. 思慕の念
 愛に一番近いのは、
 思慕の念である。
 思慕の念が愛に変わるのも
 珍しいことではない。
 思慕の念は、
 清らかな精神関係を
 表現する意味でも
 愛に似ている。

 ただ、
 愛は、
 現在の持続性を要求するが、
 思慕の念は、それを必要としない。(ゲーテ『箴言と省察』より)

「思慕の念が愛に変わるのも珍しいことではない」とは、ゲーテ自身の体験が言わしめた台詞であろう。思慕(Sehnsucht)の念が愛(Liebe)に変わらなければ、彼の苦悩も少なかったであろうし、傑出した作品を誕生させる動機も少なかったであろうし、人間観察も浅かったかもしれない。私はと言えば、かつて思慕の念が愛に変わったと推断したことがあった、今は昔、遠き昔。

162. 生物時計
 昨日、畑違いの人から面白いことを聴いた。アサガオは暗室に入れておいても約24時間毎に花を開くというのだ。やはり、どこかに生物時計を隠し持っているのだろうというのだ。高等動物の場合には、脳の中枢にある松果腺が生物時計の歯車の一つではないかと言われている。
 思うに、この生物時計を現代人は余りにも蔑ろにしているのではないか。腕時計や携帯電話の時計に頼りすぎて、自然のリズムを体全体で感じ取る術を麻痺させているのではないか。私も遅寝遅起きで、完全に生物時計に違反している。都市生活者の多くは生体のリズムを乱している。人生はマラソンなのに、息せききって百メートル競走を続けているような人も居るのだろう。このような状態が事故の元であり、あるいは自分の生活に疲労を感じる元である。生物時計のリズムに背いて生活することは、それだけ電気使用量などが増える訳で、回りまわって自然の生態系にも悪影響を及ぼす。
 生物時計に従うことは、都市生活者にとって今はもう不可能なのかも知れないが、なぜ不可能なのか、その原因を探ってみるのも必要な時代に来ていると思われる。 

163. アラン『幸福論』より①
 アラン、本名エミール・シャルティエ(1868-1951)の『幸福論』は幸福について体系的に書かれた書物ではなく、93のテーマについて断片的にウイットをもって書かれ、全体として幸福に関する事柄を扱った書物である。正直に言って僕はフランス人のウイットを解せない愚鈍を自認する者であるが、昔かじったこの『幸福論』から気になる所々を、抜書きしておきたい。
 〈原因はピン〉 幼な子が泣き止まない時、乳母はその子の幼い性格について、好き嫌いについてあれこれ想定する。心理学的詮索の後に乳母は、すべての原因がおむつの中のピンにあることに気がついた。・・・
 現代の外交官たちはみんな、彼らのおむつの中に刺し損ねたピンをもっている。そこからヨーロッパの紛争が出てくる。・・・1914年の不幸(第一次大戦)は、要人たちが不意打ちをくらったことから生まれた。そこから彼らは怖がってしまった。人間が怖がると、怒りが遠からず起きる。興奮すると直ぐに苛立つ。・・・でも、人間というものは意地悪なものだと言ってはだめだ。彼らがこれこれの性格を持つと言ってはだめだ。ピンをさがしたまえ。

 (近頃の要人たちのおむつの中にあったピンとは、どんなピンなのだろう。自己中というピンと追随というピンに違いない。こんなことを言うから、僕にはウイットがない。)

164. アラン『幸福論』より②
 〈躁鬱の原因〉 一週間毎に躁と鬱が繰り返しやってくる人がいた。診療した心理学者氏が観察をかさね、様々な処置をほどこした後で、ついに重大なことを発見した。血液一立方センチメートル中の血球数の変化を調べた結果、喜びの時期が終わる頃には、血球数が減少し、悲しみの時期が終わる頃には、血球数が増大するという「法則」を発見した。そうして、「大丈夫ですよ。明日になればきっとよくなっていますから」と診断したが、躁鬱の人が信じる訳がない。
 この話に対して、自分は悲しいのだと思いたがっている別の人が言った。「分かりきったことじゃないか。我々の力ではどうすることも出来ないのだから。考えたところで血球数が増える訳ではないし・・・。要するに、どんな哲学も無駄なことだ。この大宇宙はそれ自身の法則に従って我々に喜びをもたらす事もあれば、悲しみを与える事もある。まるで冬も来れば夏も来るように。・・・ぼくが幸せになりたいと望んだところで、そんなこと、散歩がしたいと思うのと大して変わらないではないか。・・・」
 血球数が問題だと知る事は、悲しみを突っぱねてしまう事だ。本当の友人が居ないというよりも、血球数が少ないという方がいいではないか。

(はてさて、躁鬱の原因が血球数の増減だとは?この増減は「大宇宙の法則」だと言うのであろうか。私にも喜怒哀楽があるのだが・・・。何やら血球数が減少しつつあるような心持ちがしてきた。)

165. サッカー日本代表の森保一監督が本日12日、日本原水爆被害者団体協議会へのノーベル平和賞授与に関してコメント。
 森保監督は被爆地の長崎市育ち。サンフレッチェ広島でサッカー選手そして監督。コメント全文は以下の通り。
 「今回のノーベル平和賞受賞は素晴らしいことであり、心からお敬い申し上げます。
 日本原水爆被害者団体協議会の皆様の長年のご努力がノーベル平和賞という形で報われ、本当に嬉しく思います。
 被爆者の確固たる信念と精神は、日本のみならず世界中の核軍縮運動への意識を促進する原動力となっていると私も信じています。 
 この素晴らしい受賞をきっかけに、日本から世界平和を願う一人の人間として、平和について全ての人に今一度考えてもらえる機会になれば良いと思いますし、我々サッカー日本代表もサッカーを通してスポーツができる平和の意義を体現していきたいと感じます。」

(ついでに私も。日本原水爆被害者団体協議会の皆様のここに至るまでのご活躍に心底より敬意を表します。今後のご活躍を心底より希望して居ります。世界各国の指導者たちが核禁止に向かうように、核の製造を止めるように強く強く望んでいます。)

166. 田中 正造 
 足尾銅山が多くの人々の手によって見事に回復し、熊や日本カモシカなどが棲息するにまで、緑豊かな山に蘇った事を数年前にテレビで見た。その時録ったビデオを久しぶりに見た。
 今回ビデオを見て、思い出した人物が田中正造である。若い名主、民権運動家、代議士の経歴をもつ彼は、五十歳になったころから足尾銅山問題に取り組み始め、残りの二十年余りの人生をそれに捧げた。彼の名前は現在では高校の日本史のすべての教科書に載っているそうだ。
 足尾鉱毒事件は歴史的経過としては二つの局面に分かれる。一つは渡良瀬川流域の鉱毒問題、もう一つは鉱毒問題を解決するために谷中村を遊水地にしようとした問題。田中の闘いは鉱毒の存在の指摘から始まり、帝国議会での相つぐ質問、被害民との共同行動、天皇への直訴などを経て、水没する谷中の住民となることに至る。
 当初は主として、古河鉱業の仕業や政府のそれとの癒着、田畑の荒廃による被害民の資産や収入の減少を指弾していた田中が、人の命が踏みにじられてしまった点にこそ問題の本質があると認識するに至ったのは、1896年の渡良瀬川の大洪水を契機にしてでのことであった。被害地を巡回した彼は、被害者が被害者であるにも拘わらず、被害を隠そうとする窮地に追い込まれている事を知った。また、鉱毒が母胎に影響して、死産が増えるとともに、乳幼児の命を侵している事も見聞した。
 それらを通じて彼は「所有権ヲ侵シ、生命ヲ侵シ、名誉権利ヲ侵シ、而テ之ヲ救フ方法ヲ為サズ」と述懐している。こういう発想の基本には、自然の中に生き、ものを育てる事、即ち生命を伸ばす事を職業とする「百姓」(彼の自伝は「予は下野の百姓なり」の一句で始まる)の感覚があったと思われる。
 生命をすり減らす開発という「文明」を告発してやまなかったのではないかと思われる。昭和の戦後、水俣病や薬害エイズをはじめ様々な酷に過ぎる公害が発生したことは周知のところである。田中正造の告発は現代においても生きていると思う。
 なお、城山三郎『辛酸』は田中正造の最晩年を語った名作である。

167. 野焼き
  古き世の火の色うごく野焼きかな    飯田蛇笏
 草薙の剣の伝説など、古事記や風土記にも載っているほどで、昔から野焼きは行われてきた。
 奈良・若草山の山焼きも野焼きの一種だろう。
 日本各地でというか世界各地で行われている野焼きで最も規模が大きいものの一つは、阿蘇の野焼きだろう。一度見てみたい。
 野焼きによってダニなど人畜に有害な虫を駆除するとともに、牛馬の餌の草が育つ。野焼きをやめると木が生い茂り草原はなくなるとのこと。草原の美しさは野焼きによって保たれているのである。
 さて、上の句。野を焼く火の一面に燃えるのを見ていると、まさに古い火の色だと作者は感じた。野をなめるように這っていき、時にはくすぶり、時には烈しく焔をあげる野焼きの火。これは、古い祖先の人々、古代人が見た火の色と同じだと作者は思う。古い時代の野焼きにまつわる諸々の伝説や歴史、野焼きの詩歌を踏まえて「古き世の」と詠い出す。「火の色うごく」は火の強いところ、弱いところ、その濃淡を表す。そして「野焼きかな」で結んだのは作者の感動がこめられているのだろう。
 
 近頃は野焼きが少なくなったように思われる。その分、草原の美しさが減った。

168. 椎茸の効用
 椎茸には大きな効用がある。知り合いの老人ホームの月報より。
①骨を丈夫にするビタミンD
 ビタミンDは、腸からカルシウムの吸収、骨へのカルシウム吸着など体内でのカルシウム代謝に大きな役割を果たす。骨の脆弱化による足腰の痛みや骨折しやすくなる「骨粗しょう症」の予防には適度の運動、そしてカルシウムの多い食品とビタミンDを摂取することが望ましい。きのこ類にはビタミンDが含まれているが、特に干し椎茸にな生鮮椎茸の約9倍のビタミンDが含まれている。これは椎茸に含まれているエリゴステロールという成分がビタミンDに変化するためである。
②コレステロール値・血圧を下げるはたらき
 椎茸は、エリタデニンという他のきのこ類には無い特有の成分が含まれている。エリタデニンは、血液中における悪玉コレステロール値を下げ、善玉コレステロール値を高め、総コレステロール値を下げる働きをする。干し椎茸を継続的に食べると総コレステロール値を下げることによってスムーズな血流となり血圧を下げることも期待できる。干し椎茸の戻し汁をコップ一杯毎日飲むと効果的である。
③ガンを予防する抗腫瘍効果
 私たちの体は、免疫活性力があり侵入してくる病原菌と常に闘い続け健康を維持している。きのこの食物繊維に含まれるb-グルカンには、免疫活性を高める抗腫瘍性、感染予防が期待できると言われている。特に椎茸に含まれているレンチナンという成分には、リンパ球やナチュラルキラー細胞などの活性力を高める働きをするとともに抗腫瘍効果(ガン細胞増殖の抑制)が認められている。現在、このレンチナンという制ガン剤が開発され医療現場で活用されている。

 難しいことは分らないが、椎茸の効用は明らかに大きい、と言っても松茸も食べたいというのが本音。

168. 蒟蒻
 蒟蒻を外国人は食べないのであろうか。
 何でも食べる(と言えばお叱りを受けるが)中国人も食べないそうだ。中華料理で蒟蒻にお目にかかったことがない。留学生に尋ねてみたことがある。「あの匂いは食べ物の匂いではない。」とけんもほろろの応えがかえってきた。
 蒟蒻に匂いがあったかといぶかり、嗅いでみた。かすかに石灰の匂いがする。詳しいことは知らないが、蒟蒻は蒟蒻粉に石灰乳を入れて煮沸すると出来る。昔は木灰の上澄みなどを用いたが、いつからか石灰を使うようになった。その方が効率がいいからであろう。
 慣れというものは恐ろしいもので、蒟蒻の匂いに気づかなくなっていた。私は気づかないまま、蒟蒻の刺身は好きではなかった。
 だが、蒟蒻を一口大にちぎって(包丁で切るのではなく)醤油で煮た、何という料理の名前だったか、雷煮という名前だったか、煮物は歯ごたえもあり、美味で食が進む。余分に作り置いて冷蔵庫に入れておけば便利だ。匂いを消しているのに気がつかないで食べていたのだ。
 蒟蒻を食べる国が日本以外にあるのだろうか、と何でもないことが気に掛かった。

169. 杉の森
杉の森が、神々の住むところだという考えは昔から日本人の心に根差していたようだ。
    石上布留の神杉神さびし
       恋をも我は更にするかも
万葉の古歌にも、神杉という言葉があり、杉の樹が神と崇められていたことを示している。
同じく万葉に、三輪山の杉が出て来る。
   昧酒を三輪の神が斎(いわ)ふ杉
       手触れし罪か君に遇いがたき
三輪とは大神(おおみわ)神社(桜井市在)のことで、この社には本殿がなく、三輪山を神体とする。現在の三輪山はアカマツの山林となっているが、遠い昔は杉で覆われていた。この杉が神木で、この樹に触れることはタブーだった訳で、この恋歌は、神の禁忌を侵した報いかと、恋人に遇えぬ心を詠っているのだろう。45年ぐらい前から三輪山に登ることが許可された。案外に急な山で汗をかいた覚えがある。当然のことながら、「遇いがたき」人に遇えぬ。

170. 松浦 武四郎
 Facebook への投稿から転記。
 2018年は北海道命名150年、命名した松浦武四郎生誕200年。この松浦武四郎は(市町村合併の結果)三重県松阪市(私が高卒まで育てられた街)出身。
 28歳で当時まだ人々にあまり知られていない蝦夷地(現在の北海道)へ向かい、約13年間に計6回の調査を行いました。当時の北海道は原生林が生い茂る自然豊かな土地で、整備された道はほとんどありません。武四郎が蝦夷地調査を行うことができたのは、古くからその土地に住むアイヌ民族の人々の協力を得ることができたからです。武四郎はアイヌ民族の人々に道を案内してもらい、多くの地名や伝承などさまざまなことを聞き取りました。その調査は樺太などの島々にも及んでいます。武四郎はその調査記録をまとめて出版し、人々から「蝦夷通」と知られるようになります。
 時代が明治にかわり、武四郎は明治新政府から蝦夷地開拓御用掛の仕事として蝦夷地に代わる名称を考えるよう依頼されました。武四郎は「道名選定上申書」を提出し、その六つの候補の中から「北加伊道」が取り上げられます。「加伊」は、アイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、「人間」という意味です。
 「北加伊道」は「北の大地に住む人の国」という意味であり、武四郎のアイヌ民族の人々への気持ちを込めた名称でした。明治新政府は「加伊」を「海」に改め、現在の「北海道」としました。

171. 時代錯誤だろうか。
 荘子の有名な「はねつるべ」を、少し長くなるが引く。
 子貢は旅の途中でひとりの老人に出会った、その老人は畑つくりをするために、坂道を掘って井戸の中に入り、瓶に水をくみ、かかえて出てきては畑に水をそそいでいる。
 そこで子貢は老人に声をかけた。
「水をくみなさるなら、よい機械がありますよ。一日のうちに百ほどの畦に水をやることができ、労力はたいへん少なくて能率があがります。あなたは欲しいと思いませんか」
「そりゃ、いったい何だね」
「それは木を細工してつくった機械で、後ろが重く、前が軽いようにできています。これを使うと、まるで軽い物を引き出すように水をくみあげることができ、しかも速度が早いので、あたりが洪水になるほどです。その名は、はねつるべといいます」
 すると、老人は、むっと腹をたてた様子であったが、やがて笑って答えた。
「わしは、わしの先生から聞いたことがある。機械をもつものには、必ず機械に頼る仕事がふえる。機械に頼る仕事がふえると、機械に頼る心が生まれる。もし機械に頼る心が胸中にあると、自然のままの純白の美しさが失われる。純白の美しさが失われると、霊妙な生命のはたらきも安定を失う。霊妙な生命のはたらきの安定を失ったものは、道から見離されてしまうものだ、と。わしも、その機械のことなら知らないわけではないが、けがらわしいから使わないまでだよ」(天地篇三、森三樹三郎訳)
 この老人のように機械を否定することや、総じてテクノロジーを否定することは不可能である。可能だと言ったら時代錯誤だろう。ただ、問題は、機械の有用性を認めつつも、それに自らの心身を委ねることが人間にどんな影響を及ぼすかを顧みる知恵をこの老人から学ばなければならない、ということだと思う。

172. 自然と自然法①
 小学校唱歌にある「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」は自然の姿が多く残っていた時代の歌詞である。現在では国土のどこをとっても、人の手が加わっていないところはないと言えば過言であろうか。私は自然の山河と親しんだ子供時代が懐かしく、荒廃していく自然を見るたびに淋しさを感じる。二十五年前に今のところに住まいを得た頃と比べると、小さな森を丸ごと崩して住宅が押し寄せてきた。
 自然の狭義の意味は、人々が自分たちの生活の便宜のために改造の手を加えていないものをいう。自然とは、人工、人為に成ったものとしての文化・文明に対して、人力によって変更、形成、規制されることなく、おのずから成る生成・展開を引き起こす本質(nature)のことである。ただ、人の手が加わっても、それが復元の意味をもつ場合には、これを自然に含ませてもよいのではないかと思う。
 自然という言葉の意味は多義的で複雑で、いろんな分野の専門家たちがそれぞれに説明している。もしくは説明しようとしている。
 法学においても、自然法、自然権という言葉が使われ、この言葉もやはり自然に関する思想と切り離すことはできない。自然法とは、古代からの法思想の歴史に登場した伝統的な考え方に即して言えば、人為から独立した何らかの自然の秩序・事態あるいは先天的な倫理法則・価値に基づいて必然的に存立するものとされる。人間の作った法ではなく、時と所を超越した普遍妥当的な法であり、先天的な根拠に基づいた規範である。(続く)

173. 自然と自然法②
 自然法の内容や実定法との関係についての議論は、歴史的にも法学者によっても様々であるものの、実定法に対して自然法は、価値においても効力においても優位にあると考えられている点では共通している。したがって、自然法は至上の正義の法であり、実定法の成否を判断する基準とされ、自然法に反する実定法は、法としての効力を有さないと考えられている。(そう考える法学者がいる。)
 歴史的には、自然法は古代のギリシア哲学以来議論されてきた。ロゴスによって生活すること、普遍妥当性をもつ理性のルールという形での自然法の考え方がとられた。中世においては、カソリック神学と結びついた。その代表がトマス・アクィナス(1225-1274)である。著書『神学大全』において、法を神法、永久法、自然法、実定法に分類する。神法は神の啓示そのもであり、永久法は神の知性に基づく法の源泉である。人間は神の知性に参与、すなわち永久法に参与することができる。ここに自然法が成立する。人間は自然法を通して永久法を知ることになる。実定法は人間が作ったものであるが、自然法から導き出されたものでなければならないと考えられた。中性の自然法思想は、神の知性、意志にその根拠を求め、教会の正当性と中世封建秩序を維持する役割を果たした。
 中世の社会秩序が崩壊し、教会の権力が失墜すると、自然法も神学から解放され、その根拠も神の知性から人間の本性に置き換えられ、個人主義、自由主義に基づく自然法思想が支配的になった。(続く)

174. 自然と自然法③
 近代初期の自然法思想は、自然状態と社会・政治状態とを媒介する社会契約であるという考え方である。これは、共同体に埋没した個人ではなく、個人の主体性を基礎にして、その理性に国家・社会の存立の意義をもたせる考え方である。つまり、人は生まれながらに自由・平等であり、不可侵の自然権をもち、この不可侵の自然権をもつ人間は国家による拘束を受けないで自由に生活していく自然状態から出発するが、他方、人は孤立して生活することができないが故に国家をつくることを約束する。自由な個人から出発し、国家の基礎を人間の自由な意思に求め、自由と権力による拘束を自律の原理によって説明する。
 十九世紀に入り、近代的国家体制が確立し、法制度が整備され、自然法の理念が実定法に吸収、具体化されるようになると、十八世紀に至るまでの法思想を支配してきた自然法思想の役割が表面から次第に退いていった。それに代って、法実証主義が有力になった。ここでは経験的な実定法が力をもち、超経験的な自然法は排除された。ドイツにおいて、法実証主義が価値判断を退け、政治権力に対抗して法律に従って批判する潮流を放棄する傾向のもとで、ナチスの独裁政治体制が維持された。しかし、ナチスが崩壊し第二次世界大戦が終わると、その人権を無視した数多くの悪法に対して批判が高まり、再び自然法思想が浮上し、ドイツにおいて自然法の研究が復活していった。特に、現在のドイツでは自由の尊重、人権の保障という価値を実定法の内容に盛り込む姿勢が強い。(但し、ネオナチの台頭が懸念される近頃ではある。)
 今日、自然法については多様な理論的研究がなされているが、自然法と法実証主義のいづれを選ぶかという視点は、むしろ弱く、この両者を調和させる方法が注目されていると言ってよい。
 ただ、自然法が自然とどのように関係するのかという問題は法学者の間では殆ど注目されていない。どんな自然とどのように関係するのか、この問題は永遠の問題なのかも知れない。(終わり、何とも拙い終わりです。)

175. 私が忘れていた事
 『グリンゲイブルズのアン』(赤毛のアン)が出版されたのは1908年、モンゴメリー三十四歳のときだった。
 孤児院から男の子を引き取ろうとした子は偶然にも女の子だった。赤毛でそばかすだらけで、生き生きと輝く大きな目と澄んだ声の少女アンは、マシュウの馬車の上でしゃべり続け、空想を広げ続けます。
 着古した服は、空想のおかげで空色の絹に変わり、色あせた帽子は羽飾りで華やかなものになります。
 女の子を引き取るはずではなかったとなじるマリラに、「AnnではなくAnne、語尾にe のついたアンと呼んで、その方が上品だから」と言い張る。
 おおらかでユーモラスで、たいていのことではへこたれないのが、プリンス・エドワード島の人々の気質なんですが、アンもマシュウもマリラも夫々目を見張るほどに自分に正直で頑固です。頑固なくせに素直です。そう、驚く程に素直なんです。
 アンは、グリンゲイブルズの自然の素晴らしさや、腹心の友ダイアナを得た喜び、にんじん頭とからかうギルバートへの怒り、生まれて初めて食べたアイスクリームのおいしさ、どんなささやかなものにも、いつも新鮮な好奇心と嬉しさを感じ取り、さりげない事をさえ、わくわくする程の幸福感に変えてしまう。素朴で素直に生きる勇気が全編にみなぎっている。
 私がずっと長い間忘れていた事は、生きる素朴で素直な勇気だと気がついた。ただ、気がつくのが遅かった。でも、まあ、アンの輝く瞳を時々思い出すことにしよう。

176.   ブリ(鰤)
 ブリは年末年始の頃が産卵直前で脂がのり、旨い。日本海と太平洋の沿岸を南下するのがこの寒ブリ。しかも、日本沿岸とその近海にしか棲息しておらず、ブリこそ日本の国魚と言って過言ではないだろう。
 ワカシ(ワカナ)→イナダ→ワラサ→ブリ、あるいは、
 フクラギ(ツバス)→ハマチ→メジロ→ブリ
のように名の変わる「出世魚」なので縁起もよい。四年以上で、体長七〇センチを超えるものがブリだそうだ。
 近頃はハマチの養殖物が幅を利かせ、ポピュラーとなって高級魚とはいえないが、本物のブリはやはり高価である。そこで、僕ら庶民はもっぱらそのアラ煮を食することとなる。あるいは、刺身には適しない切り身と大根を一緒に煮たブリ大根の大根の味は、これこそ庶民の味であろう。
 庶民の代表的な味の源になってくれるブリ(鰤)に感謝しなければ気が済まぬ、そんな魚である。かと言って、他の魚に感謝しない訳では毛頭ない。だいたいにおいて僕は肉より魚の方が好みで、アジ(鯵)の干物など、食卓にいつあってもよい。
 しかし、たまには寒ブリの刺身にもありつきたい。そのうち誰かさんに頼んでみよう。贅沢かな。

177. ショパンの葬儀で
 1849年10月17日、パリのマデレーヌ寺院で行われたショパンの葬儀で同寺院の風琴で演奏されたのは、「24の前奏曲」の第4番。アウフタクトを含めて僅か26小節の小曲。高音部の2音を動機とし、それを伴奏の和音を変えながら反復して全曲を作り上げている曲で、その間に転調によって哀切きわまりない感情を見事に表現している。
 本来、「24の前奏曲」は24曲全部を弾くこと(聴くこと)によってショパンの人生観が活き活きと表出されるが、この第4番は、私でも弾くことができるほどテクニックを要しないので、時々悦にいって弾いている。この第4番のみで完結した曲と見ることもできるだろう。最後がピアニッシモで消えるように終わるから。ショパンの葬儀での曲として選ばれたのも分るような気がする。
 (心臓だけは姉によってポーランドに持ち帰られ、ワルシャワの聖十字架教会の柱の中に納められている。)

178. 浅田 次郎『終わらざる夏』上中下(2010年~2013年) 
 東京外国語学校で英語を修め、東京で翻訳書籍編集者としてモダンな生活をしていた片岡直哉。岩手医専卒業後、東京帝大医学部に進学し、将来を嘱望された若き医師・菊池忠彦、「鬼熊」とあだ名され、満州事変で手柄をたてた伝説的な英雄・富永熊男。
 三人は太平洋戦争末期、まるで運命の糸にたぐり寄せられるようにして「北部軍第一七八部隊」に入営、千島列島最北端の占守(シュムシュ)島へと向かう。
 この島では、1945年8月15日の無条件降伏直後の8月18日、本格的なソ連軍との戦闘が始まる。そして同年9月2日、占守島はソ連の支配下に置かれる。
 浅田次郎は、玉音放送の後に起きた実際の悲惨な戦闘の記録を調べあげた上で、三人の主要人物によるフィクションを成り立たせている。
 浅田の力点は具体的な戦闘場面より、彼らをめぐる人間たちのドラマに置かれる。45歳という徴兵年限ギリギリになって召集された片岡、女性のように優美な顔立ちのエリート菊池、三度の軍隊経験の果てに老いた母親と静かに暮らしていた鬼熊、彼らには夫々愛する家族があり、命よりも大切なものがあった。
 三人はフィクショナルな存在であるが、彼らのような人々は確かにいたと、浅田は繰り返し語っている。理不尽な戦争に蹂躙される市井の人々を描く浅田戦争文学の集大成。(上中下、2010年刊行。毎日出版文化賞)

179. 有機栽培の効用
 定期的に時々読む本に『地球白書』がある。この本は地球の未来への警告を発するために様々な分野における資料を収めている。そのひとつを抜粋する。
「化学物質使用量を減らして農地汚染を抑えることは、農地の生物多様性保護の基本である。イギリス土壌協会の報告によると、有機栽培農地では次のことが判明した。
 ・それぞれの種の個体数の多さと種の多様性はかなり高いレベルにあり、野生植物や希少種や減少種も五倍であった。
 ・農地の周辺の鳥類は二五%多く、秋から冬にかけての農地内の鳥類は四四%多い。
 ・鳥類が食べる虫の数は一.六倍。
 ・害虫ではない蝶の数は三倍。
 ・クモの数は一~五倍。
 ・ミミズを含め、土壌中の生物は著しく増加。」
 化学物質を使わない有機栽培で、特に興味深かったのは、緑肥(マメ科作物を土にすき込む)が使われると、生物多様性にとって有利な状態になる、ということである。そういえば、蓮華もマメ科の植物ではなかっただろうか。蓮華畑が田圃に変わることによって稲作が営まれ、水田には様々な水生動植物が活動していた。近頃は蓮華畑を見る機会が随分と少なくなった。寂しい気がする。

180.水たまりなど気にすることもあるまいに・・・
 ジョージ・オーウェルのエッセイに『絞首刑』という小文がある。雨季のビルマのある街で、「われわれ」は、一人のやせっぽちのヒンズー教徒の男を絞首刑にしようとしていた。「われわれ」は囚人を監房から引き出して絞首台の方に向かう。銃を持つ二人の衛兵が囚人の両側につき、別の二人が後ろから腕と肩をつかんで押すようにしながら行進していた。絞首台まであと40ヤードのところで、この囚人は、衛兵たちに両肩をつかまれているのに、途中の水たまりを避けようとして、ひょいと脇にのいた。その瞬間、オーウェルは「盛りにある生命を突然断ち切ってしまうことの不可解さを、その何とも言えぬ不正を悟った。」
 どうせすぐ死刑になるのだから、水たまりなど気にすることもあるまい。「われわれ」はまっすぐ水たまりを突っ走ろうとしたにちがいない。しかし、この男は水たまりをひょいとよけた。余計な、無意味な行為である。しかし、それでも、生への愛おしみに満ちた、人間の動物的な息づかいが感じられた。この男の小さな動作に何か大きな、正体不明のものを感じた。

(なお、ビルマであって軍政のミャンマーではない。「ミャンマー」がビルマに戻ることが是非あって欲しい。
 ビルマは、1930年代までイギリス領インド帝国内の一州だった。1922年、名門イートン校を卒業したジョージ・オーウェルは、オックスフォードやケンブリッジに進む級友たちとは異なり、19歳でこの植民地に赴任し、1927年までの5年間、警察官を務めた。)

181.「想定外」ということ
 「想定外」は炉心溶融した原子炉の封じ込めや住民避難についての対策をも思考の外に置くことだ。
 柳田邦男『「想定外」の罠』を参照して「想定外」ということに関して改めてまとめておきたい。
 2011年3月11日に起きた東日本大震災は、一か所の震源で起きたのではなく、岩手・宮城県沖、福島県沖、茨城県沖の三か所の海底断層のはね上がりが次々と連続して起きた地震で、そのエネルギーの大きさは M 9.0だと言われている。そして、災害規模の巨大さ。この地震と大津波による(とされる)原発大事故によるとてつもない大災害。
 この大地震・大津波・原発大事故は「想定外」だったのか? 「想定外」の意味を考えたい。
  A. 本当に想定できなかったケース。
  B. ある程度想定できたが、データ不足のために除外されたケース。
  C. 発生が予測されたが、その事態の対策に本気で取り組むと投資額が巨大になるので、そんなことは当面起こらないだろうと楽観するケース。
 ケースAは極めて少ない。BかC、あるいはBとCの中間あたりのケースが大半を占めてきたように思われる。
 「想定外」の二重構造
 歴史に残っている地震などから東北地方の太平洋側沖合の地震を予測する地震学の専門家は、かねてから東電の津波想定は甘いと警告していたし、古い原発の耐震性を再検討する経済産業省審議会でも警告していた。しかし、原発の安全対策基準に責任をもつ原子力安全・保安院も原子力安全委員会も、そうした警告を無視するかのようにして、東電の甘い津波予想を了承していた。理由は、可能性の小さいものまで考えていたら、経済的に見合う設計ができないということであった。
 そこで、もうひとつ問題なのは「想定外」という線引き主義がもたらす思考停止は、二重の構造になっていて、そのことが被害の構造まで二重にしたという点である。
 第一の局面は、原発建設の地震・津波対策について、現実主義による最大の想定値を決めた途端に、万一「想定外」の巨大地震・津波が発生した場合に、どんな事態になるかということについて思考停止してしまったこと。
 第二の局面は、全電源と冷却水の喪失による炉心溶融が生じた場合の、原子炉の封じ込めや住民避難について対策を立てておくことまで、思考停止してしまったこと。
 「想定外」という思考停止の二重構造は、大失敗の二重構造でもあった。

182.里山への憧憬
 都市の中、あるいは近郷に山林は無理でも、里山はある方がいいと思う。かつては日本の至る所にあった里山。
 今森光彦『里山を歩こう』によると、里山とは、比較的小規模な森林と草原と湿原という3つの要素から成り、人間の手によって緻密につくられ、比較的狭いところにある環境である。そんな環境で生きもの達がその間を行き来する。沢山の生きものを棲まわせる環境である。
 そんな里山を守ったり再生したりすることは、今となっては難しいことだろう。国立公園のように人の立ち入りを制限して管理することはできない。あるいは、住宅地によくある公園のように、ただ人がのんびりしたり、犬を散歩させたりするところでもない。里山には、人が暮らしていることが大前提である。多くの場合は稲作農家の人々である。人が暮らしているために、里山の維持が難しいとも言える。そこで暮らしている人は食べるために、もっと言えば豊かな生活をするために、里山を放置せざるを得なかった。
 では、里山の環境を残すには、どうしたらいいのか。結局のところ、人々の意識が変わる他はないのではないかと思う。土地の地権者は、あたりまえのように眺めてきた景色を新しい眼で見直し、また、都会から里山を訪れる人々は地元の人たちと接し、これまた新しい視点で土地を理解していくことが必要だと思う。
 多様な自然と文化が入り混じった里山をかけがえのない場所として多くの人々が自覚する必要があると思う。近年、数は少ないであろうが、里山を復興させる動きがあることは喜ばしい。

183.山口 彊『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』(初版2009年)概要
 昭和の初め 私が中学に入った頃
 学問の場で軍事教練が始まった
 歴史のターニングポイントであったのだろう
 だが まだ英語が教えられ
 私は特に英語に関心を抱き 勉強した

 長崎はインターナショナルな地であった
 国際連盟の設立 軍縮ムード
 そんな時と場所で 他人を武力で支配したがる人間に
 私は青年らしい憤りを感じた
 弁論部で世界平和をぶったこともあった

 昭和九年 長崎三菱造船に入社 設計技師
 商船やタンカーの製図工として働き始めた
 愛国心という偏狭なナショナリズムが横行し始めた
 昭和十三年 国家総動員法成立
 しかし 鉄材不足で満足な船をつくれず

 昭和十八年結婚
 150日生きた長男の死 病院には薬も注射もなかった
 銃後の人間も多く死んだのだ
 昭和十九年八月 長崎 初めての空爆
 その頃から私の出張が増えた

 昭和二十年五月 三ヶ月の予定で広島へ出張命令
 広島では七月に入るとそこかしこで疎開が始まった
 長崎帰任は八月七日と決まっていた
 八月六日 帰任の挨拶まわりをする最後の通勤
 遠くから聞き慣れたB29のエンジン音

 そのとき私は見た 白い落下傘を二つ
 途端に 地上に白熱光が満ち 中空で炸裂し
 膨張する大火球が大爆発
 爆風が私を吹き飛ばした 意識を失った
 素肌を焼きゴテで灼かれるような疼痛で我に返った

 毛髪はすべて燃え 顔も首筋もとろけた ひどい火傷
 焦げた左腕が膨れ上がり 皮膚が垂れ下がった
 やがて黒い雨 ひりつく顔面にも降り注いだ
 通りがかりの学生が椰子油を塗ってくれた
 広島は焔の中に自らを投じて燃えていた

 川面に人と人がひっついて漂っていた まるで人間の筏
 八月七日 避難列車が長崎に向かって出るとのこと
 七時ごろ己斐駅(現・広島駅)へと第一歩を踏みしめた
 広島の街には 一望千里 視界を遮るものは無かった
 午後一時 己斐駅を出発

 長崎駅に列車が着いたのは八日の昼近く
 実家では私は死んだものと思われていた
 妻は私を一目見て絶句したが
 「よくぞご無事で・・・」と言い 涙を流した
 次男と三人 三ヶ月ぶりに一つ屋根の下で寝た

 翌朝 出勤 広島の惨状を説明しているとき
 ピカッと閃光を窓外に認めた
 私は机の下で身をかがめていた
 地を轟かす音 竜巻の塊のような強風
 浦上方面の上空に 広島で見たキノコ雲

 幸い妻も次男も無事だった
 だが 長崎でも人間の筏を見た
 八月十五日 「とうとう終わった」
 悪寒の中 涙は出なかった
 しかし 苦難は戦争の終結で終わったわけではなかった

 今日をどうやって生きていけばいいのか
 私は英語を活かして通訳として働くことができた
 占領軍の米兵とつき合っている間に
 アメリカ人も人間であることを理解できた
 人間への信頼を取り戻すことができた

 反核運動に目覚めた
 ノルウェー ニュージーランド アメリカ イギリス
 外国のメディアも私を訪ねてきた
 二重被爆者としての私は私の体験を語った
 国連本部の一角でも講演した

 次男を癌で失った 享年六十歳
 私の現実は原爆から離れられない
 二重被爆に関する記録映画への出演を依頼された
 九十歳を目前に使命感がふつふつと湧いてきた
 語り部としての私の活動はまだ終わっていない

(国立広島追悼祈念館が被爆体験記や死没者データなど約13万人分のデータを調べ直した結果によれば(2005年7月発表)、二重被爆したのは少なくとも165人(男性128人、女性35人、不明2人)。その中で、両市での被爆状況が判明したのは138人。広島・長崎の両方で入市被爆した人が76人で最多でした(うち22人が広島に立ち寄って長崎へ復員した軍人)。
31人は広島で直接被爆後、長崎に避難するなどして入市被爆、20人は逆に長崎で原爆に遭った後、広島で入市被爆しました。2度の原爆に直接遭遇した被爆者は9人で、軍人や両市に造船所があった三菱重工業社員などです。2010年に93才で亡くなった山口彊(つとむ)さんもその一人、長崎の三菱造船所から広島に出張中に被爆、翌日長崎に帰ったあと、再度被爆しました。)

184. 蛇ながすぎる。
 ルナールの『博物誌』は、日本の川柳にも通じる面白味がある。
   蛇  長すぎる。
 これの原文は Trop long(トロ・ロン)。これだけで表現として充分なのである。
   蝶  二つ折りの恋文が花の番地を捜している。
   蚤  ばね仕掛けの煙草の粉。
   驢馬  大人になった兎。

 私も真似をしてみる。
   凡人  真似を好む。

185.寓話表現の不思議
 よく知られた寓話の一つ、「オオカミとツル」を略述すると、
「ご馳走を食べたい両者は互いに食事に招待した。招待されたツルはオオカミの出した平らな皿にうすく盛られたスープを長い嘴でつつくだけ。オオカミは舌で何杯もたいらげた。一方、招待されたオオカミはツルの用意した長い壷に入つたシチューに舌も届かず、よだれも涙に変わつてしまつた。」
 略述すると元の寓話表現のインパクトがおそろしく減るのであるが、この寓話の意味するところは、オオカミとツルは互いに相手の食べ方を忖度した心情的エゴイストだということだろう。
 ところで、寓話表現の面白さは、人や動物、ときには樹木さえもが共に会話をするという非日常を描きながらも、そこに、不自然さが感じられない、という点にある。不思議なのは、そのようなことを可能にする想像力、構想力という能力を私たちの祖先が太古の昔から持っているという事実である。この能力をいかに使うかによつて、私たちの未来の明暗がある程度決まると思われる。大国は貧しい小国のことを、国会議員は国民のことを、甲は乙のことを意を尽くして想像してみることだ。これをしなければ心情的エゴイズムが蔓延するだけだ。

186.北越雪譜(江戸後期)
 何度も大地震に襲われた新潟県中越地方は世界的な豪雪地域。震災に遭った人々は雪とも闘わなければならなかった。この闘いは言語に絶するほど辛いものであろう。
 ところで、江戸時代の異色の随筆『北越雪譜』はこの地域とほぼ重なる地方の風物を描いた傑作。
 名作『北越雪譜』の初めに、牧之は「雪に深浅」と題して、こう書いている。雪一尺(30センチ)以下の「暖国」の人は「銀世界」を花にたとえ、雪見酒に興じ、絵に描いたり詩歌に詠んだりする。「和漢古今の通例」であるが、これは「雪の浅き国の楽しみ」に過ぎない。
 「我越後のごとく、年毎に幾丈の雪を視ば、何の楽しき事あらん。雪の為に力を尽くし財を費やし、千辛万苦すること、下に説く所を視て思ひはかるべし。」
 雪月花という言葉があるように雪を愛でる暖国の常識に対して、豪雪地に住む人々の、雪を白魔と怖れる心情を突きつけたのは、千年間も続いた日本人の、特に都人の伝統的美意識への挑戦であったのかもしれない。
 「雪掘り」(「土を掘るが如く」家を掘り出す事)、「かんじき」や「すがり」で雪を踏み固めた「雪道」の歩きにくさ、人命を奪う吹雪や雪崩の怖ろしさ、そういったことが哀話を織り交ぜて描き出されている。
 豪雪の怖ろしさだけを伝えているのではない。長い雪ごもりの風土でなければ生まれなかったであろう縮(ちじみ)という織物などについても詳しく誇らしげに書かれている。あるいは越後特産の鮭についての描写などは殆ど博学をひけらかすに近い。牧之は健康な生活者であった。それが、このベストセラーの魅力の源なのであろう。

187.学徒動員
 私の15歳年長の兄は呼吸不全で亡くなった。享年65歳だった。片肺が無かったために、歳とともに残った肺の機能も下がっていき、晩年は酸素ボンベを傍においていた。20歳代後半に片肺を摘出された。原因は結核である。結核菌に染まったのは終戦前の軍需産業での学徒動員の最中だったと聞いた。その時には学徒動員がどういうものかは私には判然としなかった。
 日本では8月15日の終戦記念日前後が過ぎると、過去に犯した戦争に関する記事や報道が極端に減る。これではいけないと私は思う。掘り出し記事でもいいから、ことあるごとに反省の念を公にすべきだ。来年は敗戦80年。徹底的に反省の念を。
 去年の7月11日の夕刊に、軍需工業などに動因され、広島で被爆して亡くなった学徒が新たに約720人居たことが報道されていた。被爆死した動員学徒は計約7200人にのぼるそうだ。「新たに」というのは、何回もの調査にも拘わらず正確なデータが得られないからである。
 広島では被爆当日、約2万6800人の学徒が動員され、4人に1人が亡くなったとされる。空襲による延焼を防ぐため、屋外で家屋を取り壊す作業をしていた学徒に被害が集中し、犠牲者の8割を占める約5900人が被爆死したそうだ。長崎でもおそらく同様の事が起こったことだろう。灼熱を超絶した熱線。私には想像がつかない。
 想像がつかない恐ろしい事が一番多く起こるのは、戦争においてであろう。イラク戦争での捕虜に対する残虐行為がそうだった。
 想像がつかない程恐ろしい残虐な事が起きる戦争をしてはならない。何故なら、人間に特有な能力として通常の想像力があり、この想像力を超えた残虐な事が起きるのは、戦争屋の相手を慮る想像力を欠いた場当たり的な出来心のせいだからである。そこでは通常の想像力が機能していないからである。
 最近読んだ森村誠一『新版 悪魔の飽食』で描かれた日本陸軍第731(細菌)部隊による捕虜3千人もの生体実験などの残虐行為は、私の想像を絶する。ナチスによる非道も私の想像を麻痺させる。それらの行為は人道・非人道の区別を越えた超非人道行為である。
 銃後での学徒動員は、そういう超非人道行為を間接的であれ支えていたとも言えよう。何も知らされないまま。
 歴史は繰り返すとは古代ローマ以来の諺であるが、この諺がなくなるよう務めなければならない。

188.出征の様子
 私どもの知識は殆どが請け売りだと言ってよい。請け売りなんだけれど、受け継ぐべき重い知識は記憶しておく方がよい。以下は昨日の大新聞に挿まれたミニコミ紙からの抜粋である。
 昭和12・13年頃までの出征の様子はお祭りのようだった。出征兵士の名前を書いた幟を何本も立て、楽隊と提灯行列を従えた「天に代わりて不義を討つ、忠勇無双のこの兵」はまさに「歓呼の声に送られて」出征していった。・・・しかし戦争が激しくなり、出征していった人の数だけ白木の箱が還ってくるようになると、召集令状を渡す側と貰う側の、「おめでとうございます」「ありがとうございます」の挨拶も寒々しくなってくる。出征する者の知り合いは、街角に立って「千人針」を募るようになる。街行く女性たちに、晒(さらし)の布に赤い縫い糸で結び目を作ってもらうのだ。「千人の女性に縫ってもらった胴巻きを着ければ戦場で弾に当たらない」というおまじないである。・・・「千人針」には「五銭玉」を縫い付ける事が多く、「五銭は四銭(死線)を越える」という語呂を合わせてげんを担いだ。
 当時男子として生まれたからには、召集から免れるすべはなく、・・・大陸に送られ、南方に送られ、内地を恋しく思いながら、たまに送られてくる慰問袋を心待ちにしていつまでも続く行軍に耐えた。「敵の屍と共に寝て、泥水すすり草を喰む」こともあれば、「背も届かぬクリークに三日も浸かって」いることも・・・。いつ死ぬかも知れない恐怖と、残してきた両親や子供、家族など山ほどの「後顧の憂い」に兵士たちは苛まれた。

 子供達が兵士として戦争に行かなくて済む世の中であって欲しい。永久に。(北朝鮮の若い兵士がロシアで訓練を受けてウクライナへ征くと言われている。)

189. 神坂次郎『今日われ生きてあり』(初版昭和60年)
 冷静な気持ちで読める本ではない。第六話「あのひとたち」の最後に「松元ヒミ子(女子青年団員)の語る」として、次の文がある。
 日本を救うために、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女史団員はみな心の中でそう思うておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものでした。特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。三十八年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡(うち)にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な十九歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄暗い竹林のなかで、日本刀を振りまわしている姿です。---立派でした。あンひとたちは・・・。
 著者神坂の言葉は少ないが、こんなところがある。
 いま、四十年という歴史の歳月を濾して太平洋戦争を振り返ってみれば、そこには美があり醜があり、勇があり怯があった。祖国の急を救うため死に赴いた至純の若者や少年たちと、その特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げこみ、戦況不利とみるや戦線を放棄し遁走した四航軍の首脳や、六航軍の将軍や参謀たちが、戦後ながく亡霊のごとく生きて老醜をさらしている姿と・・・。特攻は戦術ではない。指揮官の無能、堕落を示す”統率の外道”である。

 冷静な気持ちで読める本ではないが、冷静に歴史を見なければならないと思う。

190. 文化とか文明ではなく、呆然と・・・
 私どもは生まれてこの方「おまえは人間だ、おまえは人間だ」と暗黙の内に言われ続けてきた。そういう教育も受け、自発的に人間としての文化・文明を享受しようともしてきた。思うに、時にはそういう文化・文明から自らを解放してみては如何であろうか。そういう文化・文明は私ども人間にとっての好都合な営為であり、その成果である。しかし蛙やドジョウやメダカやその他、無数の野生の動植物にとっては有害でさえある。ところが、そういう無数の動植物が心地よく生活してくれていないと、巡り巡って、私ども人間の生活も疲弊する。だから、身近の動植物になったつもりで、人間の文化・文明の本性を想像してみる事が大切なのではないだろうか。そんな想像はできないと言われるかもしれないが。
 私は時たま、例えば倒木に座って、木々の間を過ぎ行く風の音を聴く。その風がどんな経験をして、今ここを通り過ぎていったのかを想像してみる。大阪上空で汚染されて、生駒山で濾過されて、・・・もし風に感情が備わっていたら、喜怒哀楽を経験するのではないだろうか。
 私ども人間は、時には文化とか文明とかに距離を置いてみるべきだと思う。という事は、時には人間を止めてみるべきだ。文化・文明によって飼育されている秩序を離れて、ただ単に呆然と空とか山とか海とかを眺めてみる事を体験してみては如何であろうか。

191. 志賀 直哉『暗夜行路』
 1921年(大正10)1月~1937年(昭和12)4月、『改造』に断続連載。現在ではいろいろな文庫本で読める。
 《仕事に対する本能的な欲望を時任謙作は持っていたが、母と祖父の間の子という出生の秘密を知ったせいか、放蕩もしくは放蕩に近い生活をおくっていた。意に沿わぬ友人のせいでもあった。妻の過失にいつまでも拘泥する自分の心の拠り所を見つけたくもあった。》
 《長編の終り近くで友人が嗜め、それに応える箇所がある。》
「下らない奴を遠ざけるのは差支えないが、時任のように無闇に拘泥して憎むのはよくないよ」
「実際そうだ。それはよく分っているんだが、遠ざける過程としても自然憎む形になるんだ。悪い癖だと自分でも思っている。何でも最初から好悪の感情で来るから困るんだ。好悪がすぐさまこっちでは善悪の判断になる。それが事実大概当たるのだ」
・・・・・・・・・・
「気分の上では全く暴君だ。第一非常にエゴイスティックだ。――冷たい打算がないからいいようなものの、傍の者はやっぱり迷惑するぜ」
「・・・・・」
「君自身がそうだというより、君の内にそういう暴君が同居しているから、一番の被害者は君自身といえるかも知れない」
「誰にだってそういうものはある。僕と限った事はないよ」
 しかし謙作は自分の過去が常に何かとの争闘であった事を考え、それが結局外界のものとの争闘ではなく、自分の内にあるそういうものとの争闘であった事を想わないではいられなかった。
 《伯耆の大山に登る決心をする》
「雨さえ降らなければ、よく近くの山や森や河原などへ散歩に出かける。
私はこの山に来て小鳥や虫や木や草や水や石や、色々なものを観ている。一人で丁寧に見ると、これまでそれらに就いて気がつかず、考えなかった事まで考える。そして今までなかった世界が自分に展(ひら)けた喜びを感じている。お前(妻)に話したかどうか忘れたが、数年来自分にこびりついていた、想いあがった考えが、こういう事で気持ちよく溶け始めた感がある。・・・とにかく謙虚な気持ちから来る喜び(対人的な意味ではないが)を感ずるようになった。・・・お前には色々な意味で本当に安心してもらいたい」。

(以上のような抜粋で『暗夜行路』の真髄が分るはずがないが、好悪が善悪の判断になってしまうという心境を乗り越えるプロセスをこの小説が描いていることに間違いはない。)

192. 植物の「鼻」と「耳」
 20年ぐらい前の科学雑誌を見ていたら、興味深い記事に出会った。このクチナシの花を用いた実験がある。
 例えばバラに含まれるシトロネロールという香料成分をクチナシの葉に吹き付けると、特定の反応がある、というのだ。つまりクチナシは、匂いを「知る」機能を備えているということだ。クチナシに限らず、程度の差はあれ、それぞれの植物がそれぞれの匂いに反応した。しかも極めて微量の匂いをかぎわける力をもっていることが分かった。この力を応用すれば、植物による匂い感知器が実現する。果物や魚肉の生鮮度を見抜いてくれる測定器などが出来るかもしれないという。「まだ夢のような話なんですよ」と専門家は言う。
 植物は音にも反応する。騒音を流すと生体電位なるものに特定の反応があるし、音楽を流すと別の反応を示す。太鼓の音や雅楽のような音楽の時は反応が大きいが、モーツアルトの場合はむしろ少ないという。この差が何に依るのかは定かではない。
 ただ、植物には「鼻」も「耳」もあるということは確かなようだ。
 ポプラは虫に襲われると大気中に苦味をもったガスを出す。それを「知った」周りのポプラも苦味をもった物質を出して虫を防ごうとする。
 こういった研究は20年ぐらい前のものであるが、その後研究はどのように進んだのであろうか。いずれにせよ、僕らは植物のことをもっと知る方がいいし、植物の立場をもっと尊重する方がいいことは確実である。

193.    井伏鱒二『黒い雨』(1966年刊)
 無常という言葉があるからには有常という言葉があってもよいと思う(有情という言葉はあるけれど)。私の造語「有常」とは日々の生活に伴う「常なる心」を表す。
 広島原爆罹災者の体験を描いた井伏鱒二の『黒い雨』は、有常、常なる心を描いているだけに、それだけに、原爆による悲惨さとの比較で、胸打つものがある。
 それは、悲惨さの内に人間の哀愁がこもっていると言うか、悲哀と言うか、いや、一言では表され得ない、これはもう、読んで実感する外はない、井伏の人生観なのだろう。
 数ある原爆文学作品の中で、資料を駆使した(それだけに資料を盗用したとの批判もあるが、私はこの批判に与しない)冷静で且つ抒情性を失わない作品だと思う。
 ところで、キノコ雲を通して降った棒のような太い黒い雨が放射能を実際にどれぐらい含有していたかを苦心して実証したのは原爆投下後40年を経てからである。民家の室内のしっくいの白壁に染み付いた黒い雨の痕跡を丁寧に分析して、4日間暗室で高感度の感光板が精密な放射能量をとらえた。
 黒い雨 (Black rain)という言葉を残した井伏鱒二の功績は大きいと言わねばならない。

194. 東野 圭吾『天空の峰』(1995年刊)
 超大型特殊ヘリコプターが何者かによって奪われた。自らを「天空の蜂」と名乗る犯人は、ヘリに大量の爆薬を搭載したうえで、ヘリを遠隔操作し、敦賀にある高速増殖炉の上空でホバリングさせる。
 犯人の要求は日本中の原発を使用不能にすることだ。政府は対応に負われ、警察は追跡を開始する。
 ただ、ヘリにはその開発担当者の子供が閉じ込められていたことから、事態は思わぬ方向へ進展する。
 早朝五時から午後三時までの十時間の物語。
 燃料が無くなりしだい墜落するヘリの脅威は、放射能の無限の拡散を意味し、日本が史上例の無い破局を迎えることを予見させる・・・。
 クライシス・サスペンスと呼ばれる分野の小説だが、人気作家・東野圭吾の作品の中では異彩を放つ。なにより福島第一原発事故以降に再読すると、作中で使われている原子力関連用語が既に馴染みのものであることに驚かされる。
 東野が原子力を題材にしてテロや事故の可能性について警鐘を鳴らす小説を書いた、ということが勿論重要である。が、それだけではなく、小説としての完成度が注目される。原子力をめぐる多様な思考、意見、立場、それらを有機的に総合したところに成立している作品である。

195. 木枯らし一号
 昨日は立冬で且つタイミングよく木枯らし一号が吹いた。
 童謡「たきび」で、たきびをしている場所はどこだったかというと、山茶花が咲き、木枯らしが吹く寒い道だ。山茶花が咲き始める季節と木枯らしが吹き始める季節とはだいたい同じ頃なのだ。
 冬の初めの、北または西寄りの強い風を木枯らしという。その年の最初の木枯らしを「木枯らし一号」と呼ぶ。
 ものの本に依ると、東京に木枯らし一号が吹いた日の平均日は十一月八日。この日は偶然にも立冬(毎年十一月七日か八日)と一致する。平均日というからには、早い年には十月下旬に、遅い年には十二月初旬に木枯らし一号が吹くということだ。
 ある風を木枯らしと言うには、幾つかの条件がある。風が吹いた時の気圧配置が西高東低であること、風向きが北から西北西の間で、最大風速がおよそ八メートル以上あること、日中の気温が前日より二、三度低いこと。このような条件を充たし、冬に最初に吹く風が木枯らし一号なのだ。
 木枯らしが吹く仕組みはどうかと言うと、だいたい次のようであるらしい。太平洋側で木枯らしが吹く頃、日本海側では時雨が多くなる。上空の気圧配置が西高東低になると、北極から水分を含んだ寒気が押し寄せる。この寒気は、日本海側の山地で雨や雪を降らせ、水分を落とす。こうして、山地を越えて、太平洋側に吹く乾燥した寒気が木枯らしとなる。
 能登半島の被災地や東日本大震災の被災地は、もうだいぶん寒くなっているだろう。仮設住宅などでは冬になれば雪下ろしも大変!!!

196. 不確実性を隠さない !
 私は昔のあるいは今に近い時期の思想家の本を読むことがある。もう大分前から気がついている事なんだけれど、一人の思想家が若い時と成熟期とで、その考えが変わる、そういう思想家の方が、或る思想を後生大事にする思想家より魅力がある。あまり多くは知らないが、カントがそうであり、ラッセルがそうである。この二人について言える事は、考えが変わったという事を隠さないという事だ。変わる途中での不確実性を隠さないという事だ。
 話を例えばベートーヴェンに移そう。月光ソナタ、悲愴ソナタ、第五交響曲、皇帝協奏曲など、音楽史上稀に見る熟練の境地に立った彼は、それでも、それまでの仕事に安住せず、遥かな未踏の道へと歩み出した。それは、最高の成果から新しい疑問と課題へ、成熟した様式の具象性から瞑想的とでも言うのか、新しい真理探究者の立場へ至る道だった。しかもその道は危なげで不確実な道だった。彼はその不確実性を隠そうとはしていない。例えばハンマークラフィール・ソナタなどには明らかに変遷の不確実性がある。曲想にも作曲技法にも迷いがある。その迷いをあるがままに出している。そしてその後に、揺るぎない精神世界が開けた。
 今日挙げた人物に共通している事は、自分の仕事の変化に伴う不確実性を隠さないという事だ。他にもそういう人物は幾らも居るだろう。話は飛ぶが、不確実性を隠すのが戦争屋であり政治屋である。

197. 歳はとりたくないもの
(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「そろそろ下り坂という年齢(とし)で、その肉体と精神の衰えを、はたの人に悟らせる人はめったにいない。」
 私はもうとっくに下り坂で、肉体と精神の衰えを自覚しているが、近隣の人に知られたくないと思っているふしがある。正直に知って頂ければいいものを、知られたくないという自負心みたいな感情に誘われる。何故だろう?電車の中で僕ぐらいの年齢の人を見ると、比較してしまう。ん?僕の方が若くみえる?なんてつい思ってしまう。だが、実際は歳相応にくたびれているのだ。
 ロシュフコーにかかれば、自分の心理を即座に見抜かれてしまう。見抜かれて、確かに歳をとったと実感させられる。
 だが、まだまだこれからだ!という強引な感情を抱く。負け犬根性とは言わないが、負け犬にならない為には実行が伴わなければならない。少しでも実行に向かって、歳を隠そうと思う。なさけない文を記してしまった。

198. 菊 花(白居易(中唐))
  一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
  芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
  耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
  金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し
(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
  寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
  そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
  その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かびます。
朝晩、秋冷が続きます。お風邪など召されませぬように。


     終わりに代えて(逍遥もしくはペリパトス)
  ここのところ文字通りの逍遥をしていない。内面では色々に思うところがあり、気持ちは逍遥するが、それは単に思い煩うだけの事である。
 逍遥学派(ペリパトス学派の訳語)という言葉があるが、これは、アリストテレスが創設した学園リュケイオンに学んだ学徒たちが学園の廊下(ペリパトス)を散歩しながら真善美について語り合ったという故事に由来する。そぞろ歩きをしながら語り合うという悠長な事は、今は昔の事かもしれない。どうも忙しい世の中だ。逍遥するとしても、車の交通に気を取られるのが関の山だ。
 『ハムレット』を訳した坪内逍遥の時代からおよそ百年余り経つのであろうか。この百年余りの間に、逍遥という言葉が死語になったとまでは言わないとしても、殆ど使われなくなった。どうも忙しい世の中だ。
 真善美について語り合い逍遥できるペリパトスも無くなった。そもそも、真善美という言葉を吐く事がはばかられる世の中だ。
 だけど、私もどうかしてるね。こんな悠長な事を書いて。

 
 
 

 


   


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