ターミナルケア(終末治療)
(あらすじ)
蒼ざめた死に神は粋なセールスマン姿を装い、高齢者問題に頭を痛める、この国の政府に協力すると称して、裂けた口から上下の牙を覗かせ、額から角が生えた悪魔の院長と結託して、残り少ない高齢者の生き血を啜り取るため、彼らの人生最後に、一時の快楽の夢を与える新薬を開発し、臨床試験を重ねていた。末期癌を患う高齢男性が最後にみた極楽の夢とは!?
(本文)
その施設も、人生の最後を安らかに閉じたいと念ずる、大勢の病んだ高齢者に満ち溢れていた。
この国は、今や世界一の超高齢者社会を迎えていたのだ。
或る朝、今どき珍しく、蝶ネクタイを着けたイケメンのセールスマンがやって来た。
何でも、最近開発された高齢者向け新薬の売り込みだ、とかの噂が漏れ聞こえてきた。
恒例の、施設長兼病院長も交えた入居(入院)患者全員の集まりで、希望者が募られた。
試供された新薬を服用するために、男性1名と女性1名から成る組を必要数、選ぶのだ、という。
どんな意味があるのか分からぬが、兎に角もう此の世に大した未練もあるわけでは無し、それよりも何よりも、この倦怠感と体内から消えぬ重苦しい鈍痛(多分、何処かに巣くっているのであろう癌)から逃れるために、男は躊躇すること無く志願の手を挙げた。
その後、発表された組合わせの相手の氏名を知ったとき、男は後悔した。
よりによって、どうして俺が、院内切っての嫌われ者の婆とカップルにならねばならぬのだ。
死にたい気持ちになったが、キャンセルは認められ無い、という。
もう自暴自棄だった、その得体の知れぬ新薬の副作用で頓死することを心から願った。
そして、投与実験が開始された。選出された各カップルには、新しく模様替えした個室が与えられた。
ドアを開けた途端、昔何処かで見た、と男は感じた。
部屋の真ん中には不自然なほど大きく目立つダブルベッドが据えられていた。
高齢者の投薬実験に不似合いな風景は、半世紀ほど前に体験した赤坂のラブホテルのそれであることに、男は気付いた。
そして、そのベッドの傍らに呆然と立ち尽くす腰が曲がり、皺だらけの意地悪婆の顔を発見したときには、これが地獄なのではないか?と男は心底身震いした。
投薬後の初夜はベッドの端と端で、嫌悪感に苛まれながらカップルのそれぞれは過ごした。あの意地悪で、お喋りの糞婆も、さすがに自らの置かれた状況に圧倒されたのか、殆ど声を発しないことだけが唯一の救いだった。
絶望で眠れない、と思っていたが、矢張りとろとろと、いつか眠りに落ちていたらしい。
男は然程深く眠れたわけではないが、目覚めたとき不快感はなかった。それどころか、何か体内に満ちてくるものを感じた。
思わず下半身に手をやった男は慌てて、手を引っ込めた。そこでは信じられないことが起こっていた。
四半世紀前くらいから完全に再起不能となり、単に老廃物の排出にのみ機能していた男性の象徴が見事にもう一方の機能を果たすべく屹立していたのだ。
しかし、男の喜びはつかの間で、逆に失望の大波が寄せてきた。
今更こんな状態を与えられても、どうしようもない。
第一、こんな所では対象となりそうな女など一人もいない。死にかけた婆が充満しているだけだ。
入居者ではない、スタッフで残っていた、ただ一人の中年女性も先月退職した後、今や、この施設(病院)は、男性の看護師ばかりになってしまっていた。
自ら慰めるのは益々侘びしくなるだけだ。のろのろと身を起こし男はトイレに向かった。
洗面所の鏡を見て男は目を疑った。
茶褐色のしみだらけで、疲れ果てた老人の顔はどこへ行ったのだ?中年男ではあるが、結構様(さま)になった男の顔が写っている。
あの意地悪婆はどうしただろうか?恐るおそるベッドの方を覗いてみたが、引っ被ったシーツの塊が目の隅に入っただけだった。
それを確認し、男は足を忍ばせて部屋の外に出た。
足取りもいつもと違う、と男は感じた。多分、他人の目にも、颯爽とまでは行かなくても可成り良い線行ってるのではなかろうか?
ところが、すれ違った婆も、しょぼたれた爺も何の反応も見せない。
『フン、此奴らは既に生ける屍だ』男は呟いて、偶々大きな姿見に映った己の姿を誇らしく思い乍ら確認した。
ところがどうしたことだろう。鏡の中の映像は、むさ苦しく背の曲がったしみだらけの、見慣れた己の姿ではないか!?
男の心は急速に冷え込み、慌てゝあてがわれた自室に引き返した。
幻覚なのだろうか?部屋の外の姿見と、この室内の鏡とで同じ人間の映像が異なるなどということが、現実に起こり得るのだろうか?
男の頭は混乱し、気を失ったようにベッドへ倒れ込んみ、そのまま寝込んでしまった。
2回目投薬後の夜が明けたとき、男は全身から溢れてくるシグナルを感じた、『女を抱きたい』
もう再びあり得ないと思っていた身体感覚だ。
今は、兎に角相手を探さねばならない。外出には面倒な手続が必要だが、今の元気なら裏口から抜け出し、塀を乗り越えて外へ行くことだって可能だろう。
そう決めて、小さなクローゼットから一番マシなスラックスと、一着だけ残っていたジャケットを身につけよう、と着替え始めたとき、蠱惑的な香水の匂いと共に、柔らかく弾力的な肉体が男の背後から抱きついてきた。
ん? 柔らかい腕を振り解きながら、向き直ると、いきなり唇を塞がれた。忘れていた感覚が蘇り、頭の芯がしびれた。
ヌメヌメと舌が絡んでくる。やっとの思いで唇を離し、相手の顔を見た。そこには見たこともない官能的な女が、熱い吐息と共にそれでも恥じらいを見せながら、潤んだような目で男の顔を見詰めていた。
男の興奮は、最早頂点に達していた。若い女を抱きかかえ、大きなダブルベッドに一緒に倒れ込んだ。
とっくに忘れ去っていた「生きる」という感覚を男は取り戻していた。凶暴さと優しさを美しい女の中に送り込んだ。女もそれに応え、何度も呻き、悦びの声を上げ続けた。
それから、どのくらい時間が経ち、幾夜、女と抱き合って過ごしたか分からない。
投薬と、食事と、アルコールで疲れを癒す以外は、カップルは飽くことを知らず、ひたすら愛を交わした。
その新薬の効果は抜群、大成功だった。
数日後、女は絶頂で「死ぬ、しぬ、…」と叫び声を上げた後、本当にベッドの上で息絶えてしまった。
男は信じられない光景に驚愕した。
女が死んでしまったことにではない。今の今まで昼夜を問わず、抱いて、溺れきっていた女の姿がそこにはなく、皺くちゃで、院内一の嫌われ者で通っていた婆の薄汚い骸が転がっていたからだ。
これが、あの新薬の効果だったのか?男は体中の水分が抜け切ってしまったことを体感していた。
新薬投与実験の前を上回る極度の倦怠感、その上、疼痛は烈しく、男は絶望感に打ち拉がれていた。
そして、その夜、男も女の後を追って息絶えた。
高齢者施設+病院長室では、セールスマンが封筒に入れた現金を「これは院長先生個人へのホンの気持ちです」と差し出し、「医療法人の口座には、臨床試験の謝礼を、改めて振り込ませて頂きます」と続けた。
病院長(+施設長)は脂ぎった額を光らせながら、新薬の効果も抜群だが、ターミナルケアを上手くやれるのがよい。
年寄りたちだって、死ぬ前に、(私が言うのも可笑しいが)勘違い
にせよ、極楽を味わってから、逝くのだからな。
それに君、何と言っても施設の回転率を上げられるのが一番結構だ!何しろ、今でも入居や入院希望者の絶えることがないのだから。
裂けた口から上下の牙を覗かせ、額から角が生えた病院長+施設長は、はち切れんばかりの笑みを抑えるのに苦労していた。
「この薬の認可は異例の早さで処理されますよ。厚労省に、与党から圧力が掛かってますからね。高齢者問題を解消させるだけで、次の選挙は圧勝ですよ!」
蒼ざめた死に神に戻った、セールスマンも、ほくそ笑みながら、次の標的となる高齢者用施設や病院に向かうため、ソファから立ち上がった。