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背中 【#2000字のドラマ】
下ろし立ての水着。水圧強めだけど気持ち良いシャワー。照り付ける太陽で青く染まる水面。中学で初めての水泳の授業はワクワクしていた。していたはずだった。
「お前、背中の毛が異常に濃いな」
桂木の一言で気分は180度変わった。自分の背中なんてちゃんと見たことが無いし、まさか毛が生えているなんて思ってもみなかった。
「うるさいわね。あんたの腕も毛深いじゃないの!」
言い返して口喧嘩に発展したのは間違いだった。わたしと桂木はプールサイドの片隅で30分以上も先生に怒られ、水に足を付けることすら許されなかった。
背中の毛が濃いことを放置し、教えてすらくれなかったママへの怒りが止まらない。しかし今はまだ怒りを直接ぶつけられない。電話しようか迷ったが、貴重な無料通話分をこんなことで消費したくないから止めた。
***
その眩しい光は、2枚の透明な長方形をいとも簡単に通り、寝ているわたしの目元をこれでもかと照らす。快晴なのは良いが朝から暑い。昨日の一件もあり、わたしの心は病んだままだった。
起きるのが遅くなったので急いで制服に着替え、キッチンの棚からグラノーラの袋を取り出し、器にザラザラと盛り、牛乳をかけ、スプーンでかきこむ。時短の朝食ほど味気ないものは無い。
ふとママの顔を思い出す。朝起きてリビングに向かうと、いつもダイニングテーブルの上には炊き立てのご飯と温かいお味噌汁、目玉焼きにサラダまで用意されていた。そこに焼き鮭も加わる日はテンションが上がった。皮はパリッと、身はふっくら。絶妙な焼き加減も丁度良い塩加減もわたしには真似できない。「いってきます!」「いってらっしゃい、頑張ってね」の会話も無くなって久しい。
***
「区切りが良いのでここから自習にします。萩沼さんは帰る準備して良いわよ」
11時50分、先生が4限を早めに切り上げてくれた。わたしはママに会うために早退した。
ガンガンに冷房の効いた電車に揺られること30分。降りてからの温度差で体調を崩すのではないかと不安になる。ここからの道のりが長かった。炎天下のアスファルトを、時折ある日陰と水撒きに助けられながら歩き続ける。少し大きな病院に着く頃には汗だくになっていた。
「明美! 久しぶりね。会いたかったわよ」
涼しい病室に入ると、2週間も顔を出さなかった娘をママは、やつれた顔で、それでも笑って迎えた。
「ねえ聞いてよ。昨日学校で男子が……」
ママの車椅子を押しながら廊下を一周する間、わたしは例の毛の話をしようとした。
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない」
わたしの目に映るママの背中は、とても優しく頼もしく、強く見えた。
(もう、わたしのほうが弱っちゃうじゃない)
涙腺が危うくなったが、ママを心配させまいとギリギリのところで堪えた。
「退院したら、またママの焼き鮭が食べたいな」
「ごめんね。もう少しだけ待っていてね」
車椅子を押す者と押される者。お互い顔は合わせずとも、交わした約束は後にちゃんと果たされることとなる。
***
吉祥寺のワンルームで目を覚ます。週の半分が2限から始まる大学生活は、朝をゆっくり過ごせるからありがたい。
グリルから取り出すオレンジ色の切り身は、今日も美味しそう。退院してから何度も教えてもらったママの味にはまだ近付きすらしないものの、一口食べるとあの頃の朝食を、いってきます、いってらっしゃいの掛け合いを、そしてママを思い出す。アルバイトで溜めたお金を注ぎ込み、わたしの背中は最近やっと綺麗になったが、ママみたいな優しくて強い背中にはまだまだ程遠い。
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