君付けで呼ばれていた若き日を憂う/青木マッチョ考【小話2本】
1.「当方君」から「当方さん」へ……
38歳にもなると、老いを感じる瞬間がしばしばある。例えば職場で「当方さん」と“さん付け”で呼ばれる時だ。
若き頃……20代半ばまでは「当方君」と“君付け”で呼ばれる場合が多かった。呼ぶ側が自分の部下や同期には“君”、上司や年上には“さん”の敬称を付ける傾向にあるからだ。一方で私は上司も部下も先輩も後輩も同期も年齢問わず“さん”を付けて呼ぶ(かつ敬語を使う)のだが、使い分けが面倒だから無難な方に統一しているだけである。
学生時代、想いを寄せる女子に「(苗字)君」と呼ばれてキュンとした経験は無いだろうか……それワシやないかい!(©️陣内智則) 男子は呼び捨てる人が多かったから尚更だった。その性癖は大人になっても変わらず、社会人の最初の数年間は若い女子に君付けで呼ばれるだけで快感を覚えた。男性も私より少し年上の先輩社員は「当方君」と呼んでいたが、親近感を持って接してくれたのだなあと今なら思える。本当にありがたいことだった。
それが今や……職場の上司や先輩さえも自分より年下が少なくない。彼等は私のことを当然“さん付け”で呼ぶ。そして彼等は(男女問わず)年下の男性を“君付け”で呼ぶのだ。女性社員に君付けで呼ばれる学生アルバイトや若手社員を見る度に彼等を羨み、自分はもう彼等のようにはなれない、君付けで呼ばれていた世界線には二度と戻れないと悲観する。
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年齢とともに“君”から“さん”へ敬称が変化する。これは男性特有の現象で、女性の読者様にはピンと来ない……と書こうとしたが、女性にも同様の現象があったではないか。そう、“ちゃん”から“さん”への変化だ。「(下の名前)ちゃん」または「(苗字)ちゃん」と(特に年上の女性から)呼ばれていた時期があったと思う。それがふと無くなった時、それに気付いてしまった時、あなたはどう思っただろうか(※たぶん何とも思っていません)。その切なさ(?)が今の私の心境なのだ。お分かりいただけただろうか(※わかりません)。
2.笑いで人を救った青木マッチョ
9月12日に放送された『ラヴィット!』。感動した。そして青木マッチョさんを見直すこととなった。
この日は26歳の一般女性(杉山さん)が登場。3年前に保育士を辞め、療養中にラヴィットで笑い、「まだ笑えるんだ良かった」と泣いた。今年4月に再び保育士として社会復帰を果たすも、当初は新しい環境に馴染めず気落ちしていた。そして4月11日、青木さんのラヴィット初登場の日を迎えた。
私は当初から一貫して青木さんを厳しい目で見ていたが、その一方で杉山さんは「失敗ばかりを恐れていた私に『失敗してもいいんだ』ということを体現して教えてくれた青木マッチョのことが大好きに」なったのだと言う。
このポストは図らずも1,300以上もの“いいね”をいただいた(青木さんご本人からもいただきました)。深い話をしたつもりだったので、多くの方に共感していただけたのは正直嬉しい。
深い話とは、「笑いは人を救えるのか」という命題である。
笑いは一時の快楽でしか無いと、ずっと思ってきた。私は高校を中退している。中退後に勉強そっちのけでテレビのバラエティー番組を観まくって大笑いした日々も長くは続かず、一年もしないうちに予備校講師に激怒され、そのままうつ病になってしまった。当時の私にとって笑いは一時の快楽でしか無く、何も得るものが無かったのだ。
ましてや昨今、TikTokやYouTubeのショートなど、1分未満の動画(主にショートコント形式)が若者の間で大流行している。それこそ一時の快楽でしか無い、たった1分で何が得られるのか、と思うのである。喜怒哀楽、様々な感情を抱き、深い考察をした上で自分の感想を文章化する。ここまでしないと生きる糧にはならないし、その為には小説や漫画、アニメ、ドラマ、映画など幅広いコンテンツをインプットせねばならない(私自身もそこまでは出来ていないのだが……)。YouTubeばかり一日何時間も観ている人は、一時の快楽しか得ていない人は、かつての私のようにうつ病になる危険性だってあるのだ。
だからこそ、ラヴィットというバラエティー番組が一人の女性を社会復帰させ、青木マッチョというお笑い芸人が女性の心を救った事実はかなり感慨深い。笑いが人を救うことだってあるし、それ以上の大きな力さえも秘めているのかもしれない。
青木マッチョさんの更なる可能性に期待しつつ、深夜にひっそりとこの記事を上げる。