「世界に一つだけの花」が嫌いだった自分が守りたかったもの
小学生の頃、あの曲を歌わされるたび、胸の奥に冷たい波紋が広がった。
言葉にできない違和感と、不快感の渦が、静かに私をのみ込んでいった。
「世界に一つだけの花」。その響きは確かに美しかった。
だが、「ありのままでいい」「皆が特別」という歌詞が、どこか空虚で作り物のように感じられた。
「みんな違ってみんな良い」。けれど、現実はそんなに甘くない。
努力をしても光を浴びない人がいる。
「ナンバーワンにならなくても良い。みんなオンリーワン。」
そう歌うたび、心の奥でつぶやきたくなった。
それを感動だと思うほど、私たちは馬鹿にされているのか、と。
「オンリーワンであることに誇りを持て」
そんな言葉は、何もしなくていい、ただありのままでいい、と聞こえる人もいるだろう。
だが、オンリーワンとは、その分野のエキスパートであり、結局のところ、言い換えたナンバーワンではないのか?
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漠然とした「あなたは唯一無二だ」という慰めに似た言葉が、
どこか上から目線の説教のように感じられたのだ。
そもそも、花屋に並ぶ花たちは選ばれたプロフェッショナルたち。
歌うべきは彼らではない。
間引かれ、咲くことすら許されなかった花たちへこそ、声を届けるべきではないのか。
静かに生きる子どもたちが、見過ごされる現実の中で、
そのことに気づき始めたばかりの私にとって、
あの曲はまるで絵空事のように響いていた。
それでも、歌わないという選択肢はなかった。
声を上げなければ、先生の視線が鋭くなる。
沈黙すれば、周りの中で自分だけが浮いてしまう。
心にもない言葉を無理に口にして、喉に違和感を抱えながら歌い続けた。
そのたびに、自分の声は、存在は、少しずつ薄っぺらくなっていった。
歌詞を紡ぐたびに、自分自身が否定されていくような感覚に囚われていった。
あの時間は、「個性を大切にしなさい」と掲げながら、
全員を同じ型にはめようとする矛盾そのものだった。
歌声に隠された苦々しい沈黙と、誰にも見えない小さな抵抗が、
あの教室の空気をひそかに揺らしていた。
一人ひとり違うはずの花が、
同じメロディの中でひっそりとしおれていくような時間だった。
もし、あの時の自分に会えるのなら、私はこう言いたい。
「その違和感は正しい。それは、君自身のアイデンティティを守るための叫びだったんだ。」
当時、大人たちには「子どものよく分からないこだわり」と片付けられたあの気持ち。
それこそが、自分を生きようとする証だったのだ。
最近、それを教えてくれたのは、友人に勧められて読んだ『自分の中に毒を持て』だった。
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太陽の塔を作者の自著である。
岡本太郎さんが綴った言葉の中に、私は自分自身を見つけた。
かつて彼はいじめに屈しなかった唯一の子どもだった。
大人になり、いじめっこに言われた一言──
「君だけは言うことを聞かなかったから、いじめたんだ」。
その瞬間、彼は気づいたのだという。
「ああ、あの時の自分は、自分の心を、アイデンティティを守り抜いていたのだ」と。
オンリーワンとは、それだ。
誰かが用意した言葉ではなく、自分の足で掴んだ真実。
苦渋の末見出した真実。
それを胸に抱き、誇りを持って生きることが、
本当のオンリーワンなのだ、と私は今なら思う。
泣いていた、かつての私に伝えたい。