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東大寺の大仏は長屋王の祟りを鎮めるために造られた?

「奈良の大仏」を現在鋳造・建設した場合、どの程度の費用を要するか推定した大学の研究チームがありました。(関西大学院会計研究科チーム)

計算の結果、現在価格にして建造費用は約4,657億円となり、
さらに経済波及効果にいたっては約1兆246億円にのぼることが分かりました。
東大寺の大仏の総工費は、現代のお金に換算すると約4,657億円と推定されています。

https://www.kansai-u.ac.jp/global/guide/pressrelease/2010/No29.pdf

当時の日本の国家予算は、年間で約100万貫(約3億6,000万円)程度だったと言われています。
そのため、東大寺の大仏の総工費は、当時の国家予算の約1,292倍に相当します。

これは、とんでもない額です!!

当時の日本は、農業が主な産業であり、経済規模は現代に比べて小さいものでした。
そのため、東大寺の大仏の総工費は、当時の日本にとって、非常に大きな負担となったと考えられます。

また、東大寺の大仏の総工費は、当時の日本の経済力や技術力の高さを示すものとしても注目されています。
当時の日本は、すでに金や銅などの貴金属の採掘技術を有しており、
また、大規模な建築物や土木工事の技術も確立されていました。
そのため、東大寺の大仏を建造することができたのです。

ちなみに2023年度(令和5年度)の日本の国家予算は、
一般会計で114兆3,812億円です。
その約1292倍といったら、
なんと

約14京7288兆円

にもなります。
兆よりも上の位などでてきてもさすがにイメージできません。

日本のすべての企業を買収するには、少なくとも数十兆円から数百兆円の資金が必要になると考えられます。
東京証券取引所に上場している企業の合計時価総額は、約590兆円です。
しかし、これはあくまでも時価総額であり、実際の買収価格は、企業の業績や資産状況などによって大きく変動します。

ですが、日本企業をすべて買収しても足元にも及びません。
恐るべし東大寺の大仏建立…

こんなプロジェクトなんて現代では考えられませんし、あってはなりません。
なぜこんなあり得ないプロジェクトが実現してしまったのか?

なぜこんな大きな大仏を造らないといけなかったのか?

それについて考えていきます。

ここからは妄想です。
根拠はありませんのであしからず…

当時の社会情勢を振り返ってみます。

724年 聖武天皇が即位
727年 光明子が皇子を出産、皇太子に立てる
729年 長屋王が自殺する。光明子が皇后に。

長屋王事件は、奈良時代の天平16年(744年)、聖武天皇の近臣であった長屋王が、謀反の嫌疑をかけられて自害に追い込まれた事件です。

この事件は、当時の政権を担っていた藤原氏が、長屋王の勢力を排除するために仕組んだ謀略であるという説が有力です。その根拠としては、次の点が挙げられます。長屋王は、聖武天皇の信任厚く、政権の中心人物であった。
藤原氏は、長屋王の勢力を排除して、政権の実権を握ろうとしていた。
長屋王事件の告発者は、藤原氏と関係の深い人物であった。

また、事件の告発内容も、不自然な点が多く見られます。たとえば、長屋王は、謀反を企てていたという証拠として、呪詛の道具や、不吉な符などが押収されたとされています。しかし、これらの道具や符は、長屋王の私物ではなく、事件後に偽造されたものである可能性が指摘されています。

以上のことから、長屋王事件は、藤原氏による謀略によって引き起こされた冤罪であったと考えられています。
ただし、長屋王が本当に謀反を企てていた可能性も否定できません。しかし、その証拠は不十分であり、謀略説が有力であると言えます。
長屋王事件は、日本の歴史において、権力闘争による冤罪の悲劇として知られています。

長屋王事件

733年 干ばつが続き、大飢饉が起こる
734年 大地震が起こる
735年 唐からの留学生、吉備真備と僧の玄昉が帰国
737年 天然痘が流行。藤原4兄弟が死ぬ。飢饉が起こる。

長屋王事件後、天然痘が大流行し、多くの人が死亡しました。また、穀物のみのりも悪く、飢饉が起こりました。

この災害を、長屋王の祟りと恐れた人々がいました。その理由としては、次のような点が挙げられます。長屋王は、呪術や陰陽道に通じていたとされていた。
長屋王は、謀反の嫌疑をかけられて自害に追い込まれた。
また、長屋王事件の首謀者である藤原氏の息子4人も、天平6年から7年の間に相次いで亡くなりました。このことも、長屋王の祟りによるものと考えられていました。

聖武天皇も、長屋王の祟りを恐れた一人でした。天平7年、聖武天皇は、長屋王の祟りを鎮めるため、東大寺に長屋王の霊を祀る堂を建立しました。

このように、長屋王事件は、当時の人々にとって大きな衝撃を与えた事件であり、その祟りが恐れられていました。

なお、長屋王の祟りについては、現代の歴史学においても、さまざまな説が唱えられています。しかし、当時の人々が長屋王の祟りを恐れたことは、事実であると考えられます。

738年 橘諸兄が右大臣になる
740年 藤原広嗣が九州で反乱を起こす。恭仁京へ遷都。

藤原広嗣の反乱は、奈良時代の天平17年(745年)、聖武天皇の死後、藤原仲麻呂の専横を批判して、藤原広嗣が起こした反乱です。
この反乱は、長屋王事件の遺恨が背景にあると考えられています。
長屋王事件で、藤原氏は、長屋王の勢力を排除して、政権の実権を握りました。
しかし、長屋王の死後も、藤原氏の専横は続きました。
藤原広嗣は、長屋王の親族であり、長屋王の遺志を継いで、藤原氏の専横を打倒しようと考えました。

また、長屋王事件の冤罪を訴え、長屋王の復権を図ることも、藤原広嗣の目的の一つであったと考えられています。
藤原広嗣の反乱は、最終的に鎮圧されましたが、藤原氏の専横は、この反乱によって、一時的に緩和されました。

このように、藤原広嗣の反乱は、長屋王事件の遺恨が背景にある、重要な事件であったと言えます。
具体的には、以下の点が、長屋王事件と藤原広嗣の反乱の関連性を示しています。藤原広嗣は、長屋王の親族であり、長屋王の遺志を継いで、藤原氏の専横を打倒しようと考えていた。
藤原広嗣は、長屋王事件の冤罪を訴え、長屋王の復権を図ろうとしていた。
藤原広嗣の反乱は、藤原氏の専横を打倒することに成功し、長屋王事件の遺恨を一部解消した。
ただし、藤原広嗣の反乱は、あくまでも藤原氏の専横に対する反乱であり、長屋王事件の冤罪の真相を明らかにしたわけではありません。

741年 諸国に国分寺・国分尼寺建立の詔が出される
743年 大仏建立の詔が出される

長屋王事件以降、権力闘争、地震、干ばつによる大凶作、そして疫病の流行、飢えと病死者の増大は農村をながく荒廃させました。

聖武天皇は、手の打ちようのない天変地異と権力争いから生じたと思い込んでる長屋王の祟りに怯え苦しみました。
仏教という、当時最先端の科学技術を取り入れてなんとか国をおさめようとしたのです。
これまでにないくらい大きな大仏を造れば世の中が鎮まり、元の平和な生活に戻れると考えたのです。
現代であれば、先進医療を行って難病を治すといったところでしょうか。

聖武天皇は毎日夜など祟りが怖くて寝れなかったのではないかと思います。
だからどんなにお金がかかってもいいから、ものすごく大きい大仏をつくって守ってもらいたいと思ったのでしょう。

実際、大きな大仏つくったからといって権力闘争はなくなりませんが…
これは人災です。
自分たちが蒔いた種に怯えてしまっているにすぎませんね。

以上、大仏造りの予算についてでした。


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