生産性オタクを卒業した
僕は高校時代から生産性を高めることに尽力してきた。大学卒業時には相当の生産性オタク(悪く言えば効率厨)に成長していたと思う。何事も決め手は効率が良いかどうかであった。
例えば、学びのなさそうな小説や映画は見ない、読書は基本ビジネス書とか何か情報を仕入れるため、みんなで駄弁りながらごはんを食べるよりは一人でサク飯、スキマ時間は常に携帯で調べごとか読書、歩いている時は何かを考えたり、スマホで調べごと、などなど。
効率が悪いこと、もしくは合理的ではないことはしないことを徹底していた。確かに部活をやって勉強もしないといけないし、とやることが多かったので効率を上げる必要があったので仕方なかったとは思う。
ところが、30歳を手前にし、子供が生まれ、今まで築いてきた効率重視の価値観が大きく揺らぎ始めた。子供の前で携帯をいじるわけにもいかないし、家にいる時はネットから離れて、子供と向き合うことに徹底するようになったのだ。今ではぼーっとすることもあるし、無を楽しむことができるようになった。
この変化は自分の中でかなりのもので、色々と人生の意味を考えるきっかけになった。効率重視の生活をしている限り、「時間あたりの生産量が増える -> 時給が増える -> もっと生産性を上げたくなる」というループに陥ってしまい、努力して生産性が上がっても労働時間は減らないことに気づく。むしろ時給が数万円とかになってくると、ちょっと時間を無駄にすると、その分で数万円稼げたのにな、となりそうだ。これは極端な例だが、効率重視の価値観と資本主義は相性が良すぎて、気づくと資本主義の奴隷になってしまっていたな、と感じた。
東南アジア(シンガポールを除く)を歩くと感じるが、みんな死ぬほどゆっくりマイペースに、しかもすごく幸せそうに生活している。東京スピードで歩くとドン引きされるだろう(ちなみにシンガポールは東京並にせかせかしている)。そういうゆっくりした生活の様子を見ると、時間にとらわれずにマイペースに生きるのって結構幸福の要因なのかな思わされる。
日本にずっといると時間に縛られ、効率を上げるのが一つの最適解なように感じていたが、一度外に出るとそれが正しいとは限らないんだな、と強く感じた。しかも、そのタイミングで自分の子供ができ、スローライフを余儀なくされ、生産性オタクを脱却することになった。社会の競争から遅れるのではないかと不安に思ったこともあるが、今のところ意外と悪くない。