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ルネ・ジラール - 暴力と宗教
5,833 文字
人はどないしても、相手に対して同じことを繰り返す傾向があるんですわ。これを互酬性言うんですけど、実はこの互酬性いうもんがどっから来たんか、ようわからへんのです。潮の満ち引きから来てるんちゃうかいう人もおるんですけどね。
わたしが何かしたら、あんたはそれに応えはるわけです。わたしが手を差し出したら、あんたはそれを取って握手する。でもあんたが手を後ろに隠してもうたら、わたしも手を後ろに隠す。つまり、わたしも同じように反応するわけですわ。
友好的な行動には友好的に応えるもんですけど、ええ方向の互酬性がなかったら、すぐに悪い方向に変わってしまう。これが人間関係の専門家らが見落としてきた部分やと思うんです。互酬性が足りひんのやなくて、むしろ抜け出せへんのです。
ええ互酬性から悪い互酬性に移るんは簡単なんですけど、悪い方から良い方に戻るんは物凄く難しい。いったん悪い互酬性に入ってもうたら、さっきあんたらがしたみたいに、どんどん早なってって、どんどん暴力的になっていくんです。
そこから抜け出すには第三者が必要なんです。審判とか、仲裁者みたいな存在が要るわけです。人類の問題はまさにそこにあると思うんです。どんな互酬性であっても、そこから抜け出すのは難しい。物事はどんどん悪化していく悪循環に陥ってしまうんです。
ええ互酬性でさえ、繰り返しによって悪くなったり、魅力を失うてしまうことがある。現代の演劇研究なんかでもよう出てくる話題ですわ。
これの原因について考えてみると、わたしらは動物とは全然違うんですね。互酬性は視線から始まる。動物のケンカをテレビで見てたら分かりますけど、額と額をぶつけ合うヤギでも、戦いの前も最中も後も、お互いを見つめ合うことはありまへん。
キップリングは『ジャングル・ブック』で、動物は人間の視線に耐えられへんいう話を書いてますけど、これは人間の優越性を表現したもんで、実際はちゃいます。猫と長いこと見つめ合うたら、猫は飽きて寝てまいますけど、人間は絶対に寝まへん。挑戦に立ち向かって戦おうとする。
これが人間のええとこでもあり、悪いとこでもあるんです。避けられへんことなんです。わたしらは物凄く引き合うし、模倣的にならざるを得まへん。必然的に対立も起こりやすい。でも、模倣理論ではこれを悪いことだけやとは考えてまへん。ええ面もあるんです。
人間には関係性があるけど、動物にはそれがない。最近は動物文化いう話もありますけど、それは支配関係みたいなもんですわ。動物行動学者らが優位性の争いいうてる戦いでも、死に至ることはありまへん。負けた狼が勝った狼に喉を差し出すことで、支配関係が生まれる。
勝った動物が常に先に行動して、負けた動物はそれが選ばんかったもんしか選べへん。これが動物社会の基本単位になってるわけです。でも人間やったら、同じような状況で殺し合うてしまう。
人間は唯一、復讐いうもんをする生き物なんです。復讐いうんは、相手がしたことと同じことをし返すことです。これが悪い互酬性の極みで、相手を殺すことで終わらせる。人間だけがそれをする。動物には同種間の殺し合いはありまへん。
人々が人間は暴力的やいうとき、動物の方がずっと暴力的やないいうのは、その通りなんです。人間の意味での文化がなかったら、人類は誕生した時点で自滅してたでしょう。
動物との関係で模倣能力が高まった時、ミラーニューロンの研究からも分かるように、進化が進むほどミラーニューロンが増えて、より多くのことを真似するようになる。人間の場合、それは相手を殺すような暴力も含んでるわけです。
わたしらはそれを復讐と呼んでますけど、これが習慣なんか本能なんか、はっきりしたことは分かりまへん。人類は誕生の時点から自らの存在を脅かす唯一の種なんです。
現代では非常に効率的な武器を持ってるから、その危険が物凄い速さで現実味を帯びてきてる。20世紀と21世紀の主要な出来事は、人類が自滅できる存在やいうことです。聖書が言うように、人間は黙示録的な存在なんです。
他のどの宗教もこれを語ってまへん。もし火星に人がおって、わたしらを観察してたら、不思議に思うでしょうね。自滅について語る聖典を持ちながら、全然気にしてへん。皮肉なことに、それが文字通り可能になった時に、教会は終末論を説くのをやめてしもた。
これは聖書が他の宗教とは違うもんやいう証拠です。人類の起源と終末について、比べものにならんことを知ってる。そしてそれは模倣能力と繋がってる。戦いはエスカレーションするもんです。今日よう使う言葉ですけど、子どものケンカを見たらよう分かる。
最初は言い合いから始まって、だんだんエスカレートして、最後はお互いできる限りの害を与え合おうとする。なんでかいうと、お互いが同じことをしてるからです。「あんたがわたしにしたことを、わたしもあんたにする」いう具合です。
ええように扱うたらええように扱い返すけど、それが主流になることは滅多にありまへん。攻撃は相手からくるもんやと思い込みやすいからです。暴力を攻撃として定義しようとするけど、そうすること自体が暴力的なんです。
なんで暴力を攻撃として定義したがるんか。それは、わたしら自身は決して攻撃的やと感じへんからです。わたしらは模倣的な存在で、相手の攻撃を真似てるだけなんです。少なくとも、相手の攻撃的な意図を理解してるいうことを示すだけです。
でも相手はそれを攻撃として解釈する。そしてその逆も起こる。解釈は常に同じパターンです。だから、わたしらの間に仲裁者が必要になる。人間の基本的な関係は二者やなくて、三者なんです。
二者関係は完全に破壊的です。愛について語るばかりで、実際には暴力ばっかりしてる。だから模倣理論は批判的な理論なんです。現代世界は本質的に批判的で、非暴力についてええ話をするんは簡単です。
どの文化もそれを知ってる。完璧にできる。でも、みんな戦ってる。だからもっとええもんを見つけなあかん。現代世界では三つの大きな試みがあった思います。
一つはマルクスで、経済財を分配できへんから戦うんやと。二つ目はフロイトで、性的な対象を共有できへんのが本当の問題やと。三つ目はニーチェで、もうちょっと抽象的な形で、権力を共有できへんから戦わなあかんいうてる。
ニーチェは他の二人より理解が浅かった。他の二人は平和の必要性を当たり前のもんとして考えてて、それは正しかった。でもニーチェは永遠の戦争でええいうた。だからヒトラーは危険やった。ニーチェ的な考えを持った最初の大きな政治家で、戦争は自分らの領域やと考えた。
それが恐ろしい力やったんは分かったけど、地球上の全ての生き物に向けられることにもなった。わたしらは今そういう段階にあるわけです。
模倣理論は第三の試みです。人間関係の本質を模倣的な観点から考えようとしてる。人間関係がこれほど暴力的で危険なもんになる理由を、模倣理論なしで本当に理解できるんやろか、いうのがわたしの問いです。
啓蒙主義的な人間主義は、宗教を完全に捨てて、純粋に理性的な基盤の上に完璧な社会を築けると信じてた。でも現代は、それが不可能やいうことに気付き始めてる。模倣理論がそこに何か貢献できるんか、それを探ってるところです。
パウロによると、世界を支配してる権力と権威があって、彼らが物事を動かしてる。パウロの態度はかなり両義的です。彼らはキリストに対立してるけど、実はキリストに支配されてる。でもキリストは歴史の中で、彼らに対する超越的な力を見せへん。
彼らが支配してるわけです。人間には文化があり、宗教的・政治的な構造がある。権力と権威はそれを根本的に示してる。パウロの態度としては、彼らがまだ支配してるから、クリスチャンは従わなあかん、今の世の中の良き臣民でなあかんいうことです。
多くの人は、「権力と権威」いう表現は、ローマ帝国をあからさまに指し示さんようにするために作られたんやないかと考えてる。
二つ目の質問ですけど、権力と権威について、パウロを読んでると時々すごく悪いもんに見えるけど、キリストが支配権を握る世の終わりまでは滅ぼされへん。
模倣理論は、すぐには見えへん権力と権威について語るべきことがあると思います。キリストと権力・権威の間には鏡像効果があって、現代の人類学もそれを反映してる。ほとんどの人は福音書と同じような物語を持ってる。
共同体に大きな危機があって、それに責任があるとされる人物が現れる。大きな罪を犯して、正当に罰せられ、危機が終わる。オイディプスは近親相姦と父殺しを犯して、テーベを襲った疫病を終わらせるために罰せられなあかん。
テーベはオイディプスを罰するどころか、逆に王様にしてしもた。福音書では大きな危機があって、ユダヤ王国がローマ人に占領されて徐々に破壊されていく。ある意味で福音書は、イエスの死を解決策を見つけるためのスケープゴートとして描いてる。
福音書によると、それが十字架刑の唯一の理由です。だから人類学者らが福音書も同じ構造、同じ物語やいうのは完全に正しい。クリスチャンはこの見方を強く拒否してきた。それが福音書は神話やいう近代的な不信仰につながると恐れたからです。
でもそれは、クリスチャンがこの見方を拒否すべきいうことやなくて、むしろもっと賛同すべきいうことです。常識に逆らうべきやないんです。キリスト教もユダヤ教も、人が思うよりずっと常識的なもんです。
スケープゴートのプロセスを理解したら、単純な目で福音書と神話を読み比べたら、すぐに大きな違いが分かります。類似点は否定できへん。あまりにも明確すぎて、否定するのは常識に反する。
今日の常識は反宗教的です。「全部神話や、みんな同じや、いつも英雄が死んで、何かの罪で告発される」いうて、その大きな違いが見えへん。それはとても単純なことなんです。
福音書と神話の違いは福音書が明らかにしてるけど、わたしらはそれを見たがらへん。宗教家は物凄く下手な人類学者で、無神論者の方がまだましですけど、それでもあんまりよくありまへん。
ええ人類学者になるには、神話に共通することを見なあかん。それは物語を群衆の視点から読むいうことです。犠牲者は有罪なんです。オイディプスは父殺しと近親相姦を犯した。フロイトでさえそれを信じてる。
フロイトは自分の精神分析の神話的な側面を暴露してしまってる。父殺しと近親相姦を信じるいうことは、オイディプスの神話を信じることやと示してる。でもキリスト教は違う。
キリスト教と、その前のユダヤ教は、物語を犠牲者の視点から解釈する。犠牲者は無実なんです。これはイエスやヨセフやヨブへの友情からやなくて、真実を語るためです。群衆が間違ってる、民衆が間違ってるんです。
だからキリスト教は現代世界で嫌われてる。大衆の宗教やないんです。群衆の信じることを告発する反大衆的な宗教なんです。群衆は常に犠牲者の罪を信じる。でも聖書と福音書は決してそうしまへん。
他のどこを見ても、この神話的な問題設定は修正されてへん。聖書の一部の書と福音書だけが例外で、これらは切り離せへんもんです。普通の人間的な意味での宗教を告発する唯一の書物なんです。
もちろん、キリスト教を含むすべての宗教の問題は、普通の人間的な意味での宗教になってしもて、その過程で自分自身に対して不誠実になってしもたことです。だから批判される部分もある。
クリスチャンはそれを感じてて、人類学を怖がる。でも、これは全く視点が逆転してるんです。よく考えたら、これは純粋に科学的な理論なんです。近親相姦や父殺しを本当にする人もおるかもしれんけど、それは明らかに偽りの告発です。
フロイトは完全に間違ってた。オイディプス劇の独特の洞察やと思うたけど,太平洋の島々やアメリカ大陸でもよくある神話的な物語です。群衆の物語なんです。
バーで敵と戦うてるとき、オイディプス神話と同じような侮辱を投げかける。ソフォクレスは『オイディプス王』を書いたとき、それを知ってた。オイディプスとテイレシアスの戦いを描いて、そこから神話が生まれる。最後には二人とも父殺しと近親相姦で互いを告発する。
でもわたしらは一方だけを信じて、それを文化と呼ぶ。一人だけが有罪やと信じる。でも、その殺人について全員が有罪で、犠牲者だけが無実やいうことを理解せんかぎり、人間も福音書も理解できへん。
福音書は神話を100%ひっくり返すけど、人々は今日、フランス語で言うところのKOされてる状態です。あまりにも逆説的すぎる。でもキリスト教は物凄く逆説的なもんなんです。キルケゴールはそれを理解してた。でも、人類学と反神話的な側面についてはうまく説明できなかった。
人間の文化は、その真実に到達するまで永遠の嘘の中で生きてる。嘘いうんは、犠牲者を有罪にすること、犠牲者を違うもんにすることです。文化は差異です。差異がなかったら幸せになれへん。
今はその極限まで来てしもて、福音書に責任があるいう考え方が流行ってる。テレビで毎日聞くような、世界の暴力の原因は宗教やいう考え方です。究極のスケープゴートは宗教であるべきやと。だって宗教の本質はスケープゴートにすることやから。
人々はわたしの言うてることが分からへん。スケープゴートについて一番基本的なことが分からへんのです。「あんたの言うてること、ようわかりますわ。わたしがどれだけスケープゴートにされてるか、想像もつかへんでしょう」いうて来る人がおる。
でもそれは誰もが持ってる物語です。わたしが聞きたいんは、誰も持ってへん物語です。それはペテロの物語です。イエスを裏切ったことに気付いた時の。スケープゴートにする側が自分で、イエスがスケープゴートやいうことに気付く。
ペテロは福音書における最初の回心で、パウロは最後の回心です。でもパウロは、人々が思うんと違って、ペテロと全く同じ物語なんです。
少なくともルカによると、ペテロはイエスの目を通してそれを見る。イエスは前もってそれを彼に告げてた。ペテロの否認で一番大事なんは、裏切ったことへの気付きです。
わたしらは全員、気付かんまま裏切ってる。今世紀ほど棄教の世紀はなかったけど、自分が棄教者やいうことに気付いてへん。パウロが聞いた「なぜわたしを迫害するんや」いう問いが本質的なんです。