コンピュータが革新した気象予報
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いい天気ですなぁ。カリフォルニアの天気の話をするのはちょっと退屈やったんです。だって、あんまり変わらへんからね。でもわたしはちょっと甘やかされてたんかもしれません。海外に引っ越してから、天気予報にすごく頼るようになってしもたんです。そんな日常的なことなのに、めっちゃ大事なことですよね。正確な天気予報は、コンピュータがもたらした進歩の完璧な例やと思います。
この原稿を書いてる今も、外では雨が降ってます。この動画では、コンピュータがどないして天気予報を革新したんか、見ていきましょか。
はじまり
最初のころ、何千年もの間、天気予報士の予報は科学というよりも芸術みたいなもんでした。古代ギリシャ人やバビロニア人みたいな古代の人々は、星や雲の模様から予測しようとしてました。
例えば、月の周りの輪が黒っぽかったら、その月は雨が降って洪水が起こるとかいう具合です。古代中国人も天気の状態を追跡してました。悪天候は先祖が怒ってはるからや思うてたけど、雲は水が空に蒸発してできるということも分かってたんです。
そしてアリストテレスの話になります。紀元前340年に、彼は「気象学」という本を書きました。これが一番古くて影響力のある本になったんです。この本のおかげで、今でも気象学って呼んでるんですよ。タイトルはそうやけど、この本は水や物理学、星の話もカバーしてます。
アリストテレスは世界を4つの要素に分けました。土、風、火、水です。この4つは球状の層になっていて、お互いに影響し合うてるんです。例えば、太陽は東から昇るから、東風は西風より暖かいって言うてました。時々超自然的な話に逸れることもあったんやけど、人々はその体系的で一貫した approach を評価して、1600年代まで西洋の気象学教育の要になってたんです。人類の進歩についてどう思われます?
新しい道具と変化
1600年代になると、西洋で新しい道具や観測、理論が出てきはじめました。ガリレオみたいな人が温度計の先駆けとなる温度計(サーモスコープ)を発明したり、ガリレオの弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェッリが大気圧の研究から気圧計を発明したりしました。
1686年には、エドモンド・ハレー(はい、あのハレー彗星の動きを予測した人です)が、友人のアイザック・ニュートンの運動第二法則の研究を読んでインスパイアされました。彼は、太陽のエネルギーが赤道の空気を温めて上昇させるという理論を発表しました。これによって空いた場所に、高緯度からの冷たくて密度の高い空気が流れ込んでくるんです。
これが、何世紀にもわたって世界中の船乗りが頼りにしてきた貿易風の正体なんです。もう一つ注目すべきモデルは、ジョン・ティンダルが提唱した二酸化炭素モデルです。彼は水蒸気や二酸化炭素、オゾンといった特定のガスが熱をよく吸収することを発見し、それを地球の気候の全体モデルに応用しました。
火山が二酸化炭素を放出すると地球が温まります。その後、植物の光合成などのさまざまな吸収源によって二酸化炭素が空気から除去され、地球が冷えていくんです。このタイプのモデルは概念モデルと呼ばれてます。広範な一般化から形成されてるからそう呼ばれてるんです。
ネットのグルーが地政学を予測するのと同じような感じですね。これらの概念モデルは、たまに熱い水の入った地球儀を使うアナログモデルと一緒に、この時代を支配してました。
気象庁
1800年代になると、道具が改良され、データ収集も進んで、人々はより根拠のある天気条件の予測ができるようになってきました。
1854年に、イギリスは商務省気象局(通称メット・オフィス)を設立しました。最初は4人だけの小さな部門で、島中の気象観測所から朝8時に集めた天気レポートを、電信で送信するところから始まりました。5年後、ロイヤル・チャーター号という蒸気クリッパー船が、強力な嵐で崖に叩きつけられる事故が起こりました。
約450人が亡くなるという恐ろしい悲劇でした。同じ嵐で、さらに350人の命が奪われたと推定されてます。メット・オフィスの初代局長ロバート・フィッツロイ(かつてチャールズ・ダーウィンを世界一周させた船の船長でもあった人です)は、この話を聞いて議会に働きかけ、船乗りや一般市民向けに嵐警報を出すことを目指しました。
しかし、フィッツロイの予報方法は32の気象観測所からのデータに基づいてたんですが、よく注目されたものの、必ずしも正確ではありませんでした。非科学的な方法だと批判され、フィッツロイは深い鬱状態に陥り、1865年に自殺してしまいました。ダーウィンの従兄弟で、博学者で優生学の創始者でもあるフランシス・ゴルトンが率いる委員会は、メット・オフィスが天気の報告という本来の使命から逸れてると判断し、その後13年間、予報レポートを中止しました。
熱力学
1800年代後半、不朽の理論家たちが、今日の科学の基本原理である熱力学の法則を作り上げていきました。エネルギーと熱の移動の原理を示すことで、熱力学の法則は大気の謎の最後のピースとなったんです。
アメリカ国立気象局の初代局長は、クリーブランド・アッベという人でした。ニックネームは「オールド・プロバビリティ(古き確率の人)」というかっこええ名前でした。初期は天文学をやってたんですが、途中から気象学に転向しました。後に彼は「気象学は本質的に、流体力学と熱力学を大気に応用したものや」と書きました。その通りでした。
合理的予報
1900年代初頭、ノルウェーの物理学者ヴィルヘルム・ビヤークネスは7つの変数を取り上げました:圧力、温度、密度、湿度、そして速度の3つの成分です。そして、いくつかの基本的な運動とエネルギーの方程式を使いました。
例えば、ニュートンの運動法則。粘性流体の運動を記述するナビエ・ストークス方程式として知られる3つの基本的な流体力学の運動方程式。流体の質量が系を通過する際に一定に保たれるという流体力学の基本原理である質量連続の法則。
そして熱力学の第一法則と第二法則を表す方程式です。おそらく第二法則の代わりに水の連続性の法則を使うほうが良かったかもしれませんが。ともかく、ビヤークネスはこれらをキャセロール料理みたいに組み合わせて、大気システム内での質量、熱、エネルギー、運動量の相互作用を記述できるものを作り出しました。彼は「合理的予報」と呼ぶ2段階の戦略にこれらの方程式を使おうとしたんです。
合理的予報はまず、大気のデータを集める診断段階から始まります。そしてそのデータを方程式と一緒に使って、予後段階で天気を予測する予報を出すんです。このアプローチには期待が持てましたが、問題がありました。
彼の方程式には閉形式の解がありませんでした。つまり、代数式(変数、定数、算術演算)を使って解くことができないんです。その代わりに、グラフィカルに解こうとしました。変数のグラフを取って、方程式を適用し、それを使って予報を表す新しいグラフを作るんです。
これには、当時は存在しなかった強力な計算能力が必要でした。アッベと同様、ビヤークネスも実用的に自分の方法を使う方法が見つかりませんでした。
数値過程
10年後の1922年、メット・オフィスのちょっと変わった英国の科学者、ルイス・フライ・リチャードソンが「数値過程による天気予報」という本を出版しました。
リチャードソンは、ビヤークネスの研究と天文学の研究に触発されました。天文学は単純な原理を使って、何年も先の惑星の位置を正確に予測し、日食なんかも予報できてました。惑星の運動が単純な幾何学的関係に基づいているのに対し、天気は非常に複雑な力学と熱力学の網目に依存しているという事実は気にしませんでした。
リチャードソンは、ある時点での大気のスナップショットを撮ることができると考えるようになりました。例えば、さまざまな高度、経度、緯度で区切られたグリッドで大気圧、速度、温度などのデータを収集します。そして、そのスナップショットを数学的に「進める」ことで未来を予測できると考えたんです。
彼は1913年、スコットランドのサザン・アップランズで気象観測所を運営してる時にこの研究を始めました。第一次世界大戦中も、良心的兵役拒否者としてフランスの救急隊で従事しながら研究を続けました。方程式が機能するかどうかを確認するため、1910年5月20日のイギリス諸島上空の2つのグリッドボックスを取り上げ、計算尺と5桁の対数表だけを使って、6時間後の大気圧を手作業で計算しました。
計算自体は正しかったです。後年、コンピュータも似たような値を出しました。でも予測結果は「方向性は合ってた」(高校の先生がよく使う言葉やけど)ものの、150倍も外れてました。これには2つの理由がありました。
一つ目は、圧力変化の速度を推定する方法が間違ってて、データ入力に欠陥があったということです。二つ目の理由については、後で説明します。それでもリチャードソンはこの残念な結果を発表しました。これは勇気のいることでした。彼の失敗は、何世代もの人々が彼のアプローチを試みることを躊躇させることになりました。でも今日、リチャードソンは数値天気予報の精神的創始者として記憶されています。彼はその後、尊敬される経済学者と統計学者になりました。
なぜこれほど難しいのか?
では、これらの方程式を解くのがなぜこんなに難しいのでしょうか?以下は私なりの説明の試みです。失敗したら、コメント欄で笑ってください。先ほど述べたように、これらの方程式は手計算では解けません。
複数の変数があり、非線形の連続的な変化を記述してます。つまり、線が真っ直ぐではないということです。例を見てみましょう。流体力学の運動量方程式を見てみましょう。これは時間とともに空間における流体の運動と速度の変化を教えてくれます。この方程式は非線形です。
例えば、速度には3つの方向成分があり、方程式にはこれらの成分それぞれが自身や他の成分の導関数と掛け合わされる項が含まれています。これは流体の速度の変化が速度自体に依存していることを示していて、挙動がやや混沌として方程式を解くのが非常に難しくなります。この方程式は非同次でもあります。つまり、流体の速度とは独立した外力の影響を受けるということです。
例えば、圧力勾配やコリオリ効果などがこの方程式に出てきます。これが解くのを非常に難しくしてるんです。この方程式を解析的な手段で解けないため、できることは解の近似です。時間と空間の連続体を有限の点のグリッドに分割します。これにより方程式が変更され、時間プラス1増分のシナリオを解けるようになります。
リチャードソンの数値が機能しなかった二つ目の理由を説明すると約束しました。時間プラス1増分のシナリオのための増分として6時間を選んでしまったんです。これは長すぎました。一回の時間ステップで遠くまで進みすぎると方程式が不安定になり、非常に間違ったデータを生み出してしまうんです。
この概念はクーラン・フリードリヒス・レヴィの条件として知られていますが、リチャードソンが研究してた時にはまだ存在してませんでした。1928年にドイツのリヒャルト・クーラン、クルト・フリードリヒス、ハンス・レヴィによって初めて発表されたんです。まぁ、これは全体の武器庫のほんの小さな一部分に過ぎませんけどね。そう考えてみてください。
だから、当時のリソースでは毎日の天気予報の試みも、問題の天気イベントが過ぎ去った後でないと完了できませんでした。リチャードソンは本の中で、64,000人の人間計算機が必要だと書いて、序文でこう述べています:
「おそらく遠い未来のいつか、天気の進行よりも速く計算を進められるようになり、その情報によって人類が得られる利益より少ないコストで実現できるかもしれません。でもそれは夢物語です。」
第二次世界大戦
これらの課題があったため、第二次世界大戦中の天気予報のほとんどは、フィッツロイの時代からそうであったように、地図上でのパターンマッチングを続けていました。これらの地図は特別な地図でした。飛行機、伝書鳩で送られた船舶の観測、イギリスの気象観測所、さらには解読されたドイツの暗号から集められた温度、湿度、気圧、雲のデータを使って作成されてました。
有名な話として、RAF(イギリス空軍)の気象学者ジェームズ・スタッグは短期の高気圧システムを見て、1944年6月6日の朝は晴れると正確に予報しました。理想的な天気とまではいきませんでしたが、十分良かったので、D-デイの上陸作戦を進めることができました。ドイツの気象当局は、イギリス海峡のイギリス側の天気情報が欠けていたため、嵐は2週間は収まらないと誤って予報してしまいました。
その結果、エルヴィン・ロンメルを含む多くのドイツ軍指揮官がドイツに戻ってしまい、これが大きな痛手となりました。
コンピュータ
1946年、ジョン・フォン・ノイマンはニュージャージー州プリンストンの高等研究所(IAS)に電子計算機プロジェクトを設立しました。何でも知ってたフォン・ノイマンは、もちろんリチャードソンの研究も知ってました。
彼は正確な天気予報が計り知れない実用的価値を持つことを知ってました。戦時中の天気予報に費やされた膨大な作業を振り返ってのことです。また1920年代に中央ドイツにいた時にクーラン・フリードリヒス・レヴィの条件が発表されたので、リチャードソンが失敗した理由の一つも知ってました。だから彼は、リチャードソンの研究を実現可能にするための計算要件を割り出し(おそらく朝食時にでもやったんでしょう)、IASのコンピュータならできると結論付けました。
そこで1948年、彼は米海軍から資金を得て、ジュール・チャーニーが率いる気象学プロジェクトを電子計算機プロジェクト内に設立しました。このプロジェクトは当初、リチャードソンの研究に従って、世界をグリッドに分割し、それらのグリッド間のエネルギーと質量の移動を計算しようとしてました。
しかし、これが実現不可能だということはすぐに明らかになりました。クーラン・フリードリヒス・レヴィの条件によると、時間ステップは最も速く動く現象の速度に反比例します。気象システムでは、それは高速重力波でした。大気を垂直または水平に急速に波打たせ、その過程で特徴的な雲のパターンを作り出す波のことを表す専門用語です。
池に石を投げ込んだ後に外側に広がる波紋みたいなものです。この条件によると、これらの波はコンピュータが処理できないほど短い時間ステップを強制することになってしまいます。そこで、「スケール分析」という強力なツールを使って、チャーニーは大規模な気象現象(大きな風や気圧の変化など)にとって重要ではないと考えられたこれらの重力波を除外する近似を開発しました。
結果として得られた準地衡流システムは、古い方程式の多くの変数を、より数学的に扱いやすい一つの変数に減らしました。このシステムは1980年代まで使用され続けました。
ブレイクスルー
1950年、フォン・ノイマンのIASコンピュータはまだ開発中でした。そこで彼らは、有名な30トンの真空管ベースのENIACコンピュータに目を向けました。
1950年4月、ENIACは1949年の4日間について、対流圏中層のグリッドの数値天気予報を実行しました。当時のプログラミングは大変でした。もうケーブルとプラグを使ってENIACをプログラムする必要はなくなってました。1948年に更新され、IBMのパンチカードを使って保存されたプログラムを入力できるようになってました。でもまだ信頼性は低く、かなり遅かったです。
24時間の予報を計算するのに36時間かかりました。そして予報結果は「全体的に良くない」と見なされました。ただし、1月30日の予報はいくつかの的中がありました。彼らはその予報のコピーをリチャードソン本人に送りました。これは素敵なジェスチャーでしたね。
彼はそれらを自分の研究からの「巨大な科学的進歩」と呼びましたが、彼の妻は両方とも同じくらい外れてると思ってました。不正確さにもかかわらず、発表された研究は世界中の注目を集めました。2年以内に、世界中のさまざまな政府気象局がコンピュータを購入しました。これはコンピュータの最初の主要な需要源の一つとなりました。
1960年代までに、科学者たちはモデルへのデータ入力を改善することで、リチャードソンが失敗した最初の理由を成功裏に解決しました。今日では、気象レーダー、航空機、そして地上や空中の数千の気象観測所を通じてデータを収集してます。特に人工衛星は、その広範なカバー範囲で大いに役立ってます。
素晴らしいシーモア・クレイが設計したCDC 6600のようなスーパーコンピュータの登場と相まって、モデルにさらなる洗練さを加えることができました。その後、天気予報の精度は急速に向上し始めました。
結論
正確な天気予報は命を救います。そして、より多くのコンピューティングパワーによって、これらの天気予報はより正確になってきました。
MITのニール・トンプソンが率いるチームの研究(以前も言及しました)が、これを示してます。コンピューティングパワーが10倍増えるごとに、全予報期間にわたって予測誤差が華氏で3分の1度ずつ減少します。彼らは、この精度向上の73-94%が追加のコンピューティングパワーのみによるものだと結論付けました。これはリッチ・サットンの「苦い教訓」のもう一つの例です。
モデル自体は単純な天気予報を超えて拡大してきました。他のパターンを予測することもできます。例えば、チェルノブイリから風に乗って運ばれる放射性粒子の予測なんかもできます。その洗練度と途方もない複雑さには圧倒されます。そして、それらをこんなに強力なものにするのに何十年もの努力が費やされたことを想像することもできません。
次に雨が4時じゃなくて3時に降り出したことについて文句を言いそうになったら、そのことを思い出すことにします。