日本の崩壊しつつある経済は倒れかけており、まもなく破産する
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日本は死にかけとるんや。人口が減っとるだけやなくて、経済はもっと悪化しとる。1980年には世界のトップ50企業のうち32社が日本企業やったんやけど、2018年になったらトヨタ1社だけになってもうた。何十年もの間、日本は経済成長率と生産性の低さに苦しんどって、家電業界での主導権はとっくに失うてもうた。
世界的に有名な日本のテクノロジー企業なんて、マジで思いつかへんやろ。ほんまに頭に浮かぶ企業、一つでも言えるか? そやから、何が起こったんかを知りたくなってん。
日本はそもそもどうやって経済の奇跡を起こしたんや? どないして大人用おむつが赤ちゃん用おむつの売り上げを上回るほど停滞してもうたんや? そして隣国の中国がグローバルな超大国に成長しとる中で、日本は復活できるんやろか?
これを知るには、日本の歴史と文化と経済について深く掘り下げて学ぶ必要があったんや。数十年前に世界のトップにおったのに、なんでこんなに急激に衰退してもうたんか。これが日本の経済の奇跡と経済停滞の本当の物語や。
日本の経済の奇跡は、国の歴史の中で最悪の日から始まったんや。1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍が広島市上空で原子爆弾を爆発させた。3日後、アメリカはもう1発の爆弾を長崎市に投下した。
都市は廃墟と化し、人々は恐怖に怯え、戦争に勝つ見込みもなくなった大日本帝国はまもなく降伏した。第二次世界大戦の終結は、日本の主権の終わりを意味したんや。約100万人の連合国軍兵士、その大半がアメリカ人やったけど、日本の占領に参加した。
これは日本の歴史上、初めて外国の力に占領されたことやったんや。ほぼ7年間にわたって、国の文化と制度が大きく変革された後、占領は終わり、日本は国際社会に迎え入れられた。
でも、日本を完全な西側の同盟国にして、奇跡的な経済復興のきっかけを作ったのは、別の戦争やったんや。1950年6月25日、北朝鮮人民軍の兵士が南朝鮮に侵攻して、共産主義の北と非共産主義の南を分けとった38度線に沿って協調した攻撃を行った。
朝鮮戦争、冷戦の最初の大きな紛争が始まったんや。これは代理戦争やった。つまり、二つの世界の超大国、アメリカとソ連が直接参加するんやなくて、対立する側を支援したんや。
共産主義の北朝鮮は当初、驚くべき進撃を見せて、ある時点ではソウルを陥落させる寸前までいった。けど、アメリカが南朝鮮のために介入してからは、戦況が変わり始めた。
朝鮮半島をソ連の手に渡したくなかったアメリカ軍は、本国から物資を輸送し始めた。でも、これがめちゃくちゃ非効率やってすぐにわかってきた。そやから、代わりに日本政府に軍需品やその他の物資の供給を頼んだんや。
朝鮮での米軍への物資供給は、日本のグローバル経済への再統合を加速させて、アメリカの影響圏により近づける結果になった。ええニュースやと思うやろ? でも、そうでもないんや。
東京の写真を見てみい。暴徒が手に負えなくなっとる。左翼の学生や労働組合員に煽られとるらしいわ。日本の国会議事堂に向かって押し寄せとる。アメリカとの安全保障同盟の終結と、日本国内のアメリカ軍の駐留に反対しとるんや。
でも、この話題に深入りする前に、動画にいいねを押して、チャンネル登録してくれへんか? アルゴリズムの仕組み上、みんなの助けがなかったら、この動画は広まらへんのや。こういう動画が好きやったら、チャンネルへの支援、めっちゃありがたいわ。
ほんな、話を戻そか。安保闘争として知られるようになった日本のデモの起源は複雑やけど、基本的には日米安全保障条約の改定案をめぐる緊張が原因やった。
元の条約はアメリカに有利に偏っとって、終了期限が明記されてへんかった。日本政府との事前協議なしに、日本に駐留するアメリカ軍を使うことができたし、国内の抗議活動を鎮圧するためにアメリカ軍を使うことを特別に認める条項もあった。
そのうえ、日本が攻撃された場合にアメリカが日本を防衛する義務も明記されてへんかったんや。「歴史は勝者によって書かれる」っちゅう言葉、聞いたことあるやろ? 条約もそうなんや。
1960年1月に署名された改定条約は、大幅な改善やと見なされた。実際、岸信介首相は、問題なく批准されると確信しとったから、アイゼンハワー大統領を日本に招いて、その成立を祝うつもりやった。
でも岸は間違うてた。日本国民は、この条約が日本を危険な新しい世界規模の紛争の一方に固定してしまうんやないかと恐れたんや。
国民からの大きな反対、さらには自分の党内からの反対もあるのを見て、岸は代わりに国会で議論せずに条約を強行採決することを選んだ。
日本国民はショックを受けて、街頭に繰り出した。隣国の韓国で起きた革命から刺激を受けたんや。韓国では、アメリカの後ろ盾を得た強権的な政府が国民の力で追い出されて、独裁政権も人民の力で倒せることを示したんや。
1960年6月、抗議行動が最高潮に達した時、何十万人もの抗議者が毎日国会を取り囲んで、全国規模のストライキでは600万人以上の労働者が職場を放棄した。
岸首相にとって、このプレッシャーは耐えられんもんになった。結局、改定条約を国会で強行採決することには成功したけど、抗議の規模と強さのせいで、disgrace 失脚して辞任せざるを得んかったんや。
岸の後を継いで自民党の総裁と首相になったんは池田勇人や。池田も自分なりの荷物を抱えとった。1950年代には、普通の人のことを気にせえへん冷たいテクノクラートっちゅう評判をとっとってん。
一度、高くなった白米の代わりに大麦をもっと食べたらええんやないかって提案したんやけど、それがマリー・アントワネット風に「貧乏人に大麦を食わせろ」みたいに報道されてもうた。
「インフレを抑えるために零細企業が5、6社自殺しても仕方がない」って発言したって報道されて、通産大臣の職を1ヶ月足らずで辞任せざるを得んかったんや。
そんな荷物を抱えとったんやから、池田が日本をこの激動の時代から導き出せる可能性は低かったんやけど、それがまさに彼のやったことや。そして、彼が率いることになった国と同じように、池田も自分自身を作り変えたんや。
暗い色のダブルブレストのスーツを、もっと親しみやすい服装に替えた。政治的な反対派に対してより穏やかな姿勢を取って、「寛容と忍耐」をキャンペーンスローガンにまで採用した。
そして最も劇的やったんは、池田が大胆な所得倍増計画を発表したことや。技術革新に焦点を当て、重要産業に的を絞った投資を行い、輸出を促進することで、わずか10年で日本経済の規模を倍にすることを約束したんや。
この中で最後のやつ、輸出の促進が一番重要やと思うわ。最初から日本の指導者たちは、輸出を国の経済回復の鍵やと認識しとったんや。
国の輸出を促進するために、彼らはいくつかのレバーを引いた。その中でも最も重要やったんが、日本の重要な政府機関である通商産業省、MITIの力を利用することやった。
1949年に設立されたMITIには二つの主な目標があった。日本の国際貿易政策を調整することと、国の産業基盤を強化することや。
今日、私たちは新自由主義の世界に生きとる。自由市場が決定するんや。政府機関が経済発展を計画し、調整するっちゅうのは、ほとんど社会主義みたいに聞こえるかもしれん。
でも1950年代と1960年代には、世界経済が今ほど統合されてへんくて、戦争の記憶もまだ新しかったから、政府が経済発展を調整するっちゅう考えは、そんなにクレイジーには思われへんかったんや。
主な例の一つが為替レートや。当時は今みたいに需要によって上下するんやなくて、固定されとった。これによって日本政府は円の価値を人為的に低く抑えることができて、国の輸出品を世界市場で競争力のあるものにできたんや。
でも、円の価値だけが、MITIが日本の経済の奇跡の立役者になった主な理由やあらへん。主な理由は、日本の銀行業界と製造業界の調整を行うことで、ケイレツと呼ばれる巨大な企業集団の出現を監督したことやったんや。
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ケイレツには二種類あるんや。水平ケイレツは、大手日本の銀行を中心に設立されて、その銀行が他の企業の株式を保有して、低金利で融資をする。
三菱が車も、エアコンも、化学製品も、さらには原子力発電まで手がけとるのはなんでやと思うたことあるか? それは三菱が実際に水平ケイレツやったからや。共通の資金源を持つ、相互に関連した自律的な企業グループやったんや。
それから垂直ケイレツもある。これは単一の産業内で、サプライヤー、メーカー、販売業者を結びつける。親会社の利益のために複数の子会社が作られる。トヨタ、日産、東芝なんかがその例や。
所得倍増計画の一環として、通産省は十分な影響力を持って、ケイレツに国家的に重要な分野に焦点を当てるよう指示できた。製鋼、造船、石炭採掘、化学製造など、日本の工業化に不可欠やと見なされた分野やな。
ケイレツは日本の経済の奇跡を生み出した4つの魔法の材料の一つや。そして、日本のビジネスリーダーと政府指導者が下した最も重要な決断の一つは、ケイレツに電子機器分野での競争力を獲得させることやった。
日本はすでに、初期の電子機器時代で最も重要な技術、トランジスタについて広範な経験を持っとった。何年も前に、日本の電機メーカーの創業者、井深大は、トランジスタを開発したアメリカの企業AT&Tが、他の企業にライセンス供与を始めようとしとることを知った。
彼はトランジスタを使う製品のアイデアを求めてアメリカに渡った。そして、最初の応用は無線機が最適やと決めた。1955年8月、彼の会社は「TR-55」をリリースした。日本で最初に市販されたラジオやった。これが、会社の新しい名前、ソニーの下で発売された最初の製品やったんや。
わずか2年後、ソニーは「TR-63」をリリースした。市場のリーダーと比べて、TR-63は小さくて、電力効率が良くて、音質も良かった。輸出された最初のトランジスタラジオやった。
それはめちゃくちゃ成功して、通常の出荷では需要に追いつかへんかった。大量出荷のために日本航空の飛行機をチャーターせなあかんほどやった。
すばらしい技術やっただけやなく、TR-63はマーケティングの勝利でもあった。ソニーはすぐに、「ポケットラジオ」として宣伝されとったにもかかわらず、TR-63が実際には平均的な日本のビジネスマンのシャツのポケットには少し大きすぎることに気づいた。
ありがたいことに、ソニーのもう一人の創業者、盛田昭夫には解決策があった。セールスマン用にポケットを少し大きくしたカスタムシャツを作らせたんや。
TR-63は結局、100万台以上売れた最初のラジオになって、ソニーに世界最大で最も魅力的な市場、アメリカへの足がかりを与えた。
これはソニーにとって、そして日本全体にとっても大きな転換点やった。TR-63の成功に勇気づけられて、ソニーの主要な競合2社、シャープと東芝も、自社のトランジスタラジオの生産を拡大することを決めた。
1959年、池田勇人が所得倍増計画を発表する直前には、600万台以上の日本製トランジスタラジオがアメリカで売れた。
この初期の成功は、日本企業と政府に道を示した。翌年には、日本は経済活動を調整するための国家の力を利用して、アメリカと同じくらいのトランジスタを生産しとった。
所得倍増計画が成功するためには、日本のGDPが年間約7.2%成長せなあかんかった。大きな挑戦やった。実際、1960年代を通じて経済成長率は平均10%以上やった。
ある歴史家の言葉を借りれば、所得倍増計画は「経済成長主義を日本の国家的な世俗宗教として祀り上げた」んや。
日本の経済の奇跡は、社会のあらゆるレベルでの信じられないほどの協調のおかげで可能になった。メーカー、サプライヤー、販売業者、銀行がケイレツの中で協力し合った。雇用主と従業員は協力して、生産性と雇用の安定性の両方を確保した。
そして、それらすべてを監督しとったんが、通産省に率いられた介入主義的な政府やった。
規模を拡大して低コストで生産された高品質の輸出品に基づいた日本の経済モデルは、急速に経済を成長させたい国々のための青写真になった。日本は韓国、中国、台湾にとってインスピレーションになった。これらの国々が独自の経済の奇跡を起こした時にな。
誇り高い国民は地獄を経験して、その向こう側に出てきた時にはソニーのTR-63を握りしめとったんや。
でも、MITIとケイレツが日本の経済の奇跡にとってどれだけ重要やったかっちゅうても、それらはまだ答えの一部にすぎへん。
日本の企業はどうやってこれらの製品をこんなに上手に作れるようになったんや? そして、どうやってそんなに早くできたんや?
日本の指導者たちは、本当の繁栄を達成するためには、国は高付加価値製品の製造と輸出にもっと熟練せなあかんって知っとった。
でも、社会のあらゆるレベルでの前例のない協力や、何世紀にもわたる小規模製造の伝統なんかの信じられないほどの強みがあったにもかかわらず、日本はまだ遠くから始めなあかんかったんや。
ちょっと助けが必要やった。皮肉なことに、日本人のすさまじい成功は、自国ではほとんど無視されとったアメリカ人の、ある経営知識人の原則の上に築かれたんや。
「デミング博士は品質革命を始めた。彼が日本人に教えたことは、努力する気のある世界中のどんな経営者でもできるし、彼の革命は産業革命や、さらには農業革命と同じくらい重要で、確実にそれと同じくらい劇的や」
ウィリアム・エドワーズ・デミングは、統計を使って製造と経営を改善できると信じとったアメリカの技術者であり、経営理論家やった。
デミングのアイデアは単純やけど革命的やった。彼は、会社の製品が粗悪に作られとる場合、それはほとんど常に、劣悪な品質管理システムを設計した上司の責任やと信じとった。
デミングは特に、ほとんどのアメリカの製造業者が使うとった主流の品質管理方法を批判した。製品が作られた後にしか欠陥を検査せえへんかったんや。
良い経営とは、最初からプロセスが質の高い製品を作り出すことを保証することや、と彼は主張した。
ちょっと驚くべきことに、デミングのアイデアは彼の母国ではあまり受け入れられへんかった。部分的には、正直言うて彼がカリスマ性に欠けとったからや。
乾いた言葉を使って、聴衆を魅了しようとはせえへんかった。でも部分的には、第二次世界大戦後のアメリカが、もっと良くなる必要があるっちゅう彼のメッセージを聞く必要がなかったからや。
結局のところ、世界中の消費者が大量生産されたアメリカの製品を欲しがっとったんやからな。
1947年、デミングはアメリカ軍から日本の国勢調査を手伝うよう依頼された。なんでやって思うかもしれんけど、この時アメリカは日本を占領しとったんやで。
まもなく、デミングは日本科学技術連盟の指導者たちから講演を依頼された。彼らは国の再建を加速させるために専門家を求めとったんや。
1950年を通じて、デミングは何百人もの技術者、実業家、管理者に品質管理の概念について指導した。その中にはソニーの共同創業者の盛田昭夫もおったんや。
デミングの日本の経営者へのメッセージは単純やった。品質を向上させることで、彼らの経費を削減しながら、生産性と市場シェアを増やすことができる、っちゅうもんや。
これは、破壊された国を再建するために世界的な高品質製品の輸出国にならなあかんと信じとったビジネスリーダーたちには音楽のように聞こえたんや。
日本はデミングのアイデアと、デミング自身を受け入れた。1960年、首相は彼に勲二等瑞宝章を授与した。これは公共サービスに長期的な貢献をした人々に与えられる権威ある賞や。
デミングの日本のビジネスリーダーへのメッセージは、日本の何世紀にもわたる工芸と製造の専門知識の伝統がなかったら、聞き入れられへんかったかもしれへん。
コメント欄で笑われへんように言うとくけど、西洋人が日本文化について語るのはミームになっとるのは知っとる。「外人」とかな。でも、この場合は保証するで。
日本には「ものづくり」っちゅう概念がある。文字通りの意味は「物を作る行為」やけど、もっと広い意味がある。
ものづくりは、何世紀にもわたる信念と原則によって形作られた、進歩の精神と革新への欲求の組み合わせを指す。マインドフルネス、規律、完璧さへの絶え間ない探求なんかやな。
日本人全員がものづくりに長けとる遺伝子を持っとるって言うとるんやあらへん。ただ、高品質の製造業に基づいて経済を急速に成長させたいんやったら、ものづくりへの強い文化的親和性があるのは間違いなく役に立つって言うとるだけや。
日本の製造業について考える時、TR-63トランジスタラジオやトヨタ・カローラ、ソニーのプレイステーションみたいな個々の製品のことだけを考えがちやけど、国の最大のイノベーションの中には製品やあらへんものもあった。
それはプロセスやったんや。ビジネス書のコーナーで時間を過ごしたことがあるなら、リーン生産方式やジャストインタイム生産なんかの言葉を聞いたことあるやろ。
これらの方法は、どちらもトヨタ生産方式に大きく基づいとる。これは第二次世界大戦後にトヨタの技術者たちが開発した組織原則のシステムや。
トヨタ生産方式みたいなものは、経済発展を真剣に受け止めて、ウィリアム・デミングのアイデアを真剣に受け止めて、ものづくりを真剣に受け止めた国でしか生み出されへんかったやろ。
アメリカによる占領は痛みを伴い、屈辱的やったけど、それは同時に日本の従来の考え方に挑戦するのを助けた新しいアイデアの源でもあって、ある意味で20世紀の国の近代化を加速させたんや。
これらすべてのこと、輸出主導の発展に焦点を当てること、外部のアイデアを受け入れること、伝統を受け入れることが一緒になって、日本の経済の奇跡を生み出したんや。
これらすべてが1970年代初頭の一つのプロジェクトに組み込まれようとしとった。
世界最大のコンピューター企業IBMが、システム370シリーズのメインフレームコンピューターをリリースした。これらはコンピューター技術の大きな一歩を表しとった。
これに対応して、MITIは国内の6大電機メーカーを3つのペアに強制的にグループ化した。日立と富士通がペアになり、日本電気と東芝もペアになり、最後に三菱電機と沖電気がペアになった。
集合的に「総電機」つまり「総合電機会社」として知られとったこれらの企業は、日本最大の企業の一部やった。
そして、すぐにMITIはジレンマに直面した。ケイレツとして、これらの企業は政府と金融セクターと密接に結びついとったけど、結局のところ彼らはまだ民間企業やった。つまり、彼らはまだライバル同士やったんや。
日本の指導者たちは、国内のコンピューター産業がIBMの新製品の影響に耐えられるどころか、繁栄するためには、ケイレツが手を組む以外に方法がないことを知っとった。
そうせんかったら、全員が生き残るのに苦労することになる。だって、ビッグブルー(IBMのこと)がやってくるんや。1970年代後半、IBMが新しいコンピューターラインを計画しとるっちゅう噂が日本に届いた時、その影響は津波のように襲いかかった。
与党自民党の幹部の一人は「日本には怪物に対抗するにはコンピューターメーカーが多すぎる」って言うたんや。状況は明確やった。適応するか、死ぬかや。
そこで日本政府は、超大規模集積回路(VLSI)として知られるマイクロプロセッサ設計の先進的な形態を研究するための共同R&D研究所を設立して、基本的にケイレツ企業に協力を強制したんや。
参加企業には、多額の補助金、技術者の人材、資本への容易なアクセスが提供された。VLSIの技術を学ぶには、大きな技術的・科学的課題を克服せなあかんかったけど、その努力は価値があったんや。
研究所の管理者の言葉を借りれば、4年間のプロジェクトの結果、「日本の半導体技術はIBMに追いついた。実際、いくつかの分野では日本がIBMとアメリカを追い越して首位に立った」んや。
結果は信じられへんほどやった。プロジェクトが終了してわずか2年後の1982年には、日本の半導体企業はアメリカの企業よりも多くのダイナミックランダムアクセスメモリ(DRAM)チップを製造しとった。
設備とR&Dにより多くの支出をするようになった。1987年には、日本は世界の半導体市場の35%のシェアを持っとった。1970年代の10%からの大幅な増加や。
わずか40年ちょっと前、日本の都市と経済は廃墟やった。そして今や、アメリカよりも多くの半導体を消費して、それらを車やカメラやコンピューター、その他のハイテク製品に組み込んどったんや。
VLSIプロジェクトは説明というよりも例やけど、それでも日本の経済の奇跡がどのように起こったかを示す重要な例やった。
でも残念ながら、みんながそれを喜んどったわけやあらへん。
「日本叩きは、議員にとってさえ、お気に入りの新しい武道や」
1970年代と80年代を通じて、アメリカにおける反日感情にはたくさんの原因があった。時には純粋な人種差別や、第二次世界大戦に対する根強い恨みやったりもした。
でも、ほとんどの場合は経済に根ざしとった。二つの国が正反対の方向に向かっとるように感じられたんや。
日本は上昇の一途を辿っとって、一方でほぼ毎週、アメリカのどこかの工場が閉鎖されるっちゅうニュースがあった。
アメリカの産業衰退の兆候は、二つの国が直接競合する自動車産業で最も顕著やった。
フォード、クライスラー、ゼネラルモーターズのビッグ3は、消費者がより安くて燃費のええ日本車を買うために自分たちから離れていくのを恐怖の目で見とった。
一方で、コロンビアレコードやロックフェラーセンタービルみたいな、有名なアメリカの文化的シンボルの売却なんかの象徴的な取引が、日本がアメリカを利用しとるっちゅう感覚を助長した。
その恐れは全く根拠のないもんやあらへんかった。MITIは実際に、日本の半導体企業がチップを海外市場で人為的に低価格で売りながら、国内では高く保つのを助けるために補助金を提供しとった。
これはダンピングとして知られる貿易慣行や。そして、日本のテレビで延々と再放送された、議事堂の丘で議員たちが東芝製品を叩き壊す悪名高い映像は、日本企業がダミー会社を通じてソ連に違法に製品を売った後に起こったんや。
デンバーに拠点を置く日立の営業スタッフへの営業プレゼンテーションから見つかったこんな挑発的な言葉も、雰囲気を良くはせえへんかった。
「競合他社より10%安く。もし彼らが再見積もりを出したら、さらに10%安く。日立が勝つまで入札は止まらない。10%ルールで勝て。AMDとIntelのソケットを見つけて、彼らの価格より10%安く。彼らが再見積もりを出したら、さらに10%安く。勝つまでやめるな」
年配のアメリカ人は、日立が第二次世界大戦で彼らに対して使われた武器を作っとったことを覚えとった。そして今、40年後、まるで別の種類の戦争、貿易戦争を戦うよう営業担当者を励ましとるように聞こえたんや。
1985年までに、アメリカの対日貿易赤字は約500億ドルに達しとった。
優れた日本のビジネス慣行と、違法、あるいは少なくとも非倫理的な貿易慣行の組み合わせや。
『MITIと日本の奇跡』や『日本は第一位:アメリカへの教訓』なんかのタイトルの人気本は、アメリカのリーダー、マネージャー、労働者が学べることがたくさんあるって示唆しとった。
でも、当時誰も知らんかったけど、日本はすでにピークに達しとって、物事は急速に下り坂に向かおうとしとったんや。
日本の経済衰退には二つの原因がある。一つは金融的なもの、もう一つは文化的なものや。どちらも複雑で密接に関連しとる。この動画のこの部分で、その両方を詳しく説明するわ。
まず、金融面から始めよう。そこで1985年、主要工業国G5グループの財務大臣と中央銀行総裁たちが、世界市場で大量のアメリカドルを売却して、その価値を引き下げる取引を結んだんや。
他の条件が同じなら、ドル安はアメリカの輸出品の価格を下げて、アメリカ企業にそんなにダメージを与えとった輸入品の価格を上げることを意味した。
日本とドイツは、貿易黒字が短期的には自国の経済的利益になるけど、主要な西側同盟国との緊張を生み出しとったから、この取引に同意したんや。
プラザ合意の直接の結果として、円は1年だけでドルに対して30%上昇した。そして、もっと重要なのは、最終的にアメリカへの日本の輸出を半減させたことや。
景気後退の可能性を避けるために、日本銀行は金利を引き下げた。それが日本の資産価値の信じられへんほどの上昇を引き起こした。
1985年から1986年の間に、東京の平均商業地価格は約122%上昇した。最高値の時には、東京中心部の価格が高すぎて、1.15平方キロメートルの皇居の敷地がカリフォルニア州の全不動産よりも価値があると判断されたんや。
東京の土地の価格が馬鹿げたものになった時、投資家たちは大阪、横浜、京都なんかの他の主要都市の土地を買い始めた。
土地のような資産の価格上昇は、フィードバックループを生み出した。突然、日本株の価格が、ビジネスの基本的な要素よりも資産価格によって決まるようになったんや。
1986年だけで、日経平均株価は45%上昇した。資産価格の上昇は、ペーパー上で企業のバランスシートを良く見せたから、投資家はさらに燃料を注ぎ込んだ。
市場は上がる一方に見えて、しばらくの間はそうやった。日経平均は上がり続けた。1980年代末までに、世界のトップ50企業のうち32社が日本企業やった。
これは強さの印やったけど、同時に弱さの印でもあった。その価値の一部は、膨らんだ資産価値から来とったからや。
上がるものは必ず下がる。資産価値の持続不可能な上昇を懸念した日本銀行は、実際に金利を再び引き上げ始めた。
ゆっくりとだけど着実に、バブルから空気が抜け始めた。土地価値は暴落した。日経平均は1990年に35%以上下落した。
資本が枯渇したり、突然高い金利で借金を返済せなあかんようになったり、実際のビジネスとは何の関係もない資産からほとんどの価値上昇が来とった事実にさらされたりして、多くの日本企業が倒産した。
今日、日本人は1990年代を「失われた10年」と呼んどる。進歩し続ける機会を失うただけやなく、支配してきた産業の一部でも市場シェアを失うたからや。
日本が失うたものを、他のアジアの国々が得た。韓国は日本の特徴を持つ独自の経済の奇跡を経験して、低い労働コストと現代やサムスンみたいな財閥の助けを受けた。
TSMCのような最先端企業に率いられた台湾は、半導体の行き先となった。そして、もちろん中国もあった。鄧小平のような指導者たちによって目覚めさせられた眠れる巨人や。
これらの国々はみんな日本の奇跡を研究して、同じ教訓を適用したんや。
日本政府は重要な瞬間に失敗して、変化する世界に適応できへんかった。でも、日本企業も同じやった。
停滞から抜け出すためにイノベーションが必要な時に、彼らは古いやり方を倍増させた。コロンビアレコードやロックフェラーセンターみたいな、お粗末な買収に信じられへんほどの現金の山を無駄にした。
そして、地域の隣国からの挑戦を過小評価した。
でも、失われた10年だけでは、日本経済がなぜほぼ30年も停滞し続けとるかを完全には説明できへん。
それを説明するために、私の説明の二つ目の部分に移るわ。一言で言えば、文化や。
すでに知っとると思うけど、日本には何千年も続く信じられるほど豊かな文化がある。その文化は、厳しい時期の安定と連続性の源やった。
でも、進歩に対するガードレールになるのと同じ文化が、ハンドブレーキにもなり得るんや。
よく、そういう職場は、この動画の前半で話したケイレツとまったく同じや。規模が大きくて複雑な構造のせいで、かなり保守的になる傾向がある。
効率性や起業家精神よりも、同調性、順応、伝統みたいな価値観がよく重視されるんや。
これは大きな職場だけの話やあらへん。これは判子(はんこ)や。日本では署名の代わりによく使われる。例えば、契約書や請求書、その他の公式文書なんかにな。
ちょっと考えてみて。日本の経済の奇跡と関連付けられる製品について。ウォークマン、カローラ、ゲームボーイ。これらはみんな、日本のものづくりの伝統、つまり工芸製造における卓越性の伝統に基づいとる。
これらは機械的な製品で、ハードウェアに依存しとる。でも、これはますますそうやないデジタルの世界に生きとるんや。
デジタルの世界は怖いかもしれんけど、そこが近代世界の多くのイノベーションと新しいアイデアが生まれる場所でもあるんや。
導入部で、日本のテクノロジー企業を思いつくかって聞いたやろ。もう20分ほど経ったけど、思いついたか?
日本はソフトウェアで優れとると思うかもしれん。結局のところ、精密さと品質が重要な業界やからな。トヨタ生産方式を世界に与えた国のことを話しとるんやで。
でも、日本は本当のところ、ソフトウェア開発の最先端で活動したことがあらへん。
部分的には構造的な問題や。ケイレツや他の大手日本企業は、イノベーションを奨励するように設定されてへんかった。
でも、文化とも大きく関係がある。歴史的に見て、日本はある程度外部からの変化に抵抗してきたんや。時にはこれが絶対にクレイジーな状況につながることもあった。
今日でも、一部の政府手続きではフロッピーディスクで申請を提出せなあかんのや。
日本の20世紀の経済の奇跡につながった二つの重要な出来事、安保闘争とウィリアム・デミングの国のビジネスリーダーへの講演が、物事を大きく変えることを要求したっちゅうことから学ぶべき教訓があると思うわ。
多くの経済学者は、日本がアナログからデジタルへの移行に失敗したのが、アメリカみたいな国々に遅れを取った主な理由やと信じとる。でも、それが唯一の理由やあらへんのは確かや。
日本の硬直した、プロセス重視の労働文化は、効率性や起業家精神よりも同調性を優先するだけやなく、人々に信じられへんほど長時間働くことを強制する。
これが多くの人々が家族を持ち始めるのを妨げとるんや。そして、これで私がこの動画の冒頭で述べた観察に戻るわけや。大人用おむつが赤ちゃん用おむつの売り上げを上回っとる。
日本の人口統計は危機に瀕しとる。この問題だけで詳細な動画を一本作っとるけど、ここで簡単に概要を説明するわ。
ベビーブーマー世代が退職しとって、人々はいろんな理由で、彼らを置き換えるのに十分な赤ちゃんを産んでへん。
さらに、国の超制限的な移民政策のせいで、新しい日本人が国に入ってくるのが十分やあらへん。
その結果、労働年齢人口の割合が減少しとる。実際、国全体が縮小しとるんや。
今日の日本の人口は約1億2500万人。現在の割合でいくと、2040年までに1億700万人、今世紀半ばまでに9700万人に減少すると予想されとる。
若者と移民は新しいアイデアをもたらして、古いやり方に挑戦する。そこにいないんやったら、未来を形作ることはできへんのや。
日本の台頭と衰退の物語は、インスピレーションを与えると同時に心を痛めるもので、教訓に富んどると思う。
適切な政策と社会のあらゆるレベルでの協調があれば、国の経済と世界での威信を大きく成長させることは可能や。
でも、世界が変化して、違うアプローチが必要になった時、十分に柔軟で開放的な心を持って変化せなあかんのや。
この動画の研究をしとる時に、日本が過去に取り残されとることについてのジョークを知ったわ。
日本企業で働いとる人をどうやって見分けるか知っとるか? その人のビジネスカードにまだファックス番号が載っとるからや。
素晴らしいジョークやとは言えへんけど、確かに真実味があるわ。
さっき1989年には世界のトップ50企業のうち32社が日本企業やったって言うたやろ。これは必ずしもええニュースやあらへんかった。部分的には人為的に膨らんだバランスシートの結果やったからな。
でも、それでもまだ国の経済的支配の尺度やった。2018年になると、トヨタ1社だけになってもうたんや。
日本の経済の奇跡は確かに起こった。でも今や、国の暗黒時代が黄金時代とほぼ同じくらい長く続いとる。
日本が立ち直るには、新しいアイデアと新しい人々に対して開かれる必要がある。何世紀もの間、うまく機能してきた文化を適応させて、輝かしい過去が輝かしい未来にもつながるようにせなあかんのや。
本当にそうなることを願っとるわ。