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H2O
私がまだ、二十歳そこそこの頃の話だ。当時、東京・新宿東口駅前の路上では、アマチュアバンドの生演奏が聴くことができた。お目当てのバンドマンがいて通う人もいたし、通りすがりで足をとめる人もいた。
ブルースバンド「すし」というバンドが好きだった私は、週末になると、新宿駅前の広場に集まり、演奏を楽しみながら、常連客と将来の夢などを語りあった。
そんなある日。首にストップウオッチをぶら下げたまま演奏のリズムにのって跳ねている女の子と一緒になる。
「これ、どうしてつけているの?」
「うん、仕事でいつも必要だからはずすのがめんどくさくて」
東京・文京区にある駒込病院の実験室でアシスタントとして働いているという。
「ねぇ、細胞とか実験に興味ある?みたかったら、案内してあげる」
「え、本当に?みたい、みたい!」
珍しいものが好きな私は、すぐにその話に飛びついて、電話番号を交換した。運がよかったのだろう。
「土曜日だったらいい、と許可がおりたよ」
と、連絡があったのは数日ののち。急いで本屋に走り、細胞に関する本を読めるだけ読んだ。
約束の土曜日、私は駒込病院に向かった。実験室の人たちはみな親切だった。
「ほうほう、予習してきたの」
突然押しかけた私に、穏やかに対応し、実験中の試験管の中の説明をしてくれたり、顕微鏡のを覗かせてくれたり。未知の世界だけれど、楽しい。……やっぱり来てよかった。
私の緊張がほどけた頃、ふと、壁際に「H2O」貼り紙がしてある浄水器が、私の目に止まった。H2O…H2O……あぁ、これは中学生の時、理科の時間に習った「水」という意味の化学式。おいしいのかな?素朴な疑問がわき、近くにあったコップにいれて、恐る恐る飲んでみた。
「そこの水飲んでいる人、初めてみた」
振り返るとそこに、澄んだ茶色い瞳で、スキンへッドのパンクロック兄ちゃんのような姿のYさんが笑いながら立っていた。これが、私とYさんとの出会い。