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『アイムベリーベリーソーリー』から「CoMETIK」を考える【シャニマス】

こんにちは。
岡山ディヴィジョンです。

みなさん。愛ってなんでしょう?

検索エンジンに打ち込んでも、答えは教えてくれません。
そう簡単に愛のなんたるかを知ることはできない、ということでしょうか。私たちに出来ることは、愛について考え続けることだけかもしれませんね。

そんなわけで今回は、2021年7月31日に実装されたシナリオイベント『アイムベリーベリーソーリー』について考え、斑鳩ルカ、そして「CoMETIK」の今後について考察を広げてみようと思います。

それではいきましょう!

アイムベリーベリーソーリー

フラワーショップで職場体験をすることになった
真乃、摩美々、霧子、智世子

とあるゲーム作品に声で出演することになった恋鐘

ひたすら練習に打ち込むにちか、美琴

それぞれが過ごす夏の時間が、
積乱雲の下で静かにつながっていく――――

日焼けした肌がちりちりと痛みを生むように
長すぎた午睡が涼風とともに後悔を運んでくるように

夏のどこかで、わたしたちは少しだけ何かを間違える

『アイムベリーベリーソーリー』あらすじ

1.『ベリソ』のテーマを振り返る

まずは、『アイムベリーベリーソーリー』にて描かれた、最も重要なテーマである『自己愛』について考えていきましょう。


『自己愛』

恋鐘が出演した「ゲーム作品」の大まかな流れは以下の通りです。

①カモメに餌を与え、「あい」を貰う
②その「あい」を使用してアイテムを入手する
③入手したアイテムを骨董屋(ヒロイン)の元に持ち込む

プレイヤーの目的は、このサイクルを通じて「ヒロイン」の心を動かすようなアイテムを探し出すことでした。
どんなアイテムも機械的に買い取ってしまう「ヒロイン」。彼女の心を動かす方法は、終盤に明かされます。
それは、「彼女自身があいを受け取る」というものです。

「カモメの餌」そのものを「ヒロイン」に渡して、その餌と引き換えに彼女自身が「あい」を受けとる。「あいを切り崩すのではなく、受け取って欲しい。あなた自身への愛として」

シナリオ本編で美琴が語ったように、「夢を諦めたら普通の人になるんではなくて、夢を諦めた人になる」のでしょう。そして、それは「何もないのとほとんど一緒」なのかもしれません。
だからこそ、それでもその人にある「何か」を探す物語が『アイムベリーベリーソーリー』でした。

美琴の台詞の直後に、「それじゃあ探しにいこう」という霧子の発言がきているは、おそらく意図的でしょう

夢、若さ、夫。
色々なものを喪ってしまった彼女は、美琴が言うように「なんにもないのとほとんど一緒」な状態だったかもしれません。

それでも、「自分」という存在が失われたわけではありませんでした。

たくさんの喪失を重ね、二度と取り戻すことは出来ないとしても、主体的に愛を受け取る「自己愛」を持つことで、「寡婦」は幸せになれるかもしれない。

私たちの生活にも、程度の違いはあれ挫折や喪失といったものがつきまといます。それでも、自分自身を愛するという気持ちを忘れないでいて欲しいという、とても普遍的なメッセージが込められていますね。
そして、こうした祈りはシャニマスらしいとも感じます。

また、ここで示された「自己愛」の精神は、物語のもう一本の軸である「職場体験」とも重なります。

台風の影響で、アイドルの復帰ライブに贈られるはずだったフラスタのお花がダメになってしまい、職場体験のメンバーは代わりの花を探し回ります。
そんな彼女らに対し、にちかは「そこまでする必要ある?」と問いました。

確かに、いかな台風の影響とはいえ、発注を受けた商品を準備できなかったのは店の責任です。にちかの言い分は一理あるでしょう。真乃はこれに対し、「ステージと同じように、誰かの心にお花を届けられたらいいなって」と返答した上で、さらにその後のシーンでこう呟いています。

「自分が嬉しいっていう、だけかも……」

ここにも、「自分」を慈しむ「自己愛」のテーマが現れていると分かりますね。

誰かのためであることと同じように、もしくはそれ以上に、あるいはそれ以前に自分のためであるということ。それが、彼女らがお花を集めて届けようとした理由であり、「彼女らの流儀」として示されました。

利他的な行動を主体的なものとして捉えなおすという共通したテーマは、S-SSR【ビコーズ・ラブ】の2コミュ目「あいのボンゴレ・ビアンコ」からも読み取ることができますね。

料理をつくって振る舞うという行為は利他的な側面を持ちますが、恋鐘は誰よりも楽しそうに、幸せそうに料理しています。
なんの得もないのにどうして料理を振る舞うのか。もしそんな風に訊ねられたら、真乃と同じように、そうしたいからだと答えるのではないでしょうか。

さて、ここで考えておきたい重要なポイントがもう一つあります。

真乃たちの流儀でいうところの「自分がそうしたいから花(あい)を届けるのだ」という姿勢には、受取手についての言及がありませんね。
あくまで主体的な姿勢について説いたシナリオですから、たとえ想いが届かなかったとしても行動に大きな影響はありません。一方で本シナリオでは、届くことがなかった想いそのものにスポットを当てていました。


『届かなかった想い』

物語終盤。
花屋の店長がお花を処分している場面に、霧子と真乃が居合わせるというシーンがあります。
先述の通り、「お花」が誰かの心に届くもの(=「あい」)であるとするならば、処分されてしまう花というのは「誰かの心には届かなかった想い」であると考えられます。

例えば「寡婦(ヒロイン)」にとってそれは、夫に対する想いが当てはまるでしょう。

喧嘩別れしたまま、帰らぬ人となった夫。それを後悔したところで、その想いが夫の元に届くことは絶対にありません。
そうした、行き場を失った想いはどうすればいいのでしょう?
それを、霧子がこう語ってくれています。

届かなかった想いがどこへ行っても綺麗でいられるように、
自分で自分を励ましてあげる。

届かなかった想いが「綺麗でいる」というのは、すなわち思い出になるということでしょう。

「寡婦」の夫に対する想いは行き場を失い、後悔の念となって彼女を縛り付けていました。しかし彼女が主体的に前へ踏み出すとき、届かなかった夫への想い(=後悔)は思い出となって、やがて受け入れられるようになる。そうなれば、届かなかった思い出は綺麗でいられる。
だから、そうなれるように自分を励まそう。
霧子はそんな風に言っていたのではないでしょうか。

タイトルの『アイムベリーベリーソーリー』は、お悔やみの言葉であると考えられます。
”I'm sorry”には、「ご愁傷様です」というような意味がありますし、イベントスチルにも喪服姿の「寡婦」が印象的に描かれていますもんね。

お悔やみの言葉は通常、誰かを亡くした人に対して、周囲の人がかけるもの。いうなれば「励ましの言葉」でもあります。
そして本シナリオでは、届かなかった想いが綺麗でいられるように、「自分で自分を励ましてあげる」という考え方が示されました。

ですのでタイトルの『アイムベリーベリーソーリー』には、
周囲の人間から「寡婦」に対するものと、
「寡婦」から自分自身に対するもの。
二つの意味が込められていそう
です。

この「自らを励ます」という考えもまた、利他的な行為を主体的な救いに捉えなおすという、本シナリオの本質を体現した概念であると言えるでしょう。


2.『他者からの愛』

さて、ここまで『アイムベリーベリーソーリー』のメインテーマについて考えてきました。
ですが本シナリオでは、主題の先にある『他者からの愛』についても描いていたのではないかと考えています。
続いては、それについて考えてきましょう。いつになったらルカの話になるん?

物語のラスト。
花屋の店長から、常連のお客さんに赤ちゃんが生まれた、という報告を受ける真乃と霧子のシーンです。

「お別れした……お花さんたちと……入れ替わったんだね……」

第1節で考えてきたように、

「お別れしたお花さんたち(=届かなかった想い)が綺麗(=思い出)でいられるように、自分を励ましてあげよう」

ということが示されていたのだとしたら、霧子の「お別れしたお花と入れ替わって赤ちゃんが誕生する」という発言は、どのような意味なのでしょう?

そこでキーになるのが、カモメの存在です。


「寡婦」=『八雲なみ』仮説

ちまたでは、『アイムベリーベリーソーリー』に登場する「寡婦」は、「八雲なみ」のメタファーだったのではないか、という噂がささやかれています。そして、これはかなり信憑性がある仮説ではないかというのが私の心証です。

まず単純に、彼女らは身上が似ていますね。
かつては歌手を夢見たが諦めてしまった「寡婦」と、現在の活動方針では自分の理想とする芸能活動は不可能だと考えてその世界を去った「八雲なみ」。
ゲームの中に登場する実体のない存在の「寡婦」と、人々の記憶と話の中にしか登場しない引退したアイドル「八雲なみ」。
二人とも海辺に住んでいるという共通点もあります。

さらに、夫が画家志望であったことも、こうした仮説に拍車をかけていますね。
イベントシナリオ『セヴン♯ス』において、プロデューサーと天井努の両名に対し、「描く」というイメージが重ねられました。

『セヴン♯ス』エンディング「そうだね」より

画家志望だったが筆を折ってしまった「夫」は、八雲なみをプロデュースしきれなかった天井努のメタファーだった、と言われてもさほど不自然ではありませんし、そんな「夫」と決裂したままになってしまった「寡婦」も、八雲なみの姿に見えてきます。
天井社長は絵が描ける、という小ネタも補強としてよく挙げられていますね。


そして、「寡婦」=『八雲なみ』であったとしたら、シナリオ中に示された要素についても、ぐっと情報量が増して見えてきませんか?


「カモメ」=「赤ちゃん」

すでに述べたように、ゲームに登場する「カモメ」は餌を与えると「あい」を返してくれる存在です。物語のラスト、「寡婦」もまたカモメに餌を与え、「あい」を受け取ることになりました。

この「カモメ」は様々な暗喩を背負った存在ではありますが、ここはあえて「赤ちゃん」のメタファーだったという説を提示します。

「赤ちゃん」は、衣食住(=「餌」)を与えることで、親に対して愛(=「あい」)を返してくれる存在だからです。

「自己愛」を主題に置いた『アイムベリーベリーソーリー』の幕引きに、何よりも純粋な「愛」を返してくれる「赤ちゃん」が登場しているのは、テーマのその先を示そうとしたためでしょう。
すなわち、「自己愛」の先にある「他者からの愛」の受容です。

「カモメ」は渡り鳥であり、やがて親元から去って行く。けれど時折は戻ってくるという点も、「子供」と重なるのではないでしょうか?

では、『八雲なみ』にとっての「カモメ」…すなわち「赤ちゃん」とは、一体誰のことでしょう。

そうですね。
斑鳩ルカです。

『モノラル・ダイアローグス』オープニング「赤い休符」より


霧子の発言の意味

さて、ここで2節冒頭で触れた霧子の台詞について考えたいと思います。

「(赤ちゃんが)お別れしたお花さんたちと入れ替わった」

「寡婦」にとっての「届かなかった想い」は、先述の通り夫に対するものが挙げられるでしょう。ですが、他にも彼女は重大な喪失を経験していて、後悔になっているものがあるはずです。

それは、夢である「歌手」への想い。

まさに『八雲なみ』と重なる部分ですね。

天井から与えられた靴を拒絶して、芸能界を去った『八雲なみ』の心中は計り知れません。しかし、とても大きな絶望や後悔があったんじゃないか、と想像することは出来ます。
彼女にとっての「アイドル」への想いは、「寡婦」と同じようにくすぶる後悔となっていたのではないでしょうか。

『八雲なみ』の「後悔」は、霧子の言葉を借りると「お別れしたお花さんたち」になるでしょう。
そして、そんな「お花たち」と入れ替わるように誕生した「赤ちゃん」が、斑鳩ルカだったわけです。

「自己愛」の象徴として『八雲なみ』は赤ちゃんに衣食住を与え、
「他者からの愛」の象徴として斑鳩ルカは母を愛したはず。

そしてその過程で、きっと『八雲なみ』の中にあった後悔は癒やされていったのではないでしょうか。二人が素敵な親子関係を築いていることが、その証左と言えそうです。

カモメの餌に全「あい」を注ぎ込むと、「あい」が返ってくる。非常に象徴的ですね。

そして、斑鳩ルカは母と同じアイドルの道に進んでいくことになります。さながら、母の想いを託されたかのように。
「お花と入れ替わった」という表現は、親の想いが子に受け継がれていくということを表しているのかもしれません。

「夫」の死に際してバラバラになった画材が、
歌われなくなった「歌」が、
子に受け継がれることで再び色彩を放つようになるかもしれない

「届かなかった想い」は、そうやって報われることもあるのではないでしょうか?

ルカは母の後悔を引き受けることで、『八雲なみ』を思い出にすることが出来ました。母の慎ましいながらも幸せな生活は、ルカなしではあり得なかったでしょう。
一方で、彼女が引き受けた「想い」そのものは、まだ成就していないはずです。アイドルとなった斑鳩ルカは、アイドルとして自己実現を果たしていないからです。

母から受け継いだ想いが、ルカの想いになって。
そしてそれはまだ、届いていないし、思い出にもなっていない。

『セヴン♯ス』にてプロデューサーが語った「まだ終わっていないこと」とは、そうやって受け継がれることで報われる「誰か(この場合は八雲なみ)の想い」を指していたのではないでしょうか。

斑鳩ルカが『八雲なみ(=「寡婦」)』の果たされなかった想いに再び色彩を与えうる存在であるとしたなら、新たな一枚目を描こうとするプロデューサーは、『夫(=天井社長)』の砕けたCANVASに再び色彩を与えうる存在なのかもしれません。


『八雲なみ』は幸せだったのか?

『モノラル・ダイアローグス』エンディング「O」より

『モノラル・ダイアローグス』にて、ルカは「ふしあわせなのか。あの人は」という問いかけに対し言葉を詰まらせました。それは、母親の笑う姿が想起できたためです。

このシーンは、ルカが自らの幼さ故にその事実を直視できず、社長を攻撃することしかできなかった、という彼女の余裕のなさを表現していますが、実際のところ『八雲なみ』はふしあわせだったのでしょうか?
(参照note。こんなもん参照すんな

答えが「否」であることは明白でしょう。

ルカの記憶に確かに存在している、「母の笑う姿」が何よりの証拠です。

「自己愛」と「他者からの愛」を通して、幸せになることが出来た人物。
それが八雲なみだったのではないでしょうか?


3.斑鳩ルカが幸せになるには?


ここまでのまとめ

1節、2節にて考えてきたことのまとめです。

①「自己愛」を通じて主体的でいられれば、幸せになれるかもしれない
②「届かなかった想い」は自ら励まし続ければ、「思い出」として受け入れられるようになるかもしれない
③「カモメ」や「赤ちゃん」は愛をくれる存在であり、「他者からの愛」を象徴している
④加えて「赤ちゃん」は、衣食住を与えなければ生きていけない存在であり、愛を注ぐ対象を象徴してもいる
⑤「赤ちゃん」ひいては「子」という存在が、親の後悔を受け継ぐというかたちで、「届かなかった想い」が報われるかもしれない
⑥『八雲なみ』は報われ、斑鳩ルカは現在進行形で、自身の想いが届かないことにもがいている

こんな感じでしょうか。

さて、ここからが本題です。

『霧子の発言の意味』の節にて触れたように、『八雲なみの想い』は報われていて、一方でそれを受け継いだ『斑鳩ルカの想い』は、未だ報われないままであると考察しました。

斑鳩ルカは幸せになります(圧)

では、彼女がどのように幸せになっていくのか、ということを、『八雲なみ』が辿ったプロセスを通じて考察…というか、祈っていきましょう。
私たちにできることは、祈ることだけですからね。


ルカにとっての「自己愛」

ルカは「自己愛」に欠けた人間です。
彼女がWINGに挑んだ理由が、「自分のため」ではなく「自分が一人でも平気であると、他者に誇示するため」であったことが示されています。
言葉遊び的にはなってしまいますが、これは本当の意味で「自分のため」であるとは言えないでしょう。
すなわち、「自己愛」の感覚が欠如していると言えます。

斑鳩ルカ W.I.N.G.編「〈un〉happy」より

他にも探せば根拠は沢山見つかりそうですが、面倒なので省略するとしまして……

対する月岡恋鐘は、強い「自己愛」の持ち主であるからこそ『アイムベリーベリーソーリー』で「寡婦」役に抜擢されました。
恋鐘とルカは、「歌を歌わなくなった人物にとってのカモメ」であるという、途轍もなく強烈な共通点があるにも拘わらず、「自己愛」の観点においては全く対照的な人物です。

月岡恋鐘 S.T.E.P.編「恋の岬に鐘が鳴る」より

恋鐘の発言から、「親から受け継いだ想い」が「恋鐘の想い」になっていること、そしてそれが伸びやかな自己実現の中にあるということが読み取れます。
まさに今のルカにはないものであり、やはり両者は対照的な存在として設定されていそうですね。

そして、風野灯織もまた、「自己愛」に対する言及の多い人物です。

灯織の共通コミュでは、「自分のことが大嫌いな自分」が、「自分のことを認める・好きになる」までの過程が描かれてきました。
詳細は素晴らしいnoteが沢山あるのでご参照ください。
(分量・密度とも素晴らしいnoteをひとつ載っけときます)


そんな「自己愛」についての言及が多い灯織が、『線たちの12月』にてルカと関わる重要なポジションで登場したことは、ある種必然だったのでしょう。
彼女は何を隠そう、「自己愛を形成した人物」だと言えるからです。

ちなみに『線たちの12月』については過去にnoteを書いたことがあるので、暇な人は参照されたし。


灯織との関わり合いを入り口として、斑鳩ルカのこれからのシナリオは、彼女が「自己愛」を形成していく姿が描かれていくのではないでしょうか。それがどのような形で表現されていくのかはさーっぱり分かりませんが、主題がそこに置かれる可能性は高いと思います。

では、「CoMETIK」について考えてみましょう(ようやく?)

一部有識者たちは、すでに「CoMETIK」と『アイムベリーベリーソーリー』の共通点を指摘しておられますね。
きっかけとなったのは、「CoMETIK」Twitterリプライ企画の中で、郁田はるきが次のようなツイートをしたためです。

「木の実」「島(海)」「画家」など、『アイムベリーベリーソーリー』を思わせる単語が出てきていること、「おばあさん」という思わせぶりな単語が出てきていることなどが、有識者の目にとまりました(慧眼すぎ)。

『アイムベリーベリーソーリー』にて描かれた「自己愛」と「他者からの愛」が、「CoMETIK」を考える上で一つのヒントになっている可能性はあるでしょう!


仮説①『自己愛』の形成に好影響を与える存在

斑鳩ルカに欠如している「自己愛」を形成するにあたって、好影響を与える可能性のある存在が「CoMETIK」です。
この発想は、風野灯織に好影響を与えた存在が「イルミネーションスターズ」であったことを考えると、ごく自然なものではないでしょうか。
補強として、「CoMETIK」はイルミネのカウンターとしての存在ではないか、というような指摘もあります。

コメティックの採用するCMYKは、明らかにこのイルミネのCMYに当てに来ていると捉えるべきでしょう。

【CoMETIK完全予想】黒色彗星はどこからやってきたのか より


単にイルミネの足跡をなぞるのではなくて、シャニマスらしい変化球を仕込んでくるであろうことは容易に想像が出来ますが、「ルカの自己愛に何らかの影響を与える二人」という主軸が置かれて展開されるというのは、十二分に考えられます。

〈ユニット内の関係が良好な場合〉
鈴木羽那と郁田はるきの良好な関係によって、斑鳩ルカに自己肯定感が芽生える。これだとそのままイルミネっぽい感じになるので、このパターンはあまりないかなという気はしますね。二人は一筋縄にはいきそうにないパーソナリティーを持っていそうなので、せいぜい大穴といったところでしょうか。

〈ユニット内の関係が険悪な場合〉
そもそもこの可能性があまりないかな?という気はします。公式Twitter(もといX)でも、和気あいあい(?)とした三人の姿が確認できますね。
もしユニット内の関係が険悪な場合でも、その状態を呼び込んでいる問題が解消されるに伴い、ルカが自己を顧みる→「自己愛」の萌芽、といった流れは考えられるでしょうか。

〈ユニット内の関係が不干渉・無関心である場合〉
これが個人的には一番あり得るかな、と思っています。何かしらの要因で互いが不干渉・無関心である場合、ユニットとしての活動に支障をきたす問題の発生が考えられ(例えば情報共有)、そうした問題を取り除くにあたり「他者と関わろうとする理由」が再検証され、『ベリソ』のテーマに戻ってくる、といったようなことは考えられそうです。


仮説②「カモメ」としての「CoMETIK」

こちらのツイート(もといポスト)の2枚目のイラストでは、街頭ビジョンに映し出されるルカの姿を、羽那とはるきが見上げている姿が描かれていますね。

この姿から、ルカと「だぶるは」の間にはキャリアの差があるのかもしれません。
もしそうであるとしたら、「CoMETIK」というユニットは斑鳩ルカにとっての「カモメ」となる可能性があります。ルカには「技術」という与えられるものがあるためです。

そもそも、現状の斑鳩ルカにとっての「カモメ」と呼べそうな存在は、熱狂的な「ファン達」ぐらいでしょう。ファンは熱狂的なあまり、自ら見たい「カミサマ」を押しつけている節はありますが、そうはいってもルカに愛を贈っている存在でもあります。

そう考えると、「CoMETIK」も同様に「ルカのファン」からスタートして、子供が自立していくのと同様の過程を経て、ルカのなにがしかの想いに報いてくれる存在へと成長していく、という流れは考えられそうです。
そう言った意味でも、「CoMETIK」はルカに「愛」を返してくれる存在なのかもしれません。

そして、ルカが「CoMETIK」に対しアイドルとしての「技術(=餌)」を与えることで、逆に愛を受け取るというストーリーラインは、かなり信憑性があるのではないかと考えています。
なぜなら、すでに『アイムベリーベリーソーリー』や『線たちの12月』で、同様のテーマが示されているからです。

美琴がにちかに、「ダンスの基礎」を教えるというエピソード。
ルカこそ登場していませんが、構造としては全く同じであることが分かるでしょう。『アイムベリーベリーソーリー』の段階では、シーズは互いの方向を向いてはいませんでしたが、ここから出発した二人がどこに着地したのか?については、もはや語るまでもないでしょう。
いうなればこれは、「成功例」ということになるでしょうか。

対して、『線たちの12月』には「失敗例」が示されています。

イベント『線たちの12月』第5話「イヴ」より

灯織に対して「技術」を与えようとしたが、失敗してしまったかつての斑鳩ルカ。そんな彼女が、いつか「CoMETIK」というカモメに餌を与え、愛を受け取れるようになったら嬉しいと思うのは、私だけでしょうか?

斑鳩ルカは、『八雲なみ』にとっての「カモメ」でした。

しかし今彼女は、親元を離れ、自らが愛を受け取るべき存在となっています。そんなルカが「CoMETIK」を通して、「自己愛」や「他者からの愛」を見いだし、それが翻って「CoMETIK」の二人にも良い影響を与えるような流れは、十分に考えられると思います。


4.おわりに

いかがだったでしょうか?

本ノートでは、『アイムベリーベリーソーリー』のテーマから、「CoMETIK」の存在についてを考察してきました。

本格的にコミュを読解したり考察したりするのは久しぶりだったので大変疲れましたが、自分の中でコミュのテーマが整理できましたし、自分なりに「CoMETIK」に迫れたと思います。

牽強付会ぎみだったので、信じるか信じないかはあなた次第です……が、














今日はこれだけでも覚えて帰ってください。




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それでは~~~!


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