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ハマかぶれ日記253〜神様、仏様、シピン様

 「怪傑ライオン丸」と言っても、若い人には全くピンと来ないだろう。知ってる知ってると興奮する人は、筆者と同じく前期高齢の坂をすでに登っているか、登る手前あたりか。いずれにせよ、すぐに世代が推し量れるというものだ。
 1972年から73年にかけてフジテレビ系で週1回、土曜夜のゴールデンタイムに全国放映された特撮アクションドラマの題名だ。戦国の世を舞台に、日本征服を狙う悪の化身「大魔王ゴースン」に立ち向かう忍者「獅子丸」が戦いの際、白い立髪をたなびかせた無敵の剣士「獅子丸」に変身して敵を倒す。当時の子供たちの間では、有名な仮面ライダーのそれと同じように「変身!」のポーズを真似るのが流行り、街角のあちこちで笑いを誘う光景が繰り広げられた。
 ヘルメットからたっぷりとはみ出した髪の毛が立髪を思わせるので「ライオン丸」とあだ名が付けられ、大活躍したプロ野球選手がかつていた。わが横浜ベイスターズの前身である大洋ホエールズと巨人に通算、9年間在籍して計218本塁打を放った右の強打者、ジョン・シピンさんだ。現役を去ってからは、米国に戻り、バッティングセンターを経営したりしていると伝えられていた。
 そのシピンさんが78歳の高齢になって思い出の旅で来日し、昨夜、横浜スタジアムで行われたベイスターズとヤクルトの試合の始球式でマウンドに立った。日本での実績のほとんどはホエールズ時代のものであり、その頃、若手として売り出し始めていた旧知の現打撃コーチ、田代富雄さんがまだベンチに入っている。そんな縁もあったのだろう。打撃ボックスにバットを持って立った田代さんに向けて1球、振りかぶって投げ込んだ。
 喧嘩っ早く、死球などを巡ってすぐに乱闘の主役となって「ケンカシピン」とも囁かれた猛々しい風貌、炎立つような体の迫力は流石に全く影を潜めている。頰のこけた温和な顔つき、やや猫背になった細身の体から繰り出されたボールは、捕手までの18メートル強の距離の3分の1ほどにしか届かず、力無く転がった。それでも田代さんはバットを振って応えた。
 投げる直前には、シピンさんは身につけた今のベイスターズの白と青基調のユニフォームを脱ぎ、その下に着こんでいた橙色と緑基調のホエールズ時代のユニフォーム姿に「変身」した。「42年前のファンを忘れない」と。
 球団サイトの動画には、田代さんとシピンさんの試合前の再会の場面が流れていた。握手し、抱き交わしながら、涙、涙の田代さん。1976年、高卒で入団して3シーズン目でまだ右も左もわからない若手の頃、初めて1軍に上がって先輩の陰で小さくなっていた田代さんをシピンさんが食事に誘うなどして大事にしてくれたという。田代さんは筆者と同級生の70歳であり、来し方への感傷も年々、強くなっているはずだ。「もう会うことはない」と思えば、ますます切なくなるのだろうな。胸の内が分かる気がして、観ているこちらもいつの間にか頰を濡らしていた。
 シピンさんの実際のプレーを一度、目にしたことがある。確かホエールズ在籍の最後の年だから、1977年、大学4年の時だと思う。夏の暑い盛りだった。所は当時のフランチャイズ、川崎球場。12球団で最も狭い球場と言われていたが、それでも度肝を抜かれる1発を見せてもらった。相手はどこだったかはもう忘れた。シピンさんが相手投手の投げた真ん中ストレートを強振すると、ライナーで一直線にセンターバックスクリーンに飛び込んだ。その1点で勝った。この年のシピンさんの本塁打は計22本。6試合に1本(当時は年間130試合)の割合であり、たまたま1試合だけ観た試合で飛び出したのはラッキーだった。
 昨日のナイターは6対3でベイスターズが勝った。奇しくも現役時代のシピンさんと同じポジションの牧二塁手が大事な場面で本塁打を放つなど大活躍し、「田代さんの友人のために打てて良かったです」と笑顔で話していた。
 昨夜の勝利で3位に復活したが、CS進出を争う4位広島とはわずか0・5ゲーム差。まだ残り11試合ある。どうせなら、短期の「助っ人」契約をして、シピンさんにしばらく日本に滞在してもらったらどうか。そしたら、「田代さんの友人のために」打つ第二、第三の牧が出てくるかもしれない。
 神様、仏様、シピン様の心境ではある。

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