問題解決能力を高めよう/4.演繹法を使いこなそう ①演繹法のおさらい
今まで、いろいろなパターンで問題解決能力の向上について、考えてきました。
しかし、今までのアクセス状況を見てみると、基本的な内容に関する方が、皆さんの関心が高いようです。
そこで、ここでもう一度「演繹法」のことを取り上げることにしたいと思います。
(なお、演繹法については、「問題解決能力を高めよう/2.演繹法と帰納法・①演繹法とは何か」で過去に一度取り上げています。よろしければ、そちらも見てください)
Ⅰ.演繹法の基本フレーム
演繹法の基本フレームについては、以下の通りでした。
演繹法については、いろいろな説明方法がありますが、わかりやすく言えば、次のようになります。
「発言や検討の対象となっている問題に関して、理由を付して結論を述べる方法」
この時、以下の2つのことがポイントとなります。
1.理由から結論が論理的に正しく導かれていること
2.結論の聞き手だけでなく、第三者が聞いても納得できる理由となっていること
さらにここで、もう一つの基本フレーム(=基本フレーム・その②)を加えておきます。
なぜかと言いますと、最初に示したフレームワークは、「自分の考えを述べるとき」に演繹法を活用する場合に使用するものだからです。
こちらも、最初に示したものと基本的には同じ構造であり、同じものです。
「ある『前提』を置いたうえで、その前提に対して『理由』を付けて結論を言う方法」という整理で考える場合に使用するものです。
Ⅱ.演繹法の基本的な例
演繹法を使用する例として、次のようなものを挙げてみました
これは、「ソクラテスは人間です。人間は必ず死にます。だから、ソクラテスは死にます。」という話です。
「人間は必ず死にます」という理由から、「ソクラテスは死にます」という結論が正しく導かれています。
「人間は必ず死にます」という理由は、他の誰が聞いても異論は出ないはずです。
ということなので、上記の2つのポイントを満たしていることは疑いのないところです。
Ⅲ.ソクラテスは悪人?
では、次のような事例ではどうなるでしょうか。
ソクラテスについては、ウイキペディアによれば、以下の様に書かれています。
「ソクラテスは『アテナイの国家が信じる神々とは異なる神々を信じ、若者を堕落させた』などの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。
(中略)紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容(しょうよう)として死に臨んだ。」
ウイキペディアに書かれているように、ソクラテスは裁判によって死刑が宣告されて死刑囚となり、結果的には刑死することになります。つまり、「ソクラテスは死刑囚である」は、歴史的な事実として正しいとされていますので、自分の考えを述べる前提としては正しい、と言えるでしょう。
次に、「理由=死刑囚は悪人である」について考えてみましょう。
死刑囚は、一般論として何らかの悪事、特に死罪に値するような悪事をしてしまったために、裁判等などの司法手続きを通じて、死刑を宣告されていると考えられます。ですから、「死刑囚は悪人である」というのも、一般論としては「正しい理由である」と考えられます。
そうすると、結論にあたる「ソクラテスは悪人である」という結論も正しい、ということになります。ソクラテスは、「イエス・キリストやブッダなどとも並ぶ三賢人の一人である」とか、さらに孔子を加えた四聖人の中の一人である、などとも言われている人物です。その人物が悪人である、という結論が正しいか、と言われると、私は首を傾げたくもなります。
Ⅳ.値下げをすれば売れる?
では、次のような事例はどうでしょうか。
最近は製品の値上げラッシュということもありますが、一般論から言えば、製品の値下げをすれば、その製品が売れるようになる可能性は高いと言えるでしょう。
しかし、この論理展開が本当に正しいのか?というと、何となく不安になるのではないでしょうか。なぜ、この一見すると正しそうな論理展開に問題があるのか。よく考えてみる必要があるでしょう。
Ⅴ.「理由を付して述べる」だけでは足りない?
演繹法について、私は以下のように述べました。(再掲します)
1.理由から結論が論理的に正しく導かれていること
2.結論の聞き手だけでなく、第三者が聞いても納得できる理由となっていること
論理展開の①、②、③とも、「1.理由から結論が論理的に正しく導かれていること」については、問題は無いと考えられます。
そうだとすると、もしも②と③に関して、結論に何か課題が存在しているとすれば、「2.結論の聞き手だけでなく、第三者が聞いても納得できる理由となっていること」に問題がある可能性がある、ということになります。
あるいは、最初の「自分の考え」あるいは「前提」に問題がある可能性もあります。
ここで、「前提」と「理由」について、注意すべき点がありますので、先に一言申し添えましょう。
Ⅵ.「事実」と「(価値)判断」の区別をする
「前提」と「理由」に関して、特に注意すべきなのは、そこに記載されている内容が「事実」なのか、それとも「判断」あるいは「価値判断」なのかを区別する、ということです。
どういうことなのかを、具体的に見ていきましょう。
最初に論理展開・その①として挙げた「ソクラテスは死ぬ」という例を見てみましょう。
論理展開①:ソクラテスは死ぬ
ここでは、「前提」に相当する「ソクラテスは人間である」も、「人間は必ず死ぬ」も「事実」と言ってよいものです。
ですから、この場合の「結論」については、ゆるぎないもの、と言って間違いないと言えます。
次に、論理展開・その②として挙げた「ソクラテスは悪人である」はどうでしょうか。
論理展開②:ソクラテスは悪人である。
ここで、「ソクラテスは死刑囚である」という「前提」は、「歴史上の事実」とされているものです。ですから、ゆるぎないもの、として考えることができます。
それに対して、「死刑囚は悪人である」という「理由」は、事実ではありません。
「死刑囚=悪人」というのは、この論理を展開している人の「価値判断」を含むものです。
ですから、その価値判断に何らかの問題点があれば、この場合の「結論」の妥当性にも疑いが出てくる、ということになります。
さらに、論理展開③:値下げをすれば売れる、を見てみましょう。
論理展開③:値下げをすれば売れる
この場合、「当社の製品を値下げする」というのは、すでに値下げをした場合には「事実」となります。
しかし、まだ値下げをしておらず、「値下げをした場合には…」という仮定の状況で話をする場合もあるでしょう。その場合であっても、「もし値下げをした場合には」ということは、「将来における事実」として取り扱ってもよいものとなります。
それに対して、「価格が安い方が製品は売れる」は、「事実」ではありません。この論理を展開している人の「判断」というべきものです。
ですから、この判断に誤り(=判断ミス)や、勘違いなどが含まれている場合には、この結論が誤っている可能性がある、ということになるのです。
このように、演繹法は、基本は「自分の考えについて、理由を付して説明をするためのもの」あるいは、「前提条件に基づいて、理由を付して結論を述べるもの」ですが、その過程において「(価値)判断」を含む内容が含まれる場合には、結論が誤っている、あるいは正しさに疑いが生じる可能性がある、ということについて、よく理解をしておく必要があるのです。
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