中動態の研究〜「私は写真を撮る」は能動態なのか?(前編)
なんでいきなりこんな話を??ですね。なんでかというと、外が暑いからですね。暑くなってくると、外に写真を撮りに行くのが億劫になってしまいます。僕自身汗かきというのもあって、汗を大量にかくと、それだけでちょっとテンションが下がってしまうのです。
写真と向き合っているのに、心のどこかに「暑いなぁ〜〜そろそろコンビニに入って涼もうかな」とか、あんまり思いたくないんですね。別にそれは人それぞれだとは思いますが、「邪念」が入ってくる余地を残していることを意識しながら写真を取っている時、何かキレが少し失われているような気がしてならないのです。普段なら気の向くまま、何かがあると感じてその道の奥にまで入り込んでいくような場面に出くわしても、コンビニでミネラルウォーター買いたいな、と思いながら歩いている時だとその瞬間を見過ごしてしまいそうで。「キレ」に影響がありそうだと感じているわけですね。まあ、しらんけど。
ちなみに夏でも僕は冷たい水は第一選択肢として選びません。常温の水をまず探して、ない場合のみ冷たい水を買うようにしています。水は常温で飲むものだと体に教え込むことで、冷たい飲み物を飲みたくなる欲求が立ち上がりにくくしています。
さて、話をもとに戻すと、
何もスナップシューターは屋外に出ないと仕事ができないわけではありません。屋内でクーラーをガンガンに効かせて、アイスコーヒーを飲みながらできる仕事があるのです。室内で写真を撮るってことですよね?という予想が返ってきそうですが、そうではありません。私の写真家としての姿勢に大きな影響を与えた森山大道さんも、「とにかく写真は何よりも現場だ」とおっしゃったそうです。「書を捨てよ、町へ出よう」と呼びかけた寺山修司さんの言葉を写真の世界で実践し続けた人の言葉です。うん、重い重い。
でも、暑いんだもの。もっと他にすることがあってもいいじゃないですか。
それは、、
「写真について考えること」です。
写真を撮るということは、どういうことなんだろう??そこに何か意味合いがあるんだろうか?
写真家である以上は、ここの哲学を考えないわけには行きません。
そこで、以下のような問いについて考えてみるわけです。
【「私は写真を撮っている」というとき、私は何をしているのか?】
いやいや、写真を撮ってますやん、という考え方。確かに、そのとおりです。写真を撮っている。でも、もう一方で、わざわざ外に出向いてカメラを持ち歩いて、ひたすら自分が気になる写真を撮りつづけていると、自分が写真を撮っているのか、果たして被写体が自分に写真を撮らせているのか、よくわからないまま撮り続けているときがあります。あれもまだとってない、あっちにまだ撮れてない写真があるかも、ああ、こっちもだ、みたいな。
「私は写真を撮っている」というとき、私は、私の意志によってカメラを被写体に向け、そしてシャッターボタンを押したということになります。文法的にいうと、能動態というやつですね。自分の意志でそうしているんだから、能動態という文法で表現されます。
しかし、本当に私の意志と言い切れるのでしょうか?
冒頭で言ったように、私は暑い日には外で写真を撮り歩くのは汗だくになっていやなので、撮りません。暑い日には、私は写真が撮れないのです。一定の不自由さがそこにはあるのです。他方、暑くない日は写真を撮りに出歩きたくなります。
そうすると、天候によって私の行動は左右されることになりますね。果たして本当に私の意志で選んでいるのでしょうか。
もう一つ、考えてみましょう。
私が被写体の前に立った時、そこに向かったのは果たして「私」なのでしょうか?被写体は私の行動範囲に限定されています。私は、その日カメラを持って動き回った範囲の写真しか、とれません。決して世界中のあらゆる被写体にアクセスできるわけではありません。とはいえ、その近辺に住むなり仕事場を構えるなりしたのは自分の意志でしょ?と思いますよね。
しかし、その住む場所は、本当に自分の意志なのでしょうか。仕事場に近いからとか。子供が学ぶ環境がいいからとか。その仕事場だって、純粋に自分でゼロから選んで決めたのでしょうか?他にも決定因子はあったのでは?というふうに、「自分で決めた」地点を探してその経緯をさかのぼっても、どこまで言っても純粋な「自分の意志」は出てこないのです。
私は写真を撮っているーーーと同時に、撮るに至った経緯ーーーその近隣に住むことになった経緯、そこに行くことになった経緯、それに気を向けるようになった経緯、考え方の経緯ーーー実に様々な要素が複雑に絡み合って、私は被写体の前に立ち、カメラを向けて写真を撮っていますよね。確かに撮ってはいるが、同時に過去の経緯やその時の状況や環境によって撮らされてもいる。「私」は「写真を撮る」という行為の完全なスタート地点として、私の意志100%でその写真を撮ることは実質的に不可能なのです。
私たちは普段から、「する」と「される」の二分法をなんの断りもなく普通に使っています。「私は写真を撮る」は、「する」側に着目した表現ですよね。反対に、被写体は「私に写真を撮られている」わけですから、「される」側になります。実に明快だ。行為は「する」と「される」の二極にきれいに分かれる。そういえば、英語の授業でも習いましたよね。「能動態」と「受動態」。be動詞 + 過去分詞形で「〜される」というふうに訳されるあれですね。
昔、「言霊信仰」が日本にあったのはご存知でしょうか。
日本が世界に誇る文化遺産、「万葉集」の2700番には、下記のような歌があります。
「玉かぎる 岩垣淵の 隠りには 伏して死ぬとも 汝が名は告らじ」
(岩で垣根のように囲まれた淵に隠って、そのまま伏して死のうとも、決してそなたの名は漏らしません。)*1
う〜ん、自分が死のうとも決してそなたの「名」は漏らさないぞ、というふうに言っていますね。名を漏らすとは?もう少し他の歌もみてみましょう。次は柿本人麻呂作とされる2947番です。
「思ふにし 余りにしかば 術を無み われは言いてき 忌むべきものを」
(恋心に思いあまってどうしようもなくなったので、ついその思いを口に出してしまった。滅多なことでは口に出してはならないのに。)*1
あまりにも彼女のことが恋しくて、ついつい口にしてしまった、彼女の名前を。
ん?
別によくね?
これは、現代人の感覚です。古代人はそうは思っていなかった。決して言ってはいけない、人の名前を言ってしまった。この感覚は一体どういう感覚なのでしょう。
日本には言霊信仰が古代から現代にも脈々と受け継がれているというのが井沢氏の見解であり、例えば日本が第2次世界大戦中に敷いた言論統制もそうした思想的背景があったと指摘しています。つまり、望ましくない結果(たとえば「受験に失敗する」)が起きたときに、その原因として誰かがその望ましくないことを言葉に出した(例えば試験前日に親が偶然何かが落ちたとき、「落ちる」と言った)からだ、というように「言語」と「結果」との間に因果関係を認めようとする思想です。
よく縁起でもないことを言うな、という人がいますよね。それも一種の言霊信仰です。「みなまで言うな、言うと起こるから」という思想ですね。
それの国家版が言論統制です。不吉なことを言うな、言うと日本は戦争に負けるだろうが、と。だから言論統制するぞ、というわけです。
よく考えると結構コワイですよね。
ただ、言葉と結果を結びつけようとする思想は極端ですが、言葉が人間の思考に影響を与え、思考が行動に影響を与えるというのは事実です。その一つに有名なプライミング効果*2というのがありますね。
私たちは想像以上に使っている言葉によって、思考に影響を受けています。能動態と受動態という2つの「態(Voice)」を前提に喋っていると、能動100%か受動100%かに分かれることを想定してしまいます。しかし、上記でみたように、「私は写真を撮る」といったときに、そこにあるのは能動100%でも受動100%でもない「私」でした。
この、能動100%でも受動100%でもない態として、「中動態」があります。中動態はかつてインド=ヨーロッパ語で広く存在していた「態」です。かつては能動態と中動態が対の概念だったのが、長い言語の歴史の中でいつの間にか能動態と受動態が対になるように変化してきたのです。
もともとは中動態がメインとして能動態と対比されていた世界観は、いったいどんな世界観だったのでしょうか?また、その世界観に沿ったとき、「私は写真を撮る」という表現は、どのような世界をイメージさせるのでしょうか。
この先は、つづき にて。
脚注:
*1 万葉集ナビより抜粋。
*2 プライミング効果:例えば、「食べる」という単語を見たり聞いたりした後に単語の穴埋め問題として"SO□P"と出されたときに、SOAPよりもSOUPと答える確率が高まる。この時、「食べる」はSOUPの先行刺激、それによってSOUPという処理が促される、つまり後続処理が促進されるということをプライミング効果という。
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