世界が青くなったら 

世界が青くなったら  作 武田綾乃さん
読ませていただきましたー

ある日世界から恋人の存在が消えてしまう。
招かれた客しか辿り着けない「kassiopeia」というお店では望んだ人に会うことができる。しかし会うことができるのは並行世界の人である。恋人が消えたことを何か知っている素振りを見せる店主に頼み込んで佳奈は働かせてもらう。店を手伝って行くうちに、並行世界と恋人の亮、店主のミツルのことが明らかに、、、、

とまあまだ読んでない人もいると思うのであらすじはこの辺で終了!
ここから先は、感想、考察などなにでなんでも許せる人だけどうぞー!


「人間というものは選択肢の塊でできている」
人は生きているうちに何度も選択をします。無意識でも意識的にでも、重要なこともくだらないことも。その選択肢が積み重なって今の自分という1人の人間が存在しているわけです。だからあのときこうすれば、ああすれば、と考えることは多々あるでしょうが、その選択肢をとらなかったらこそ今の自分がいるという前向きな考えに変えることができます。つまり並行世界の〇〇していた世界線の自分は自分であって自分ではなくいのです。
この本では並行世界の扉の先のものは絶対に持ってきてはいけないというルールがあります。連れてきてしまえば世界の理からはみだすことになってしまうから。
僕はこのことがいまいちわからなかったのですが、きっとそれぞれの世界線の物や人を別の世界線に連れてきてしまうとどこかで矛盾が生じるということなのかなと思います。例えば、一匹のウサギを別の世界線から連れてきたとしましょう。すると、そのうさぎから生まれるはずだったウサギは存在しないことになります。そしてそのウサギが食べるはずだった野菜は存在したままになります。ですが、このようなことが起きるとそれぞれの世界線でありえないこと、つまり矛盾が発生します。この本はこのことを人で書いていて、その矛盾をおこした罰が並行世界への番人とすることなのでしょう。
僕は罰というより責任だと思います。世界に矛盾をつくった責任は、自らの時間を使って世界を保つことなのではないでしょうか。

ミツルと佳奈はラストに再会を果たします。これはハッピーエンドのように読めますが僕はある意味悲しい結末だと思います。ミツルは記憶がない佳奈と今後接していくのでしょう。ミツル(亮)はミツルであって亮ではない。佳奈のもともとの世界線の亮ではないのです。佳奈を自分の世界に自己満足のためにひきいれたという事実は覆ることがなく、それは罪悪感としてミツルの枷になると思います。

奇跡と自己満足はある意味同じだと思います。ただ奇跡は相手を思いやる余裕があり、相手に不都合が起きた場合に責任を取る覚悟があった上でおこした現象。自己満足は自分のために動いてその行動に伴う事象について責任をもっていないことだと思います。
自己満足を売る店は、お客さんの気持ちや行動によって奇跡をおこす店へと変化するのではないでしょうか。

めちゃめちゃ話は変わりますが最近の小説では花言葉を使って気持ちを伝える描写が多いですよね。1本のバラ。佳奈がミツルと再会を果たした時にもらった1本のバラはどれだけ輝いていたのでしょうか。きっと記憶がなくとも心のどこかで覚えていたのだと思います。

以上、長々と書いてしまいすみません。僕の語彙力に問題がありすぎて伝わらないかもしれないですが何か質問があったらTwitterのDMにて言って欲しいです!
ではここまで読んでくださってありがとうございました!!!

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