思考としてのダゲレオタイプ
新井卓『百の太陽/百の鏡ーー写真と記憶の汀』(青土社、2023年)を読み、ダゲレオタイプ(銀板写真)の奥深さに感じ入った。感度が低く、数十分にわたる露光が必要なダゲレオタイプは、はいチ〜ズ、パシャと表情を切り取るタイプの写真ではない。被写体は数十分もの間カメラに向き合うことになる。だから、ダゲレオタイプに記録されるのは「彼女/彼らの「真顔」」であり、身体と魂の一部である。これは写真黎明期だけでなく21世紀の今も変わらない、と新井は語る。
「身体と魂の欠片を内蔵したダゲレオタイプ」は、世界を再魔術化する方法だといえるだろう。時間と手間がかかり、日によっては銀板に何の像も現れないというが、それでも新井は毎日ダゲレオタイプで撮影する。
パシャとシャッターを切る行為は、思考の線引きとそう違わない。ダゲレオタイプは、世界をわかった気になっている自分を牽制する思考方法でもある、ということを、新井のエッセイは示唆している。
線引き=分節化の思考を絶えずほぐそうとする新井の姿勢は、本書の最後に置かれたエッセイのエピグラフに引かれているアナ・チン、そしてチンと近しいダナ・ハラウェイのアプローチと接続する。チンやハラウェイは、純粋さという幻想をあぶり出し、「汚染」や「サイボーグ」といった概念で絡まりあいの思考を感光する。ダゲレオタイプの呪性とは、そうした絡まりあいの謂でもあるのだろう。