2024/07/08 ひとり暮らし、いろはの異
飼育している鯉がめちゃめちゃデカくなっている。
これは恐らく以前農協関係の人にもらった謎の餌が関係しているものだと思う。
鯉だけではなくコメットや和金も色艶が良くなってきている。
これ自体は誠良いことなのだが、いかんせん手持ちの水槽で大丈夫か?と
心配になってくる。
泳ぎ回ってはガラスにあたってゴッツンゴッツン音を立てているのだ。
鯉は飼育環境下で個体の大きさが決まるらしいが、限界突破する個体もあるのではないだろうかと訝しげになってしまう。
本格的にアクアリウムを始めるならともかく、1時しのぎの場面ではある。
さらに容赦のない猛暑。熱帯魚はまぁちゃんとした場所に置いたとて、
その他の魚ズのスペースはあまりあってあまりない。
時間帯によっては水温が35℃を超えそうにもなるが、熱帯魚より元気なのは流石であります。
更に幸いなことに家族は生命の尊さを理解している方々なのでありがたい。
だがしかし今日も田んぼに水を流し入れるシステムをぼんやり眺めながら
本当はこういう環境で生育してあげたいな…と思うこと強し。
だけどそこに放流してしまったら同じ生命として自分自身が終わっていると思ってしまうので
彼らには(特に鯉には)ある程度の環境を用意してあげたいものだ。
そう、生育環境、というか生存環境?生存戦略?
「俺達は道なりに走り続けてきた〜」と言う歌詞もあるが、
それは果たして良いことなのだろうか。
自分ごとの場合は人の道は外していないが決して道なりではない
恥の多い人生を送ってきたという自負がある。良くも悪くも。
進学先を間違え、就職を間違え、住む街を間違え、出会いを間違え、
しかしその代償に自由というものがある程度つきまとってきていた。
自分自身には『ある程度その場で楽しめる』というパッシブスキルがどうやら存在しているらしい。
でも辛いときもあったなー。全然場違いな場合とか。
そんな時はめっちゃネガ思考からのその時時の空間や音楽や人々の推敲を立てては自分を律していたりした。
人はそれ、決めつけと言う!
だから自分にあってないっ場所を避けるようにした結果、
大分行きやすくなったと思う。決しておおいたに行きやすくなったわけではない。
というか、自分の価値基準がそこそこ固まっているのであれば、
場所に縛られるのは決して良くないことだと自分自身は思う。
恐らくこれは不登校なんかにも言える問題なのかもしれないが、
「正直合わん!」と思ったところにはいかないという選択は大いにありだと思う。
それが行き過ぎて自分の場所を勝手に決めて学校を去っていく大学生のなんと多いことだろうか。
それ自体がそもそもそれを物語っているのではないだろうか。
今、その時の決断をした自分をより良くするために、
ネガティブにならないためにどうしていくか、というのが決断を続けねばならない人間にとっての糧であると自分は思っている。
自分が決断を下した結果、ペンペン草も生えない場所にしてしまったらそれは悔い改めるレベルだとは思うけど、
自分自身もこれダメだったら会社傾くんじゃねぇの?とか思う企画に入ったこともあったけど、以外にそんなことはなかった。
(もちろん痛手は追ったらしいが。俺その企画の予算から何からスタートアップやったのに途中で外されたから知らんもーん。)
愚痴になるが中途半端に案件を投げてくる上司も一蓮托生地獄の釜で煮られれば良い。
まぁ今日はこのあたりで。
明日は曇りらしいので梅雨の中だけどお元気で。
僕は明日はそれなりに行動します。(あくまで予定)