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Midnight Raversに関するあれこれ
ナイトライフ in ロンドン
この曲の舞台はジャマイカじゃありません。1971年暮れから1972年にかけてボブが滞在したイギリスの首都ロンドンです。
1970年代のロンドンと聞けば、多くの人はPunksを連想すると思いますが、それは70年代中期以降の話です。それ以前はナイトライフと言えば、ロンドンでもやっぱりディスコでした。
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ニューヨークとロンドンが最先端の音楽やファッションの発信地だった時代です。
そしてディスコはまだアンダーグラウンドでアブない雰囲気ムンムンのサブカルチャーでした。
誕生間もないdisco sceneをリードしたのはゲイピープルだったと言われています。AIDSの出現が自由奔放だった彼らの行動を一変させたわけですが、それよりも10年以上前の話です。
当時のロンドンのディスコの様子。
こっちはニューヨーク。ぶっ飛んでますね~。
推測に過ぎませんが、クラクラするようなナイトライフを体験したボブは反発しながらも「磁力」に負けてmidnight raversになってしまい、自分の混乱した心模様を歌詞にしたんだと思います。
最初はストックホルム
エピソード満載なボブの初めてのヨーロッパ滞在に話を戻します。
この滞在はロンドンではなく、スウェーデンの首都ストックホルムからスタートしました。
旧知のアメリカ人シンガーJohnny Nashに誘われてストックホルムで制作されていたNash主演のスウェーデン映画Vill så gärna troのサウンドトラックを共同で担当することになったからです。
アコースティックメドレー
ストックホルム滞在中にボブがホテルの一室でデモとして録音したのが1992年にボブ・マーリー・ボックスセットSongs of Freedomに収録されるまで未発表だった弾き語りのメドレーです。
歌われているのは(1)Guava Jelly、(2)This Train、(3)Cornerstone、(4)Comma Comma、(5)Dewdrops、(6)Stir It Up、(7)I'm Hurting Insideの7曲。
シンガーソングライターとしてのボブの魅力ここにあり的な圧巻のメドレーです。とにかく素晴らしいんでぜひ聴いてみてください。
サウンドトラックの仕事が終わると、ボブはロンドンに移動します。
いろんな問題が・・・
Nashの紹介でCBSからウエイラーズの作品を世界発売する道が開けたため、ボブはPeter+Bunnyをロンドンに呼んで3人で新曲Reggae on Broadwayのプロモーション活動をすることにしたんです。
これがその曲です。
なんとかしてレコードを売ろうと「かなり無理してる」感じがヒシヒシとします。ウエイラーズ本来のサウンドとはまったく別物です。
サウンドメイキングだけじゃなくプロモーションの面でもCBSや仲介者Nashとうまく行かず、結局この契約はあっという間に消滅してしまいました。
ボブの生徒Rabbit
ストックホルム滞在時にボブから直接レゲエのオルガン奏法を手ほどきされたのがMidnight Raversでキーボードを弾いているテキサス州ヒューストン出身のJohn ”Rabbit” Bundrickです。
RabbitもNash主演映画のサウンドトラック作りに参加していました。そんな縁でふたりは数カ月間、同じ屋根の下で生活していたそうです。
ボブに出会うまでレゲエという音楽の存在すら知らなかったRabbitがボブから受けた特訓の内容などはこちらのインタビューに詳しいです。英語が苦手な方はDeepL使って読んでみてください。
Catach A Fireのオーバーダブ録音に参加後、Rabbitはイギリスに残ってFreeやThe WhoといったBritish Rock界のビッグネームに参加しています。
まったく売れてないと思いますが、ソロでアルバムも出してます。
ロッキー ホラー
Rabbitについて検索していて一番ビックリしたのは・・・この伝説的ミュージカル映画のバックミュージシャンのひとりだったってことです。
アブない魅力のナイトライフに戻ってきたところで(笑)今回はこのへんで~。