Talkin' Bluesに関するあれこれ
これは「教会を爆破したい気分だ」というフレーズがキリスト教徒が多い欧米で物議を醸したセンセーショナルな曲です。
でも個人的には別の一節がすごく思い出深いナンバーです。
それは「岩が枕の代わり」です。
なぜかと言えば・・・
「これがそうだよ」とこの「岩」を見せられたからです。
プライベートな思い出
場所はジャマイカの首都キングストンから北西に車で2時間くらい行った深い山中にある小さな村ナインマイル(Nine Mile)です。
ボブの生まれ故郷で彼のお墓もあるところです。
訳者<ないんまいる>は、1991年に一度だけジャマイカを訪れたことがあります。その際NYで紹介された在キングストンの方に車でここにつれてきてもらい、念願だったお墓参りをしました。
30年以上前なんで記憶はあいまいですが、この岩があったのは確かBob Marley Mausoleum(ボブ・マーリー廟)と名付けられた彼の棺が安置された大理石の建物のすぐ近くだったと思います。
ボブの幼馴染だと称する地元のラスタがつきっきりでガイドしてくれたんですが、廟(内部は未公開)、隣接した小規模なギフトショップの後、岩のあるところに連れていかれました。
「ボブのファンなら知ってるだろ?」とTalkin’ Bluesの出だしのところを口ずさみながら「これがあの曲に出てくる岩だよ」と実際にその上に頭を置いて寝そべった格好までして教えてくれました。
ナインマイルは緑濃い山の奥また奥で大自然の神秘が肌で感じられるところです。
カーブが連続する山道から見た景色は以前に訪れたバリ島によく似ていました。
訪問したのは昼過ぎでしたが、日没後は満天の星と漆黒の闇と虫の音という贅沢が体験できる場所なんだろうな〜と感じました。
ボブが眠る教会を模した建物からは彼の有名曲がノンストップで大音量で流れてました。
10年前にこの世界から旅立った「ボブの気配」のようなものが廟周辺にまだ濃厚に漂ってました。ついにボブのお墓に来れたんだという感激で高ぶっていたんで「これがあの岩だ」と言われてその時は「そうなんや」と素直に信じました。
今冷静に振り返ってみるとあの岩は絶対に観光用の「でっちあげ」です(苦笑)。
もしモデルになった岩が本当に実在するとすれば、場所はボブが一時期ホームレス生活をおくったトレンチタウンでしょう。
でもこの件は検索しないことにしました。岩の真偽や場所は別に大事じゃないですからね。
今回はボブの故郷ナインマイルとそこでの彼の少年期について調べて分かったことをまとめて書いておこうと思います。
何もない小さな村
ナインマイルはこんなところです。
産業は農業以外ほぼ何もありません。
ボブのお墓ができてからは、住人のほとんどは観光客相手の商売とマリファナの栽培と販売で生活してるんだと思います。
地元産のオーガニックで高品質のマリファナを買うことがナインマイルでは、リスペクトの表現であり、入村税みたいな感じでした。
ボブはここで生まれ、12歳で母とキングストンに移るまで大自然の中で暮らしています。
幼少期のボブ
ボブの母はアフリカ系ジャマイカンのCedella Malcolm(当時19歳)、父はイギリス系ジャマイカンのNorval Marley(諸説ありますが、当時たぶん60歳ぐらい)です。
ふたりの間に一体どんな事情があったのか不明ですが、大きな年齢差、ボブが生まれてすぐナインマイルに滞在していたNorvalが村を去ったこと、アフリカ系を蔑むNorvalの家族が決してボブの存在を認めなかったという事実は重いです。
そんな身の上のボブは、同じ村に住む母方の祖父Omeriah Malcolmの寵愛を受け、農作業を手伝いながら成長していきました。
教会の名前も場所も特定できませんでしたが、毎週日曜日には熱心なペンテコステ派(Pentecostal)のクリスチャンだった母親と礼拝に通っていたそうです。
Cedellaはクワイアのリーダーだったとも言われています。
ボブが有名になってからは「息子の七光り」で歌手デビューして音楽活動もしてます。
当然ボブも歌い始めたのは教会、最初に歌ったのはゴスペルでした。
ちょっと検索してみたら、ジャマイカのペンテコステ派教会の礼拝でのゴスペル動画がありました。
スカみたいな速いビートでかなり激しいです。こんな感じやったんかな?
祖父の影響
ナインマイルの大地主兼農夫だった祖父Omeriahから少年ボブは大きな影響を受けたようです。
Omeriahはカリブ海・中南米一帯でコロマンティとかクロマンティという名で知られている現在のガーナから連れてこられてたアカン人(Akan)の子孫でした。
アカンの人たちはジャマイカではマルーン(Maroons)と呼ばれる山に逃げた奴隷たちのリーダーとなって自由のために闘いました。ボブのお爺さんはそんなfreedom fightersの血を引いた人です。
彼はbush doctorというアフリカ伝来の薬草利用法を伝える村のキーパーソンでもあったそうです。
ちなみにYouTubeで検索してみると、bush doctorsは今も健在なようです。
漢方のようにアフリカにも伝統的な薬草と効能の知識があり、それを奴隷として連れ去られた人たちがカリブ海や北中南米に伝えたわけです。
そんな村の「知恵袋」だった一方、ものすごく女性にもてる人だったらしく、正規の結婚でもうけた9人以外にも大勢子供がいたと伝えられています。
この祖父から受け継いだあれやこれやがボブのライフスタイルや音楽に大きく反映されているのは間違いないところです。
例えば、「経済的に成功をおさめた裕福な人が貧しい家族や仲間を助けて養う」というアフリカ的大家族主義がそうです。
ボブは明らかにそんな考えの持ち主でした。
Island Recordsと契約して世界的なスターになってから、ボブはトレンチタウンから高級住宅地Hope Roadの豪邸を購入して引っ越していますが、この家にはバンドメンバーや知り合いのミュージシャンだけでなく、トレンチタウン時代の友人や草サッカーの仲間が常に出入りしたり、居候したりしていました。
おそらくそれはボブにとって当たり前なことだったんでしょう。
そんな感覚は彼が毎日読んでいた聖書に記されている「神があなたを愛してくださるようにあなたも隣人を愛しなさい」という教えとも一致していました。
アフリカ的価値観とキリスト教の教え。ナインマイルでの少年期を通じボブのこころに刻み込まれたこのふたつが後年彼をラスタファリへ導いたと言えると思います。
ラスタファリとして歩んだ道が、最終的にボブを父祖の地アフリカに向かわせるわけですが、その前に語るべきエピソードがまだ山のようにたくさんあります。
先を急がずに、一曲一曲存分に味わいながら前に進みたいと思います。
というわけで今回はボブにとって人生という旅のスタート地点であり、終着点でもあったナインマイルに関するあれこれでした。それじゃまた~