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忘れえぬ人

一枚の写真がある。

2006年11月11日、障害者自立支援法と平成の市町村大合併による大波が襲った年の結婚を祝う会でのベストショットだ。その写真が彼の遺影となった。

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新潟に暮らす脳性マヒによる重度の障害者・鈴木正男さん(1950年生)と出会ったのは1981年、学園祭での講演会だった。

前夜、後輩のアパートに宿泊してもらい、わたしの作ったメチャクチャ炒めを、片足で食べ、「うまいよ」と言ってくれた。それからわたしたちは生涯の友となった。

鈴木さんは「あきらめない人生」を懸命に生きた。10歳で父を亡くした。母に背負われ、近所の小学校へ数か月通った。「就学猶予・免除」で「学校へ行けないことだけは理解していた」そうだ。

20歳を過ぎた頃、地域で障害者の集まりに参加。雑誌「みんなのねがい」を読むようになり、全障研の全国大会に参加すると、自分の視野の狭さを感じ、全国には同じような障害の人が輝きを放っていることに感動した。一人、二人と知り合いもできた。

高齢となった母と二人で暮らしたが、母が入院することになり、介助者としての母と一緒に仕方なく彼も入院した。でも、母は退院できても、彼の身体の自由は利かなくなった。入院生活が一年ほど過ぎた頃、「もう自分では動けなくなった。いざることができないよ」と電話があった。

彼の夢は新潟で全障研大会が開催されること。その夢が1993年に実現したとき、自分の町の福祉タクシー実現のとりくみを、障害者として自分が生きてきた誇り、しかし障害を持つがゆえの不自由、そして二次障害のやりきれないおもい、社会的不利としての行政への強い要望などをレポートにこめた。

ところが、片足の指1本で打てたワープロも、二次障害で指先の感覚がなくなり、熱心な高校生ボランティアの「口述筆記」でレポートは完成した。その彼女は成人して彼の素敵なパートナーとなった。

IT国会(2000年)でわたしは、鈴木さんのおもいとねがいを国会で訴えた。

「新潟の鈴木正男さんから、電子メールで意見をいただきました。30歳ごろ、足で文字を書けなくなったので、足でキーボードを打ってワープロを使い始めました。42歳で障害が重度化して座ることができなくなり、寝たきりとなりました。もうだめかと思いましたが、科学技術の進歩を思うと、どんな障害があっても入力できる機器は開発できると信じることにしました。今は、あきらめるのではなく、人を介してもいいからと考えて、介護人と二人三脚で自分のホームページをつくり、介護情報を発信しています」。

すべての人のためのIT基本法をと。

それからもいろいろあった。

なかでも、障害者自立支援法は、障害者がトイレすること、ご飯を食べること、外出すること、それらはすべて「応益」負担だ、「自己責任」だという天下の悪法だった。彼は仲間とともに連帯した。

そして、長引くコロナ禍の生活も深刻で、結果彼の生命を削ることになった。

障害者権利条約を締約したこの国で、鈴木さんたちが、つつましいけれど、生き甲斐のある生活を求めることは「贅沢」なのだろうか。

鈴木さんとの出会いは、頭で考えるだけの「障害者問題」ではなく、「共感」と「実践」「運動」が試された。

「学ぶこと、知は力だなあ」

「あんたは、自分が生きてこれたブレーンの一人だ」

「あんたに会えてよかったよ」

鈴木さんの言葉がよみがえる。

おれも会えてよかった、そう思うよ。

JD「すべての人の社会」2023年11月号 「視点」

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