視線でわかる思いやり度数
今日のキナータイムは、「人の視線」。
ニトリをぐるっと回ったあと、ハワイアンパンケーキの店へ
という平和な休日を過ごしました。
いつもと違うのは、パンケーキ店のローソファーから立ち上がった直後に起きました。
突然、夫がぎっくり腰になりました。
といっても、くの字になりながら、小股では歩けます。
ですが、ゆっくり歩いていても、時々、がくっと腰が落ちるような動きになるので、注意が必要でした。
そのため、私が腕を組んだり、胴体を支えたりして、2人一組で歩いたのです。
運動会の二人三脚状態でわかったこと
パンケーキ屋から駅まで歩いて、さらに電車に乗って自宅に帰る途中、実感したことがあります。
みんな険しい顔をして、ガン見する!!
そんな突き刺さる視線を感じても、夫は平然としていました。
でも、もともと他人の視線を感じやすい私は、怖く感じました。
なぜなら、じーっと見てくるので、私も相手を見返しましたが、じーーーっと見続けてくる人ばかりだから。
コワい!
どうみても、「足腰が悪い人歩いている」だけなのに、なぜ?
道を歩けばジロジロ、
電車に乗り込めばジロジロ、
電車を降りる時は
座っている人が顔を見上げてジロジロ、
スーパーに入ればジロジロ。
そして、なぜか険しい顔をして見てくる。
私たちは±0の平常心顔をしているのに。不思議だ。
体が不自由な人が受けている視線
なんでじろじろ見続けられるんだろう。
別に、手を貸そうとして見続けているわけではなかった。
そんな様子は見られなかったから。
ただ、自分の興味本位なだけで見てくる。相手の気持ちなどお構いなし。
体が不自由な人って、日常的にこんな視線を受けてるのかもしれない。
私は日ごろから、歩くことが不自由な人を見かけても、別にジロジロみない。
手助けが必要そうかだけを判断するために、ちょっと見る程度だ。
だから余計にわからなかった。
私は数日でも、謎の突き刺す視線が嫌だった。
「気にしなければいい」というのは簡単だけど、時間がかかりそう。
嫌なものはずっと嫌だから、ずっと慣れない人もいるかもしれない。
視線はむき出しの感情ダァ
みんな自分の興味がむき出しになっている。
きっと頭をよぎったことってこんなこと?
1.支えられながら、くの字で歩く人が来た。
2.老人歩きなのに、若い。
3.健康なの? 体が不自由なの? どちらか確かめたい。
どう転んでも、「歩くのが大変」という事実のみ。
ぜんぜん、未知とかじゃないやん。
想像力とかも必要なくて、見ればわかる状況。
なのに、相手の心境を考えることすらできずに、ずっと見続ける人って、ただの自己中な気がする。
今回の出口
相手の心情を察することは、想像力が必要なんだな。