SIX the Musicalをもっと楽しむための歴史背景解説③

前回に引き続き、知っていればミュージカルSIXがより楽しめる歴史背景を、歌詞に出てくるポイントをピックアップしながら曲ごとに解説していきます。
歌詞は私自身が訳したものを使うので、良ければこちらのマガジンを一緒にご覧ください。

今回は、キャサリン・ハワードとキャサリン・パーの2曲です。全体曲SIXは「もしも」の話で歴史的に解説できることはあまりないので割愛します。
最後に関連作品を紹介しているので、もしテューダー朝にさらに興味を持たれた方はチェックしてみてください。

キャサリン・ハワード

ヘンリ・マノックス

キャサリンは母を幼いころに亡くし、父は当時イングランド領だったフランスのカレーの官職に任命されたため、前ノーフォーク公爵夫人である祖母アグネスのもとに預けられました。
キャサリンの音楽の先生だったヘンリ・マノックスは、教師と生徒という力関係を利用して、性交までは至らなかったものの、キャサリンと性的な行為を行っていまいた。アグネスは、二人が抱擁しているのを発見したとき、被害者であるはずのキャサリンをぶちました。

フランシス・デレハム

フランシス・デレハムは、1538年終わりごろからアグネスのもとで仕事をしていました。キャサリンは、複数回デレハムを寝室に招き入れました。デレハムはキャサリンのことを妻と呼び、二人は贈り物をしあい、性的なパートナーになりました。歌詞で「あたしたちは本当に繋がってる(we have a real connection)」とありますが、性交まで至らなかったマノックスとの対比で、「本当に」と言っているのではとの考察をしている方もいます。
このことを知っているのはキャサリンと同部屋だったキャサリン・ティルニーでした。のちにアグネスに露見し、彼女はまた孫娘と今度はデレハムもぶつことになります。キャサリンがアン・オブ・クレーヴズの侍女になったあと、デレハムはアイルランドに去りました。

彼はあたしを侍女にして

キャサリンの父が1539年3月に亡くなったあと、伯父の現ノーフォーク公はキャサリンを新しくやってくる王妃の侍女につけました。ヘンリとキャサリンが初めて会ったのは、1539年12月19日、クレーフェ公国からやってくるアンをグリニッジで迎えた時です。アグネスは、ヘンリは初めてキャサリンを見た時から彼女に魅了されていたと後に回想しています。

あたしたちは結婚した

いつからヘンリがキャサリンとの結婚を考え始めたのかは不明ですが、彼の好意を示す最初のキャサリンへの贈り物は1540年4月です。その後3か月という短期間でヘンリはアンとの結婚を無効にし(前回の記事参照)、3週間後の7月28日、ヘンリの側近だったクロムウェルが処刑されたその日に、キャサリンはデレハムとの関係を隠したままヘンリと結婚し、約1週間後に王妃と認められました。

ヘンリはキャサリンを溺愛しており、自分の死後キャサリンに与えると彼が決めた寡婦資産の中には、最愛のジェーン・シーモアの持ち物であったものも含まれていました。キャサリンの生活を維持するために多額の出費も認めました。そのお金でキャサリンは旧友たちをポストにつけました。その一人に、デレハムと関係を持っていたころに同部屋だったキャサリン・ティルニーもいました。他にもデレハムとの過去を知っていると考えられる者にポストを与えており、口止めとしての対応だった可能性もあります。

トマスは助けの手を差し伸べてくれたわ

1541年3月ごろ、デレハムがイングランドに戻ってきて、キャサリンに官職をくれるようしつこくせがんできました。さらに彼女の周囲で、彼女が自分を気に入っていたと自慢し始めます。同時期、国王私室の侍従であるトマス・カルペパーが彼女に言い寄ってきており、二人は密会を始めます。キャサリンがカルペパーに宛てて書いたと思われる熱烈な手紙も残っており、二人の不倫の証拠として扱われ、研究者もキャサリンのカルペパーに対する愛情を著したものとしてとらえてきました。

しかし別の解釈もあります。手紙の感情的な書きぶりは、性愛によるものよりも、国王に近しいポストにあるにも関わらず言い寄ってくる、攻撃的で危険な人物をなだめる必死さによるものではないか、という読み方です。カルペパーがキャサリンとデレハムの関係を知っており、脅されたキャサリンが性的関係を結ぶという形で口止めをした可能性を指摘している研究者もいます。実際、手紙の中でキャサリンはカルペパーがそばにいてくれたらと願っているものの、一度も「恋人lover」や「愛しいあなたdarling」のような表現は使っていません。

その後、キャサリンはデレハムを自分の秘書に任命します。のちに祖母から命じられて任命したと主張しますが、彼女との関係の口止めのためである可能性が高いです。その後デレハムに何度か賄賂も送っています。

9月以降、不貞が露見する不安が大きくなったのか、キャサリンは二人の密会を手引きしていた侍女を通して、もう会うことはないとカルペパーに伝えました。

秋、キャサリンの結婚前の素行がヘンリに報告されました。ヘンリは当初信じようとしませんでしたが、調査が進みマノックスやデレハムがリーク内容は事実であると証言したため、11月6日、ヘンリはキャサリンを見捨て、二度と会うことはありませんでした。

キャサリンは取り調べに対し、当初はマノックスとの関係もデレハムとの関係も否定していましたがのちに認めました。マノックスとのことがあったころ自分は幼かったことや、デレハムは自分のことを妻と呼んでいたが結婚関係にはなかったと釈明します。しかしデレハムがキャサリンとカルペパーの関係を証言したことで、キャサリンの立場はこれ以上なく悪化しました。これも当初キャサリンは否定していましたが、のちに認めるとともに、カルペパーを加害者として非難しました。

王妃の不貞が確定してまったヘンリは、大量の涙を流して非常に悲しんだと言われています。翌年4月になってもヘンリは以前とは別人であり、つねに悲しみにくれ、物思いに沈み、ため息をついていると外国の大使が報告しています。

アグネスを始め関係者も多く取り調べを受けました。キャサリンを有罪にするために、過去の身持ちの悪さを明かさなかった王妃とそれを隠した者は反逆罪とする法律が通り、デレハム、カルペパーをはじめ、ハワード家の親戚にも反逆罪の判決が下りました。実際に処刑されたのは最初の2人と手引きしていた侍女だけで、他の人々は最終的に恩赦を受け、釈放されることとなります。キャサリン自身も打ち首となりました。断頭台に上るのにも支えてもらわなければならないほど衰弱していたようです。このとき、「トマス・カルペパーの妻として死にたかった」と口にしたという話も残っていますが、真実はわかりません。

キャサリン・パー

親愛なるトム

ジェーン・シーモアの兄であるトマス・シーモアのことです。2人目の夫の死後、キャサリンはトマスと結婚するつもりでした。ハンサムで気前がよく、明るく人好きのする性格だったと言われています。

ヘンリとの結婚によってトマスとの仲は裂かれてしまいますが、ヘンリの死後数週間のうちに二人はよりを戻し、1547年5月のどこかのタイミングで極秘に結婚しました(ヘンリの死去は1547年1月末)。この結婚はのちに明るみになり、スキャンダルとなります。

1547年12月、キャサリンがトマスとの子を妊娠していることが分かりました。翌年8月30日に娘を出産しメアリと名付けましたが、9月5日に産褥熱でキャサリンは死去します。

昔2度結婚したけど、未亡人になっただけだった

キャサリンは、ヘンリとの結婚前に2度結婚しており、どちらも夫に先立たれています。一度目は1529年5月、17歳のころにゲインズバラの第3代バラ男爵の息子と結婚します。この結婚について分かっていることは少ないですが、キャサリンにとっては幸せなものではなかったようです。夫は1533年4月になる前に死去しました。

1534年、北部に所領を持つスネイプ・キャッスルの第3代ラティマー男爵ジョン・ネヴィルと再婚しました。彼はそれまでに2度結婚しており、若い子供が2人いました。また、ネヴィルはカトリック寄りの考えを持っており、1536年に宗教改革に反対する恩寵の巡礼(アン・ブーリンの解説参照)が起こると、反乱者たちに仲間になるよう誘われます。彼は国王と反乱者たちの両方とうまく交渉しようとしましたが、国王側からは反逆者と思われ、反乱者側からは国王に寝返ったと見なされてしまいます。反乱者たちはキャサリンと子供たちを人質に取りましたが、ネヴィルによって無事解放されました。反乱鎮圧後、ネヴィルも反乱への関与を疑われましたが、妻子が人質に取られていたことで逮捕を免れました。ネヴィルは1543年3月に死去します。

国王と結婚して唯一生き残った王妃になった

ネヴィルが死ぬ前の冬、キャサリンは、キャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリの侍女になっていました。メアリは1536年にヘンリに恭順を示して以降ヘンリと比較的良好な関係にあり、頻繁に宮廷に滞在していました。そこでヘンリはキャサリンを見初めたと思われます。

伝統的にキャサリンは国王の介護のために妻とされたと言われてきましたが、同時代の記録からは非常に魅力的なキャサリン像が浮かび上がってきます。背はやや高めで、赤毛に灰色の瞳を持っていました。生き生きとした性格で、ウィットにとんだ会話をこなし、芸術や学術に深い造詣を持ち、優美に踊り、良質な服や宝石、特に深紅の生地とダイヤモンドを好みました。

1543年7月12日、キャサリンとヘンリは結婚しました。6人の王妃の中で唯一王族の出身ではなく、宮廷での出仕もしていなかったキャサリンは、可能な限り早く宮廷のしきたりや王妃の務め、特権を学ばなければなりませんでした。キャサリンが最初にとりかかったのは義理の子供たちとの関係構築でした。元侍女ということでメアリとはすでに良好な関係にあり、勉強への関心を通じてエリザベス(アン・ブーリンの娘)とエドワード(ジェーン・シーモアの息子)と親しくなりました。

1544年夏には、フランスに軍事遠征に行ったヘンリの留守を預かり、摂政として枢密院と共にイングランドを取り仕切りました。これは、ヘンリが体調を崩していくなかで、未成年のエドワードが即位した場合、王太后(国王の未亡人)を摂政に立て、枢密院と共にイングランドを統治する予行演習のようなものでもありました。
しかし、女性が統治権を握ることは歓迎されないうえ、1年前までは遠く北部で主婦をしていたキャサリンがそのような権力を持つことは、とりわけ彼女と宗教的に対立関係にあるカトリックから疎まれるようになりました。

カトリックは、公的な文書を発行するために必要な国璽を管理する大法官と結託し、キャサリンの「生意気な」態度に辟易しつつあったヘンリもおそらく黙認のうちに、キャサリンは「急進的過ぎる」として異端の疑いをかけられ逮捕状が発行されました。たまたまその令状がパサリと落ちたのを見た宮廷医師から報告を受け、キャサリンは自分に逮捕状が出されたことを知ります。

彼女は寝室に閉じこもり、死にそうなほど体調が悪いと言いました。ヘンリが急いで彼女のそばに来たとき、ヘンリの気分を害しているのではないかという恐怖から体調が悪いのだと説明しました。ヘンリは、宗教的な事柄に関してキャサリンが遠慮なくものを言うことをとがめました。逮捕の恐怖から、キャサリンは今後ヘンリの導きに従うと約束します。この約束に納得したヘンリは令状を取り消させました。

ヘンリが死去した後、ジェーン・シーモアのもう一人の兄で、トマスの兄でもあるエドワード・シーモアが摂政として実権を握ります。キャサリンは、かつての予想に反して、新しい少年王エドワード6世の政府からは完全に排除されました。

本や詩篇、瞑想禄を書いた

キャサリンはヘンリの王妃たちの中で最もイングランド・ルネサンスに関心を持った王妃でした。王妃として獲得した莫大な収入の一部を使って、イングランド内外の音楽家、芸術家、肖像画家を招いてパトロンとなりました。当時広がり始めたばかりの印刷技術も支援し、福音派の書物を扱う駆け出しの印刷業者のパトロンにもなりました。建築にも関心があり、ハンプトン・コートに自分のために豪華で新しい部屋を造らせました。

キャサリン自身の最初の出版物は、カトリックを固持したために処刑されたジョン・フィッシャーのラテン語の『詩篇』の英訳で、1544年4月に匿名で出版されました。2作目は彼女自身の名前で出版され、イングランド王妃が正式に出版した史上最初の作品となりました。この作品のタイトルが「祈りあるいは瞑想」です。その後も数冊の作品を出版しました。

女性教育のために戦った

キャサリンの女性教育や女性の自立への熱心さは母譲りです。早くに父を亡くしたキャサリンですが、たぐいまれなる聡明さと自立心を持った母が家をしっかり切り盛りし、家庭で教育を受けました。キャサリンはフランス語、ラテン語、イタリア語に通じ、王妃である間はスペイン語も学びました。彼女の言語能力の高さは、王族ではない16世紀の女性としてはけた外れなものでした。

王妃になってからは主体的に教育に携わりました。子供用のアルファベットの本の出版に関与したり、ケンブリッジ大学とも深いつながりを持ったりしました。彼女の影響力の強さは、1545年のトリニティ・カレッジの設立の要因となりました。

当時の既婚女性としては珍しく自身の署名に旧姓の頭文字であるPを含めるなど、自分自身の価値を表明し、結婚関係における自立を意識した女性でした。

参考文献

『セシルの女王』

ミュージカルSIXと正式にコラボしている漫画です。既刊8巻です。主人公はエリザベス1世の忠臣ウィリアム・セシルです。1巻でアン・ブーリンの成り上がりが描かれ、8巻でちょうどヘンリが崩御し、所々でキャサリンの回想も出てくるので、1~8巻まで読めばSIXが扱っている範囲をカバーできます。SIXと似た人物造形の王妃もいれば、全く異なっている王妃もいます。王妃たち、そしてヘンリはこれまで下記でも紹介する映画や舞台などで様々に解釈されてきました。ぜひSIXの解釈と照らし合わせながら読んでみてください。

指昭博『ヘンリ8世の迷宮』昭和堂、2012年。

『セシルの女王』を監修している指先生の本です。指先生はメアリ1世時代が1番のご専門ですが、幅広くテューダー朝研究の日本における第一人者です。この本ではヘンリ8世自身のことはもちろん、6人の王妃や当時の政治、外交、宗教の状況まで幅広く分かりやすく書かれています。ヘンリ8世の時代をもう1段階詳しく知るための一歩目として最適です。

他のエンタメ作品

テューダー朝はイギリスでは大人気の時代です。これまでにテューダー朝を舞台にした作品が色々なジャンルでたくさん作られてきました。
映画の古典で言うと『ヘンリー8世の私生活』『わが命つきるとも』『1000日のアン』などがあり、より最近のもので言うと『ブーリン家の姉妹』があります。2025年2月14日(金)からは、『ファイアーブランド』も日本で公開されます。

ドラマも多いです。『THE TUDORS』『ウルフ・ホール』が有名どころで、私自身気になっているものの放送チャンネルにアクセスできないため見れていないのが『スパニッシュ・プリセンス』です。
近々劇団四季で上演される『王子と少年』もヘンリ治世最晩年が舞台です。シェイクスピアの『ヘンリー8世』も忘れずに。

オクスフォード人名辞典

さらに踏み込みたい!もっともっと王妃たちや周囲の人物のことを知りたい!という方には、オクスフォード人名辞典(Oxford Dictionary of National Biography 通称ODNB)をオススメします。今回の解説もほとんどこれを見ながら書きました。かなり割愛してぎゅっとまとめたので、しっかり全部読みたい方はぜひこちらから!
2004年の出版なので、現在の最新の研究ではさらに進展している部分もあるかと思いますが、イギリス史上の人物を調べたい時はまずこれです。

書籍版は合計数万ページにも及びますが、オンライン化されています。ただしサブスクが必要で、1ヶ月日本円で4500円くらいかかります。記事は全てダウンロードできるので、1ヶ月だけサブスクして、欲しい記事を全てダウンロードしてしまい、サブスクを更新しないという手もあります。記事は全て英語です。専門用語などはそれほど多くないので、AI翻訳でもある程度理解できる文章になると思います。

以上です!
良きミュージカルSIXライフ、そして良きテューダー朝ライフを!

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