SIX the Musicalをもっと楽しむための歴史背景解説②
前回に引き続き、知っていればミュージカルSIXがより楽しめる歴史背景を、歌詞に出てくるポイントをピックアップしながら曲ごとに解説していきます。
歌詞は私自身が訳したものを使うので、良ければこちらのマガジンを一緒にご覧ください。
今回は、ジェーン・シーモア、ハウス・オブ・ホルバイン、アン・オブ・クレーヴズの3曲です。
ジェーン・シーモアのパート
あなたが私の人生にやってきて
ジェーンとヘンリの出会いは諸説あります。よく言われるのは、ヘンリがジェーンの実家であるウルフ・ホールを訪ねた1535年9月ですが、神聖ローマ帝国大使の記録を見ると、1年前にはすでに会っている可能性もあります。
アン・ブーリンから気持ちが離れるにしたがって、ヘンリはジェーンに心を寄せていきました。ちなみに、ジェーンはキャサリン・オブ・アラゴンにもアン・ブーリンにも侍女として仕えています。ヘンリは近場で手を出しすぎですね。
しかしジェーンも一筋縄では行きません。ヘンリがジェーンに愛情のしるしとして金銭を送ろうとしたとき、ジェーンは「私は非の打ち所のない名誉ある両親から生まれた娘です。たとえ千度死んだとしてもその美徳を手放すつもりはありません。もし陛下が私に金銭を下さるのならば、私が良き相手と結婚するときのお祝いとして取っておいてください」と返し、受け取りませんでした。この返事でヘンリはさらに燃え上がります。
1536年5月19日、アン・ブーリンの処刑の日、イングランド国教会の聖職者のトップであるカンタベリ大主教が、ジェーンとヘンリの結婚に対して特免状を出します。ジェーンとアンは母方の家系を通してはとこにあたるためです。翌日、ジェーンとヘンリは婚約し、1536年5月30日に結婚しました。キャサリン・オブ・アラゴンもアン・ブーリンも死去したあとですから、この結婚の法的正当性に疑いはありませんでした。
通常王妃は戴冠されます。キャサリン・オブ・アラゴンもアン・ブーリンも戴冠式を行いました。ジェーンも戴冠式を行う予定でしたが、会場となるウェストミンスター寺院周辺でペストが流行っていたことから延期することになりました。その後ジェーンの妊娠が発覚し、戴冠式を行うのは現実的ではなくなっていきました。
世界中に見えるように、私たちをそばに置く
ジェーンはいつもヘンリと一緒にいました。南東部へ一緒に旅行したり、ヘンリの狩りにジェーンも同行したりしました。1536年12月21日、ジェーンの父が亡くなったときもジェーンが実家に帰った形跡はなく、宮殿の一つであるグリニッジ宮でヘンリと共にクリスマスを過ごしました。
あなたは私がこれまで愛した唯一の人
「愛する」の定義は置いておくとして、ジェーンは6人のクイーンの中でただ一人、ヘンリのみと婚約・結婚し、彼の妻として死去した王妃です。キャサリン・オブ・アラゴンはヘンリの兄アーサーと結婚していましたし、アン・ブーリンはヘンリとの結婚前、ある貴族の息子とひそかに婚約していました(親にバレて破談になります)。アン・オブ・クレーヴズもヘンリの他に婚約者はいましたし、ヘンリとは離婚します。キャサリン・ハワードはそれまでの男性関係や最終的なトドメとなるトマス・カルペパーがおり、キャサリン・パーはヘンリとの結婚前に2回結婚し、トマス・シーモアという恋人もいました。
したがって、ジェーン・シーモアが婚約し、結婚したのはヘンリだけであり、正式にヘンリの妻として死んだという点を考えれば、ジェーンが生涯で唯一「愛した」人はヘンリと言えるのではないかと思います。
息子
1537年2月、ジェーンの妊娠が公表されました。ジェーンは妊娠週を重ねるにつれ、キュウリをたくさん食べるようになったそうです。結婚後にキャサリン・オブ・アラゴンの娘メアリとも、アン・ブーリンの娘エリザベスとも良好な関係を築いており、メアリがキュウリをたくさん送ってくれたとの逸話が残っています。
10月12日午前2時ごろ、3夜にわたって続いたお産がようやく終わり、健康な男の子が生まれました。ヘンリが、そしてイングランドが切望していた男の子です。翌日13日が聖エドワード懺悔王の日であったことから、エドワードと名付けられ、事実上の王太子の称号であるウェールズ大公の他、複数の称号を数日後に授与されました。
この出産が帝王切開であったという話がありますが、これはエリザベス治世のカトリックの歴史家がでっち上げた作り話です。
すぐに行かなくてはならない
10月24日、ジェーンは28歳で亡くなりました。出産直後は元気な姿も見られており、10月15日、ハンプトン・コートのチャペルでエドワードの洗礼式を行った時には来客を控えの間で座って出迎えていました。ジェーンは回復に向かっているように思われましたが、24日、ジェーンの容体が急変します。日が変わる直前、ジェーンは死去しました。ヘンリがジェーンを看取れたのかは分かりませんが、同じハンプトン・コートにいたことは分かっています。
ジェーンの死因は特定されいません。伝統的には産褥熱だと言われていますが、当時は何か悪い物を食べさせたのではないか、寒かったのではないかと、彼女のそばで仕えていた人々が責任を問われもしました。現在では、出産直後は元気だったことや記録されている症状から、胎盤の一部が子宮内に残ってしまったことが原因ではないかというのが有力な説明です。
ある研究者は、宮廷に仕えている医師は実践経験に乏しい学者であり、王妃の身体にむやみに触れるわけにもいかず、確認が不十分だったのではないかと推測しています。この研究者は続けて、庶民の方が熟練の産婆からより良い処置を受けられただろうとも述べていました。
ジェーンは死後ウィンザー城に埋葬されます。ヘンリも死後ジェーンの隣に埋葬されました。国王は通常ウェストミンスター寺院に埋葬されますが、ヘンリ本人がジェーンの隣に埋葬されることを希望したためです。死後はイングランド国王としてではなく、愛する妻の隣で眠りたいと願ったのでしょう。
ハウス・オブ・ホルバイン
ハンス・ホルバイン
アウグスブルク出身の画家ホルバインの活躍はスイスのバーゼルから始まります。ルネサンスを代表する人文主義者エラスムスの『愚神礼賛』に挿絵を描いたり、肖像画、宗教画、壁画を手掛けたほか、木版画、版木、ステンドグラスのデザインまでこなしました。
ホルバインはエラスムスを通じて、イングランドを代表する人文主義者であるトマス・モアと知り合いになり、その伝手を頼って1526年に渡英します。イングランドにわたってすぐに高給の仕事を得たほか、現在では最も有名と言っても良いモアの肖像画をはじめ、モアのためにいくつかの作品を制作しました。
2年ほどイングランドに滞在した後、ホルバインは一度バーゼルへ戻ります。しかし、宗教改革の一環で宗教画やステンドグラス、聖人像などが撤去・破壊されるようになったため、ホルバインの仕事にも悪影響が出始めます。また、この頃にホルバインはプロテスタントに改宗しましたが、しぶしぶだったようです。
1531〜2年のどこかのタイミングでホルバインはイングランドに戻り、宮廷に出入りするようになります。宮廷画家として明確に名前が出てくるのは、1536年以降です。
彼は同時代の他のイングランドの宮廷画家の誰よりも高い給料をもらっており、ヘンリからその腕を買われていたことがわかります。
彼の仕事内容は、ヘンリや彼の家族の肖像画を描くこと、ヘンリの王妃候補の外国の貴婦人の肖像画を書くためにヨーロッパを飛び回ること、貴族や王妃らからのヘンリへの贈り物のデザインをすること、他の貴族や有力者、ロンドンにいるドイツ系商人の肖像画の制作など多岐にわたりました。
ホルバインの逸話として、「本当はブサイクなアン・オブ・クレーヴズを美人に描いた」としてヘンリから責められたというものがありますが、この話は17世紀後半の人物が言い出したものであり、ヘンリの傍若無人さを示す作り話の可能性が高いようです。
ドイツへ向かった
当時ドイツという国はなく、現在のドイツのあたりは神聖ローマ皇帝の影響が及びつつも、複数の領邦が存在していました。ヘンリの4人目の花嫁候補はブリュッセル、フランス、ブルゴーニュなど、少なくとも9つの王国・地域で探されました。アン・オブ・クレーヴズが選ばれたのは、当時のヨーロッパの国際情勢においてクレーフェ公国との繋がりを持つことが有利であったことと、アンの父でクレーフェ公ヨハン3世がプロテスタントであったことが主な理由でした(クレーフェ公国自体はカトリック)。
クレーフェ側では、1527年(アン12歳)に成立したアンとロレーヌ公国の次期継承者フランソワとの婚約が、成立から10年間解消されたり再成立したりと紆余曲折の中にありました。1537年からアンを4番目のヘンリの王妃にという話は持ち上がっており、途中で頓挫しかけたものの、1539年夏の終わりに無事話がまとまりました。
このロレーヌ公の息子との婚約については、クレーフェ公国の大使が婚約破棄の文書を持ってくるのを忘れてしまったため、ヘンリとの結婚の直前に、きちんと婚約破棄されているのか、アンがフランソワの妻だったことはないかということが問題になります。加えて、ヘンリは「処女は細いはずなのにアンは人妻のようにふくよかだ!フランソワの妻だったのではないか?」と非常に失礼な疑いを持ち始めます。
結局アンが自分はフランソワとは結婚していないと公証人付きで宣誓し、当時の外交状況からクレーフェ公国との関係強化が急務だったため、ヘンリは渋々結婚話を進めることにしました。
アン・オブ・クレーヴズのパート
国王からの拒絶
アンとヘンリは1540年1月に結婚し、王妃としてアンは様々な行事に出席しました。しかし、それから5月まで、ヘンリは側近のクロムウェルに、アンとの結婚を完全なものとできていない(=性交ができていない)ことをたびたび相談しています。アン自身もクロムウェルに相談しようとしましたが、クロムウェルはアンの侍従長に任せ、ヘンリに対してもっと愛想よく振舞うよう、侍従長からアンに助言させました。ヘンリの不能を疑う者はおらず、アン自身は夫に満足していると実家に書き送っています。
しかし、ヘンリがキャサリン・ハワードとの関係を深めていたこと、外交状況の変化からもはやクレーフェ公国との同盟関係が不要となっていたことから、ヘンリは結婚無効に踏み切ります。理由は結婚が完全なものとならなかったことです。研究者の中には、アンが他の男の妻なのではないかという疑念をヘンリがぬぐい切れなかったという、心因性の性的機能不全を指摘する人もいます。ヘンリの法務官は、アンに対してのみの性的不能を主張しようとしました。この主張はアンが魔女とされてしまうリスクをはらんでいました。結局、結婚無効の公的な理由は、ヘンリが、アンとロレーヌ公の息子との契約が完全に破棄されることが確認できるまで結婚の完了を控えたのであり、そもそも結婚もしぶしぶであった、というものでした。
その後実際に結婚が完了していないのかについての調査が始まります。アンの侍女たちは、アンが「どのように結婚を完遂させたらいいのか知らない」と自分たちに話したと証言しました。しかし、アンが1月にはクロムウェルに相談しようとしていたこと、アンの英語は初歩的なレベルであったことなどから、この証言は結婚を無効にするためになされたものである可能性が高いと言われています。
7月9日、アンとヘンリの結婚は無効と宣言されました。代わりに彼女は王の妹という立場を手に入れ、新しく自身の暮らしを構築するにあたっての8000ノーブルの手当てと、二つの荘園を生涯にわたって保持する権利をもらいました。さらに、ヘンリの将来の妻と彼の子供たちに次ぐ地位を認められます。ただし良いことばかりではなく、クレーフェ公国に送る手紙はすべて監視されることとなりました。
この結婚の失敗で、ヘンリの右腕だったクロムウェルが処刑されました。罪状は異端と反逆罪ですが、理由の一部は、ヘンリの許可なく国王のベッド事情というデリケートな話をアンの侍従長にしたことだと考えられています。また、宗教改革を進めるクロムウェルを失脚させるため、カトリック勢力が関与していたとも言われています。
リッチモンドの煌びやかな宮殿
遡って6月20日、アンはヘンリが自分の侍女キャサリン・ハワードと浮気していることを知ります。4日後、彼女の相談相手でも会ったクレーフェ大使に、リッチモンド宮殿に移らざるを得なくなったと伝え、キャサリン・オブ・アラゴンのようになってしまうのではないかと恐れていることを打ち明けました。リッチモンド宮殿とは、ロンドン中心部から少しだけ離れたところに、リッチモンド伯であったテューダー朝の開祖でヘンリ8世の父、ヘンリ7世が建設したものです。このころの宮廷は1か所にとどまらずに一定期間で移動していましたが、リッチモンドもよく使われていました。現在でも建物の一部が残っています。
一生かけても使い切れないお金
アンがもらった8000ノーブルは、当時の熟練職人のなんと243年分の賃金に相当します。一般庶民から見ると凄まじい額ですね。その後もアンは何度かヘンリから金銭を与えられたり、荘園から収入を得たりしています。
しかし元王妃で公女であるアンの生活を維持するには足りなかったようで、ヘンリの子供たちの治世になると、経済的に苦しい状況に陥っていました。ジェーン・シーモアが産んだ息子エドワード6世の政府には何度も経済支援を求めています。アンからの手紙で苦境を知った弟がイングランドに使節を派遣し、エドワード政府に姉への支援をかけあってくれたりもしました。
また、エドワードの夭折後に即位した、キャサリン・オブ・アラゴンが産んだ娘メアリ1世にも支援を求めています。アンとメアリは宗派が異なることもあり、決して良好な関係とは言えなかったことを考えると、いかにアンが困窮していたかが伺えます。アンが最後に公的な場に現れたのはこのメアリ1世の戴冠式でした。
宮廷へ
ヘンリとの結婚無効後も、アンはたびたび宮廷に招かれて赴いています。キャサリン・ハワードとも良好な関係を築いており、ヘンリを交えて3人で食事をすることもあれば、キャサリンと二人で食事をすることもあるほどでした。キャサリンからアンに指輪や子犬の贈り物をしたこともあります。キャサリンの失脚後、アンはヘンリとの再婚を望んでいました。周囲では、アンがヘンリの子を妊娠しているという噂もありました。
しかしヘンリはアンからの便りに返事をしなくなり、キャサリン・パーと結婚しました。キャサリンとの結婚後、アンと仲直りをするためにヘンリはアンを宮廷に招き、食事をしました。その後、ヘンリはアンにさらなる荘園と経済的支援を認め、何度か宮廷にも呼びました。アンもヘンリに贈り物をするなど良好な関係を維持しました。ヘンリの死後、アンはイングランドで疎外感を抱くようになり、クレーフェに帰りたいと弟に手紙を書いています。1557年7月、チェルシーの住居でなくなり、ウェストミンスター寺院で葬儀と埋葬が行われました。