SIX the Musicalをもっと楽しむための歴史背景解説①
今回は、知っていればミュージカルSIXがより楽しめる歴史背景を、歌詞に出てくるポイントをピックアップしながら曲ごとに解説していきます。
歌詞は私自身が訳したものを使うので、良ければこちらのマガジンを一緒にご覧ください。
今回はEx-Wives、キャサリン・オブ・アラゴン、アン・ブーリンの3曲です。
Ex-Wives
ショーのオープニングナンバーです。各クイーンの細かい点はそれぞれの持ち曲で書くので、ここでは2点だけ解説しようと思います。
テューダーローズ
'Every Tudor rose has its thorn'(それぞれのテューダーローズにはとげがある)という歌詞があります。テューダーローズとは、6人の王妃たちの夫であるヘンリ8世をはじめ、1485~1603にイングランドを統治したテューダー朝の紋章です。
![](https://assets.st-note.com/img/1737977363-pBwUGYzHT3i1Qv25ZjOD4btN.png)
赤バラと白バラを組み合わせたこの紋章は、もともとテューダー家の紋章ではありません。赤バラはランカスター家、白バラはヨーク家という王家の血を引く貴族の家の紋章です。15世紀、王位をめぐって両家が争い(ばら戦争)、ランカスター家のヘンリ・テューダーが勝利してヘンリ7世(在位1485~1509)として即位します。その際、ヘンリはヨーク家の娘(ヨーク朝では王女)と結婚し、両家の統合の証として赤バラと白バラを組み合わせた紋章を新たにテューダー家の紋章としました。
ヘンリ7世の次男として生まれたのがクイーンたちの元夫ヘンリ8世(在位1509~1547)です。ヘンリ7世の長男に関してはキャサリン・オブ・アラゴンの曲の中で説明します。
この歌詞では、バラに喩えられることも多い女性を単なるバラではなく、テューダー朝の紋章であるテューダーローズに喩えていて、おしゃれな歌詞だと思います。
ルネサンス
'Like it's the Renaissance'(まるでルネサンスのようにね)という歌詞です。ルネサンス、一度は聞いたことある方も多いのではないかと思います。15世紀末から始まった、古典古代の文化芸術復古運動です。Re(再)naissance(生まれる)という字面通り、古代ローマ・ギリシアの文芸を再生させるという動きでした。
イタリアから始まったこの動きは主に西ヨーロッパ各地へ広がり、音楽、絵画、彫刻、文学、思想、宗教、様々な側面に影響を与えました。ヨーロッパ大陸から切り離されているブリテン島も例外ではなく、イングランドではヘンリ8世自身が率先してルネサンス的教養を身に着けていました。ラテン語に加えてギリシア語も読みこなし、古代の思想家に精通し、音楽にも長け、天体観測が趣味の一つでもありました。
SIXの時代は「近世 early modern」と呼ばれることも多い時代です。主に16~18世紀を指します。ルネサンスは近世の幕開けとして伝統的に位置づけられており、歌詞の文脈はもちろん、オープニングナンバーに織り込まれる単語としてとてもぴったりだと思います。
キャサリン・オブ・アラゴンのパート
アーサー
前振りの台詞で「アーサーという王子様と結婚するためにスペインから来たけれど、そのアーサーがすぐに死んでしまい、7年間拘束された」という部分があります。
アーサーとはヘンリ7世の長男でヘンリ8世の兄、将来イングランド国王になるはずだった、当時の王太子です。スペイン王女であったキャサリンは、イングランドとスペインの同盟関係のために、イングランドへ王太子妃として送られることになりました。
しかし、婚礼を挙げてすぐアーサーは病気で死んでしまいます。通常であればキャサリンはスペインへ返されるはずでしたが、ヘンリ7世がスペインからの莫大な持参金を手放すのを拒み、また、スペイン側もイングランドからの軍事的支援を期待していたこともあり、キャサリンはイングランドに留め置かれます。一時はヘンリ7世自身がキャサリンと結婚する案まで飛び出しましたが、結局、キャサリンは夫の弟ヘンリと婚約することになります。本来、兄嫁との結婚(=性交渉)は聖書のレビ記の教えに反していますが、キャサリンとアーサーには夫婦関係がなかった(=性交渉がなかった)ために二人のの結婚は成立しておらず、キャサリンとヘンリの結婚は問題がないとされました。この時、ヘンリ7世の三男エドマンドもすでに死去しており、王子はヘンリのみとなっていました。彼にイングランドの行く末がすべてかかっていたのです。
1509年の夏
1509年はヘンリ8世の即位年です。キャサリンとヘンリは、ヘンリ7世の在位中に結婚することはありませんでした。カトリック教会のトップであるローマ教皇からの表立った正式な許可が下りなかったことや、スペインからの持参金の一部が未払いであることから、ヘンリ7世が二人の正式な結婚を渋っていたからです(キャサリンの母でスペイン女王のイザベルが、当時の国際情勢でのスペイン優位を武器に教皇に圧力をかけ、非公開の条件で出してもらった特免状を公開し、既成事実化はしていました)。
1509年4月21日、ヘンリ7世が崩御し、王太子ヘンリがヘンリ8世として即位しました。6月11日、キャサリンとヘンリは結婚式を挙げ、その後キャサリンはイングランド王妃として戴冠されます。
夫婦仲はよく、キャサリンはヘンリから政治的にも信頼されており、ヘンリが軍事遠征に出た時には代わりに王国を取り仕切りました。しかし、度重なる流産と死産が二人の関係を変えてしまいます。
結婚無効と浮気相手
「浮気相手」はもちろんアン・ブーリンです。ヘンリには多くの愛人がいましたが、キャサリンとの結婚無効にまで踏み込んだのはアン・ブーリンのときだけです。
結婚無効は、離婚とは異なります。カトリックでは神に誓った結婚契約を破る離婚は禁止されていました。ではどうしても離れたくなったらどうするのでしょうか?結婚無効、つまり「結婚関係がそもそも成立していなかった」ということにするのです。キャサリンとアーサーの結婚は、夫婦関係がなかったため結婚が成立していなかったとされました。
キャサリンとの結婚無効のために、ヘンリはこれをすっかり覆そうとします。キャサリンとアーサーには本当は夫婦関係があったため、兄嫁との結婚を禁ずる聖書に反するとして結婚無効を主張したのです。かなり無理筋ですよね。ヘンリは教皇に結婚無効の特免状を出すように頼みます。しかしこの時、ローマは神聖ローマ帝国軍に包囲されていました。神聖ローマ皇帝はキャサリンの血縁です。神聖ローマ皇帝の気分を害するようなことはできませんでした。この結果ヘンリは宗教改革へ突き進むわけですが、それはアン・ブーリンの持ち曲の時に紹介します。
結婚指輪もない誰かさん
'even though you've had one son with someone who don't own a wedding ring'(結婚指輪もない誰かさんとの間に息子がいようと)という歌詞があります。これは、ヘンリの愛人の一人エリザベス・ブラントのことです。地方の地主の娘で、キャサリンの侍女としてヘンリと出会い、愛人関係になりました。エリザベスとヘンリの愛人関係は他の愛人に比べると長く続き、エリザベスはついに息子を生みます。この子はヘンリが唯一認知した庶子で、ヘンリ・フィッツロイとなずけられました。フィッツ(息子)ロイ(王)と、名前からヘンリ8世の息子であることをアピールしています。
このときヘンリの嫡子はキャサリンが生んだ王女一人しかおらず、男子誕生を待望していました。しかし日本の側室システムとは異なり、カトリック圏では正妻の子どものみが継承権を持ちます。したがって、どう転んでもヘンリ・フィッツロイは跡継ぎにはなれません。それでもヘンリ8世は、彼を自分の父ヘンリ7世の爵位であったリッチモンド伯にちなんでフィッツロイをリッチモンド公に叙すなど破格の待遇を与えます。この子が嫡子であれば、という強い思いが感じられますね。
彼はアン・ブーリンとキャサリン・ハワードの従姉妹であるメアリ・ハワードと結婚しますが、子供がいないまま1536年、父のヘンリ8世よりも先に17歳で死去しました。
メアリ
キャサリンとヘンリの間に生まれ、唯一成長した王女です。メアリが生まれた時はヘンリも非常に喜び、多くの称号や自分が若いころに担当したポストを与えたりしました。
イングランドでは女性にも継承権が認められていましたが、女王が実際に統治したことはありません。女王の前例自体は12世紀前半に一度だけありますが、対抗して王位を主張した男性君主との対立からイングランドは内戦に陥り、実質的に統治を行った期間は数か月間だけでした。
さらに、テューダー朝は王位をめぐる貴族間の争いに勝利して始まった新興王朝です。しかも初代ヘンリ7世は傍流であり、元をたどれば母方は王位継承権を認められておらず、父方はイングランド王家とは何の関係もない家系です。血統的正当性が非常に微妙でした。というか正直ほぼありません。内戦に勝ったから即位できたのです。そのためヘンリ7世は即位後国内の王位継承権を持つ貴族やライバルをどんどん粛清しました。
数百年前に内戦をもたらした女王の前例は、不安定な王朝が女性君主の統治を迎えるための安心材料にはなりませんでした。このような状況のなか、ヘンリは息子を切望し、アン・ブーリンを見出したのでした。
最期の時まで王妃でいるわ
最期のサビで 'I'll be queen 'til end of my life' という歌詞があります。
「結婚無効」の動きが進まないなか、ヘンリ8世は宗教改革を断行し(アン・ブーリンの個所で詳説)、教皇の影響圏から脱します。1531年夏、キャサリンはヘンリとの別居を余儀なくされ、娘メアリとも引き離されました。1533年1月にヘンリはアン・ブーリンと結婚します。この期間、神聖ローマ皇帝はオスマン帝国とのにらみ合いの中にあり、キャサリンを助ける余力がありませんでした。5月、キャサリンとヘンリの結婚無効が宣言されました。
キャサリン自身もカトリック教会も結婚無効を認めませんでしたが、ヘンリはキャサリンを故王太子アーサーの未亡人として扱い、称号も「イングランド王妃」から「王太子未亡人」に改められました。娘メアリの王位継承権も剥奪され、庶子とされてしまいます。
1536年、失意の中キャサリンは死去します。死の数日前にヘンリに宛てて書いた手紙の最後には「イングランド王妃キャサリン」と署名されていました。彼女の王妃としての矜持が感じられます。
アン・ブーリンのパート
あのもう一人
前振りで、'who was that other one?'(あのもう一人って誰だったかしら?)というセリフがあります。ここはおそらく映画/小説『ブーリン家の姉妹』(原題:The Other Boleyn Girl)をもじっていると思われます。アン・ブーリンを主人公に、同じくヘンリ8世の愛人となり子供も産んだと言われているアンの姉妹メアリ・ブーリンの半生も併せて描く物語です。映画ではアンはナタリー・ポートマン、メアリはスカーレット・ヨハンソンが演じ、他にも現在では非常に有名になった役者が勢ぞろいした作品です。
アン・ブーリンは6人の王妃の中でも解釈の幅が非常に広い人です。存命中から死後、その後500年間を経るなかで、稀代の悪女からDV被害者、自立した意志ある女性まで、その時々の状況の中で様々な女性像が仮託されてきました。その変遷を追うだけで1冊の本ができるほどです。ぜひアン・ブーリンを扱った他の作品にも触れて、いろいろなアンに出会ってみてください。
フランス宮廷育ち
アンは幼少期に父親の仕事の都合でベルギーに滞在し、メレヘンで教育を受けました。年齢に対してとても賢い子であるとの評価が残っています。その後フランス宮廷に出仕し、王妃クロードに仕えました。フランスは当時のヨーロッパにおいて神聖ローマ帝国と覇権を争う中心的な王国であり、政治的、文化的中心地でした。アンと王妃クロードは年齢も近く、親しく仕えて着実に力をつけていました。しかし、イングランドとフランスの外交関係が悪化し、アンはフランス宮廷を去ることをよぎなくされます。
イングランドに帰国したアンは、王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となります。アンの容貌は、金髪でふくよかであった姉妹メアリと比べて黒髪でやせ型であり、当時の価値観においては美人の基準に当てはまらなかったと言われていますが、持ち前の聡明さ、フランス宮廷で身に着けたウィットや振る舞いが彼女を魅力的にしたと言われています。そんなアンにヘンリは惚れ込みました。
毎日メッセージを送り続けてくる
ヘンリはアンに大量のラブレターを送っています。それらの手紙は本にまとめられ出版されています。現在ではネットで「love letters from Henry VIII to Anne Boleyn」などと検索すれば、有志の歴史愛好サイトに掲載されているのを読むこともできます。
C of E〔イングランド国教会〕始動
教皇からキャサリンとの結婚無効をなかなか認めてもらえないヘンリは、大陸で吹き荒れている宗教改革の嵐を利用します。宗教改革とは、平たく言うとローマ教皇の権威やカトリックの教えを聖書から逸脱した後世の虚構とし、それらが構築される以前、つまりイエス・キリストが生きていたころの原始の教会の姿に戻そうという運動です。「改革」というと新しいものを作る動きを想像しがちですが、近世の人々にとって「新しい」は必ずしも良いことではありません。ルネサンスの精神からもわかるように、古ければ古いほど、始まりの形に近ければ近いほど良いとされることが多いです。
教科書的には、1517年ルターの「95か条の論題」から宗教改革は始まります。そこからメランヒトン、ツヴィングリ、ブリンガー、カルヴァン、ブッツァー、ノックスなどなど多くの宗教者が出てくるわけですが、彼らの主張は一枚岩ではありません。共通しているのはローマ教皇の権威を認めないということぐらいで、どの程度カトリックの教えや礼拝の仕方を否定し、異なるものを取り入れるかには幅広いグラデーションがありました。
そのグラデーションの中で、ヘンリがローマ教皇の権威を否定して立ち上げたイングランド国教会は限りなくカトリック寄りのものでした。大陸の宗教改革は聖書の解釈と実態の違いから始まったのに対し、イングランドの宗教改革は国王の離婚問題(=跡継ぎ問題)という政治的な課題を解決するために始まったという違いが大きな理由の一つです。ここには離婚問題だけでなく、教会法(結婚・結婚無効も含む)や教会人事、教会裁判所など、教会・教義に関する領域では、教皇が介入することができてしまうという問題もありました。国王としては、自身の王国の政治に遠くローマから口出しをされるのは気持ちの良いことではありません。
以上のような政治的・行政的課題を解消するために始まったのがイングランドの宗教改革でした。ヘンリは国王がイングランド教会の長であるとし、さらなる上位権力の存在を否定することで、イングランドの教会関係のことを司る権限を得ました。そして1533年5月、ヘンリはイングランド国教会の首長としてキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚無効を宣言しました。
同時に、ヘンリはローマ教皇から破門されます。歌詞でも 'Ex-communcated'とありますね。中世では破門されると人生が詰んだも同然でしたが、宗教改革の嵐が吹き荒れる現在、それほど大きなダメージはありませんでした。
こうしてイングランドはローマ教皇に抵抗する陣営(のちに抵抗=Protest勢力としてプロテスタントと呼ばれるようになります)に入ったわけですが、ヘンリ治世では教義の改革はほとんど進みませんでした。というのも、ヘンリはプロテスタントになることが目的ではなく、政治問題を解決するための手段としてプロテスタントになったためです。ヘンリ自身の信仰は、死ぬまでカトリックに近かったと考えられています。
しかし、修道院解散などいくつかの抜本的な改革も行います。もちろん反対勢力もおり、とりわけイングランド北部では「恩寵の巡礼」という反乱がおこります。歌詞でも 'Caused a commotion' と言及されています。
アン自身はフランス宮廷にいたころに福音派(ローマ教皇よりも聖書の言葉を重んじる人々)との親交を深め、自身も福音派となりました。王妃になる前から積極的に聖書を従来のラテン語ではなくフランス語で読み、当時はまだ禁止されていた英語聖書も所持していました。福音派の聖職者がイングランドの教会でポストを得られるよう手助けをしたり、ケンブリッジ大学とのつながりを利用して教育面での福音派推進にも取り組んだりました。また、修道院については完全な解体ではなく教育施設として残すべきとの考えを持っていました。他には、貧民救済にも関心を持ち、個人的にも慈善活動をしていたのに加えて、ヘンリ8世の右腕であったトマス・クロムウェルに提案する貧民救済政策にも関与していました。
アンの処刑
アンは、姦通罪、近親相姦罪(不倫相手の一人が実の兄とされ、彼も処刑されました)、魔術の罪など複数の罪で処刑されました。現在では、アンを排除するためにでっちあげられた冤罪であるという見方が優勢なように思います。
当時のイングランドの処刑は斧での斬首でしたが、アンの処刑では当時イングランド領であったフランスのカレーから死刑執行人が呼ばれ、フランス式に剣で斬首されました。これはヘンリからの「慈悲」だったと言われています。