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選択的ひとりっこ

20代前半までは「彼氏は?」と聞かれ、
20代後半には「結婚は?」と聞かれ、
28歳で結婚すると「子供は?」と聞かれるようになった。
32歳で息子を産んでからは「ふたり目は?」と聞かれ、その後はあらかた「ひとりっ子でかわいそう」と続く。

わたしは多子世帯で育ち、そして貧しかった。兄がふたり、私、妹の4人兄妹で、確かに賑やかで寂しくはなかったけど、「貧しかったけどあの頃幸せでした!」みたいな大家族の話を聞くと、えぇ〜、そんな世界ほんとうにある?と本気で思う。

多子なのと貧しかったことだけが理由ではないが、希望の進路は最初から口に出すこともなかった。手に入る物の方が少なすぎて、物欲のない人間になった。他の誰かと比べられる物など持っていないから、嫉妬心もない。お金もないのに子どもをたくさん産んだ両親のことを内心バカにしていた。3歳上の長男は軽度の知的障害があり、中途半端な障害なものだから「なんかキモくてやばいやつ」という扱いで、物心ついた頃からずっといじめられていた。最近ではきょうだい児と呼ばれるらしい私やふたつ上の兄も、長男を知る人たちからバイキンのように接された。てんかん持ちの兄が発作を起こして死ぬ夢を見ては、悲しみもなく目が覚めた。「兄弟さえいなければ、なんて思ってはいけない」と思いながら大人になった。

18歳で家族と離れ、好きな仕事をし、兄弟のことを誰も知らない場所にきてやっと、自分の人生を歩み始めた気がした。性格もずっと前向きになった。
4人兄妹で過ごしていた頃の私は、自信がなく、卑屈で、なんだか「かわいそう」だった。

家族から離れ20年ほど経ち、次は自分が家族を運営する側となった。子をひとり持ち、働き、夫と3人で暮らしている。
そこで冒頭の「ふたり目は?」である。
我が子を愛してはいるのだけど、もともと"子供”が好きなわけでもない。子育てという作業についてはもっと得意ではない。育った環境も手伝って「ふたり目、ほしいわけないじゃん。」なのだが、子供が生まれてから「ふたり目がほしくない」と思ってはいけないという意識がどこかにあって、いつも「そうですねぇ〜」とへらへら答え、そのあとはだいたい落ち込んだ。

ある日、同級生の中でもひとりっ子が少なくなってきた5歳の息子から「妹が欲しい」と言われた。我が子に投げかけられ、私はやっときちんと答えを探した。「ママはこれくらいの大好きをあなたに渡せるのだけど、妹ができると、この大好きを半分こずつ渡すことになるかもしれない。ママはこれをぜんぶあなたに渡したいから、妹は欲しくないんだよ」と話した。自分はそれだけの愛情を独占しているのだと理解したのか、息子はにんまりし「そっか」とだけ言った。息子には「大好きを渡す」と言ったが、これは「お金」だったり、「時間」だったり、「キャパシティ」だったり、私が彼に提供できるすべてを含む。
国家としてふたり以上産んだ方が良いことは理解するし、ごめんなさいとも思うが、私の持分は1人で勘弁してくれ。「兄弟がいると楽しい」としかイメージできない人は幸せそうで何よりだ。
息子とこの話をしてから自分の中でもすっきりして、「ふたり目は?」と聞かれても何とも感じなくなった。適当にヘラヘラできる。

世の中には色々な事情の人がいて色々な価値観があり、それぞれの価値観で会話をする。「ふたり目は?」を聞ける人は「そうなの、考えてるんだよね」以外の答えがあると恐らく思っていないので、まともに答える必要もないと思っている。「ふたり目、死んだんだ」とか「産みたくても産めないの」とか「私の兄が障害者なので次に生まれる子が障害児だったらどうしよう?」と言われるなんて想像もしていない。

ある日、保育園にお迎えに行くと「ぼくは、友達がたくさんいて10人家族なんだ!」と息子がお友達に自慢げに叫んでいた。兄弟がいなくても、大家族にもなれる。


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