見出し画像

“不幸の星の下に生まれる”

“不幸の星の下に生まれる”ということばがある。不幸なできごとばかりが起こる悲しい運命にある、といったことを指すのだろうが、わたしはこの言い回しがあまり好きではない。日本のような平和な国における不幸の多くは、動かすことのできない「さだめ」などではないのではないか。

自己紹介がてら、わたしの人生の前半にやってきた不幸の星屑たちを、ちょっと渋滞気味なのだが紹介する。主なコンテンツとしては、親の暴力とメンヘラ、貧乏と自己破産(まぁこれはだいたいセット)、宗教、兄の知的障害である。

父は高圧的で気性が荒く、家の中ではいつも怒声が響いていた。母は黙らされ、言うことをきけない子どもやガリガリの祖母までも容赦なく殴られた。もちろん貧乏で、外との境界が曖昧な古いトタンの家に暮らしていた。
4人兄弟で、わたしは3番目。一番上の兄は水頭症という脳の病気で軽度の知的障害があるようだったが、福祉につながることもなく、普通学級に通わされていた。ようやく障害者認定を受けたのは成人し親元を離れてからだった。

出来の悪い兄に責任を感じた母は教育熱心で、貧乏なのに高額な学習教材が一式揃っており埃かぶっていた。教祖様が念を閉じ込めてくれた”エスパーシール”は、患部に貼ると良くなると言われ、兄の頭や家電などあらゆる場所に貼られていた。
無理に普通学級に通っていた兄は、みんなと比べると明らかにバカでキモいとのことで、2番目の兄もろともいじめのターゲットにされていて、わたしもバイキンのように接されることがあった。わたし自身も適切なコミュニケーションができず人間関係で度々つまずいた。
こうして書くと、どんよりと笑顔もなく暗くて不幸な暮らしをイメージするかもしれないが、家の中で笑いがおきる日もあったし、流行の歌を歌って踊ったり、母と兄弟でファミレスに行ったこともある。何より、私は母が大好きだったし、ただ、そこに用意された日常を生きていただけだった。

中学生になると父は、私が着替えていると部屋に入ってきたり、胸が大きくなったナぁとニヤニヤして言ってくるようになる(暴力だけにしてくれ)。社会と家庭とのギャップに気づきだしたわたしが理不尽に立ち向かうようになると、父の暴力は悪化していく。憲法で子どもの人権が保障されていること、男女は平等であることを知り、泣いて訴えたが鼻で笑われた。地べたに正座させられて何十分も罵倒され蹴られたり、腕をぐるりと捻られて靭帯が伸びてしまったり、髪を掴んで引き摺り回されるなどといった感じで、生死にかかわるようなことはなかった(それも腹立つ)。気のすんだ父が部屋を去ったあと、ひとり腕を切っては、死ぬ勇気も、外に助けを求める勇気さえもない自分に幻滅した。

メンタルが安定していなかった母は(この環境で安定するわけがないが)、家の外で子どものようにわんわん泣いていたり、お金も行くあてもないのに家出することもあった。高校3年生の春、ついに母と兄とわたしと妹で暮らす2Kのアパートを借りて家を出た。学校が終わってから22時までの週5のアルバイトでお金を貯め、友人の親に保証人になってもらい生まれて初めて暴力も怒声もない、4人で暮らすには多少狭いけれど、"普通"と思える家を手に入れた。
夏休みに入り、わたしが扁桃腺の手術のために2週間ほど入院すると、退院3日前に面会に来た母から「やっぱりお父さんと一緒に暮らそうと思う」と告げられ、退院するとすでに引っ越しが終わっていた。

わたしは高校卒業のタイミングで、当然のように就職し家を出た。これ以上、家族に付き合っていられないと思ったが、わたしが家を出て2年もたたずあっさり離婚している。もしかすると父と母は、わたしを悪者にすることで絆を深めていたのかもしれない。離婚と同時に、それまでに膨らみ続けた借金はどうにもならず、両親と、いつの間にか保証人にされていた障害を持つ兄の3人ともに自己破産し、それぞれの人生をリスタートした。

ここまでがひとまず18歳までの不幸の星の渋滞模様。
冒頭で不幸の多くはさだめなどではないと書いたのは、わたしの身に起きた不幸には明確な原因があったからだ。ブラックホールのような父が、社会や家族と折り合いをつけることができず、次々と不幸を引き込んでしまっている。そして、わたしたち家族が無知で、社会との接点が少なく、うまく抜け出すことができなかった。ただそれだけの話だ。運命と呼べるほどのドラマチックさはない。

18歳で家族と離れたわたしのもとに、これまで渋滞のせいで通行できなかったのであろう幸せな星屑たちがやってくる。……わけでもなく、愛情や適切な生きる術を学ばずに社会にでてしまったわたしは、はたしてなかなか"普通"の生活に辿り着くことはできなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?