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答えではなく、ヒントにしかならない〜制作側の解釈と観客の解釈について〜

昨日の上映は21時スタート予定の69分、想像以上の来客によって
受付がパンクして、カモメンタルのマキオさんが
受付を手伝ってくれた。感謝。

結果4分押しで始まって、自分は後ろの席で遅れて入って見てた。

静かだった。
静寂の緊張感があった。
Qは音が少ないから、観客は映像そのものを見入るように見ていた。
その真剣な背中から緊張が増幅して私に伝わっていた。

PCで編集をした色味と
スクリーンに映った時の色味に大差はないか
初見で理解はできなくても、伝わってくれてるかな。

そんなことを思っていて数分
気がつけば自分も一観客に。

上映が終わり、自然と会場から拍手の音が聞こえた時
なんだか肩の力がふっと抜けた。

トークイベントを40分近くしたのかな。
内容の大部分は質疑応答。

自分が一番楽しみにしていた時間。

鋭い質問がたくさんきた。
嬉しい。
分かりやす言葉だけでは回答できない質問もあった。

そこでみんなが自分の解釈が合っているのか
分からない部分を聞いてくる。

精一杯答えるたび、作り手としての解釈の正当性が
観客側の解釈を塗り替えてしまう、胸の奥から軋んだ音が聞こえる。
これは結構痛いんだな。

そこで、一つ。

ちゃんと言えてなかったことがあったのでこのnoteに書こうと思う。

映画の解釈の話。

前提として制作者側には意図がある。
だから作った側の気持ちが正しい。
小学生の国語の時間みたいに「この時の筆者の気持ちを答えなさい。ABCD〜♪」
ってやつだな。

でも、映画には答えはない。
答えがないものには正解はない。
だから
<正解ー不正解>

<浅い(表層)ー深い(本質)>

の地平に移行する事になる。

そうなるとどっこい、作品を見ている僕も観客だから。
そのスクリーンに映る作品をちゃんと理解できている自信なんて毛頭もない。
自分なりの解釈はある。と言えるが、それが深い解釈かどうかは分からない。

観客の方がもっと深い解釈や感覚を持っているかもしれない。
これは全然ありうる。

だから、主人公の気持ちはこうだったんじゃないかなー
くらいの感じまでしか言えないんだな。

私も観客の一人なんでね。

作品と親子関係

自分の感覚だと、作品と作者の関係は
子と親の関係に近い。

親からしたら子はいくつになっても子供。

でも、親が子供の友達に、子供の知らない側面を教えてもらうと
「あっあの子はそんな子だったんだ、私の知らない部分がたくさんあるのねー」
と思うように、その経験が増えてくれば来るほど、その子はどんどん遠くなっていく。
それで親は子をいい意味で手放す。

だから、私にとっての「もっとも純粋なQ」に対する様々な解釈や意見は
私の知らない彼を教えてもらうことであって

”私はこのように教育しましたが、それが実際にそのようになっているかは分かりません。むしろ、私の目の届かないところでの友人関係や失恋や、様々な経験がその子を作ったのであって私は、その子を産んだという事しかしていません。”
という態度に近しい。

「もっとも純粋なQ」に置き換えれば、あの作品を観衆の前に出したところまでで親(真田監督)の役目は終わる。

あとは、作品が自然に他者の解釈の海を泳いでいくしかない。
親は、子が帰って来た時にどんな姿であったとしても「おかえり」と言ってあげるだけでいい。

私と「もっとも純粋なQ」の関係も同じである。
だから、「もっとも純粋なQ」に対するスピンオフ的なストーリーや、想像はあなたが作って欲しい。

映画のスクリーンはただの映像であって、そこに観客が意味を見出していく芸術だ。
だから映画はスクリーンに観客から見出された意味の集合体なんだな。

そして制作者は作品を意味の基準をある程度大まかに決める特権を持つ観客の一人だ。

だから作品はみんなが主人公になっていろんな色の意味をつけてあげて
初めて成長できる。
だからどうぞ自由に、あなたの「もっとも純粋なQ」を作って欲しい。
分からない部分は聞けばいい。聞いても大丈夫。

それは答えではなく、ヒントにしかならないから。

そのことをもっと、質疑応答の前に明確にいうべきだったなと。
少し反省しながら

この文章を書いている。

カネコアヤノを聴きながら。


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