芸術が惨めなことを救うだろうか。「一室」 田山花袋[録弥] を読んで (青空文庫コラム)
(あらすじ)
李という男を頼りに、私たちは支那の妓の見定めに行った。
『暗い狭い汚い一室に』汚いなりの女の子。
「『こんなものが相手になるかね?』」
「『それでは歌わせますか』」
『哀愁を込めた旋律が』、『漂ひわたった』
[『』内、「一室」より引用 以下同様です。]
(感想)
「私」たち、つまり男たちは、そんなに期待しておりませんでした。部屋も女の子もみすぼらしかったのです。
でも、このまま帰るのもつまらない。よく、買い物に行って欲しいものはないけれど、手ぶらで帰るのもなんだか、拍子抜けだから、何かをとりあえず買う、ってありませんか? そんな心境だったのかもしれません。
しかし、妓の歌はすばらしかったのです。男たちは支那特有のものだと、ほめそやします。ここではお酒もなかったのですが、『酒よりもかうした歌の方がもっと蠱惑的だ。……もっともっと肉体的だ』。
妓はもう一人いて、感極まった日本人客はその子にも歌を所望します。
その人は楽器を持ち演奏しました。センチメンタルな旋律。
私は泣くのです。
思うのですが、芸術とはそれをする人の魂の表出だと思います。
ぼくは、作者の田山花袋の時代の支那という国の芸妓の事情は知らないけれど、やはり、実家がたちいかず親から売られた、というような事情を思います。彼女たちは少女です。そんな年頃が流行っているらしい。いちばん、感じやすい年頃だと思います。そんな子たちが、自分の自由にならない人生をその悲哀を、歌や楽器に託して、表現する。
むろん、人には自分だけでは持ち堪えられないことがあるから、吐き出すのではないでしょうか。それは、人によっては芸術ではなく、罵声や暴力、または、逆転して誰かへの優しさとして現れることもあるでしょう。
傷ついた分だけ優しくなれる、それは、良い言葉ですが、誰彼にも優しいわけでもなく、自分の憎しみを喚起する相手には人一倍恐ろしいこともあると思います。そういう意味では、芸術として喚起することは、一番人間として素晴らしいやり方だと思います。
たとえ、憎い相手とはいえ、その人の不幸を願わない人もいると思います。とても気高い人ですね。でも、そうならば、自分が苦しむしかない。それを、芸術として昇華する……。むしろ、迫害される少数民族の祭りなどはこのような部分が大きいと聞いたことがあります。
ぼくたちは、自分がどのような心理状態であれ、今日を、明日を生きなければなりません。
復讐は連鎖します。あなたが攻撃すれば相手はまたは相手に好意的な人が、あなたをまたはあなたの周りの人を攻撃するでしょう。お互いが滅びるまで争うしかなくなります。
でも、復讐したいほどの憎しみをどうしたらいい? 我慢して夜な夜な、煩悶する?
芸術にぶつけよう。詩に小説に絵にボカロに。
それでもあなたには毎回のように苦しみが思い出されます。それでも、それだからこそ、ぶつけ続ける。そんなとき、あなたは心が開放されているのを感じているはずです。
この先に、癒しがあるのでしょうか? それはぼくにもわかりません。それはたぶん、あなたが、人間としてどう生きていくかということに強く結びつくと思います。復讐をする人が、心穏やかに老後を迎えられるとは、それは、ぼくは難しいと思うのですが、それは、ぼくの価値観ですが。
そうです。この短編小説「一室」の少女たちは芸術で苦しみを解放することで、「生きて」いるのです。
人間は、「生きる」べきです。悔しさすらも、憎しみすらも、あなたが美しく生きるように。
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