ショートショート『無期限記憶障害症候群』
「あなたはわたしの夫です」
その若い女性は思い詰めた顔で僕にそう告げた。
近くのテーブルの人達がギクリとした表情でこちらを盗み見る。病棟の談話室には僕たちの他にも数名の患者と見舞客のグループがいた。
「分かりませんか? 去年入籍したばっかりよ」
「ごめんなさい、憶えてないんです」
僕は情けない気持ちで女性にそう答えるしかなかった。
「そんな筈はないわ。ねえ、もっとわたしの顔を見て」
「本当に憶えてないんだ。ごめんなさい」
彼女がハンカチで顔を覆うのを、僕はただ眺めていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
僕がこの病院に運ばれて、もう4週間が経つ。だがここに至る経過はまったく分からない。気がついたら、4人部屋の窓際のベッドに寝かされていた。身体じゅうに包帯が巻かれ、腕には点滴の針が突き刺さっていた。
いったいどうして?
「それはこっちが聞きたいくらいだよ」
頭の禿げあがった主治医が、渋い顔で言う。
「所持品がまったくないから、名前も年もわからない。どこからきたのか、どうしてあんな大怪我をしてたのか。誰にもわからない」
4週間前の早朝、守衛が病院の敷地内に倒れている僕を見つけたらしいのだ。
「君自身が思い出してくれないとね」
――無期限記憶障害症候群
主治医はカリカリと音を立てながら、羽ペンでそうカルテに書き込んだ。
「僕はこれからどうなるんでしょうか」
「まれに半年くらいでポツポツと思い出す人もいるけれどね。さあ、君はどうだろう」
「あなたはわたしの息子です」
頬を弛ませた初老の女性が、哀しそうに僕に向かって言う。
「たったひとりのわたしの息子です。結婚しないでずっとわたしとふたりで静かに暮らしていました」
僕はいつもと同じ言葉を告げるしかなかった。
「ごめんなさい。憶えてないんです」
すでに入院生活は2ヶ月を迎えていた。
でもいっこうに記憶は戻って来ない。その代わり、毎日のように入れ替わり立ち替わりいろんな人が僕に会いに来る。「わたしの夫」という人が8人。「わたしの息子」という人が6人。「会社の同僚」という人が5人。「うちの店の常連客だよ」という人までいた。
ある日、「大事な親友だ」という人が来た。
彼はとても端正な顔立ちをした礼儀正しい好青年だった。誰にもまして切なそうに僕の顔を見つめると、「本当に何も憶えていないのかい」と言った。
「悪いな、まったく記憶がないんだ」
「そうか……」
青年は呟くと、バッグから何かを取り出し、僕に向かって差し出した。
それは小さな白い真四角な箱で、金色の細いリボンが掛けられていた。
「以前に約束したから持って来たんだけど」
「……僕は君といったいどんな約束をしたんだろうか」
思わず言ってしまってから後悔した。青年の頬に嘆きの色がありありと浮かんだからだ。
きっと大切な約束だったのだろう。僕と彼との友情の証となるような。それがどうしても思い出せない自分がもどかしくて堪らない。
そうだ。
沢山の人が僕に会いに来たけれど、あれらは全部偽者で、本当に関わりがあったのはきっとこの人だけなのだ。
そんな風に思わせる真剣さが彼のまなざしからこちらへ降り注がれてくる。
「ねえ、これはまだ開けてはいけない」
切実な、でも暖かな、優しい、やるせないまなざしだ。
「いいかい。君が完全に記憶を取り戻した時。その時に開けていいからね。つまりその時までは絶対に開けてはいけないということだ。いいね」
彼が帰った後、僕は病室に戻りまたベッドに這い上がった。ごわついたシーツに横たわり、ずっと考えていた。
掌にすっぽりと収まり込む小さな小箱を抱えたままで。
いったい中には何が入っているのだろうか。いったいいつになったら開けることができるんだろう。
思いついて小箱を軽く振ってみた。中でカラカラと何かが転がる儚い音がした。
彼はいったい誰なんだろう。
本当に親友だったのだろうか。
それとも……。
窓の外からしのびやかな雨の音が聞こえてくる。あたりを包み込み、落ち着かせ、また僕を迷宮の中にいざなって行く。
僕はいったい誰なんだろう。
いつになったら正解にたどり着けるんだろう。
あるいはたどり着かない方がいいのだろうか……。