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偽日記 3

10月某日

よくある話だ。
夜中に耳の穴にイヤホンを差しっぱなしにして作業をしていたら、知らない人の声が聞こえてきた。女の人の声だ。妙に甲高い。でも大人の女の人のようだ。
「もしもし、もしもし。聞こえますか」
「変ねえ、何かが軋む音しかしないわ」
「どうなっているのかしら。そちらの声が全く聞こえませんよ」
「ねえ、こちらの注文したお品、ちゃんと向こうで受け取れるようになっておりますわよね」
「宅の主人が使う軍刀ですのよ。いきなり青森に転属になって、それですぐにお前、軍刀を用意しろだなんて東京から手紙が来て。本当に気忙しいことじゃありませんか」
「おかしいわねえ。ひょっとして間違っているのかしら。いいえ、そんなことはないわね。何度も確かめたもの。そちら神戸の○○局じゃありませんの?」
「まあ、恥ずかしい。やはり違うところに繋がってしまっているのね。どうしましょう」
「あーら。ごめんあそばせ。あははははははははは」
そこでぷつりと声は途絶えた。
夜更けの午前2時を回ったら、こういう事はよくあるらしい。
時空のどこかが歪んでしまって、電話線が捻じれるのだろうと大学のお偉い先生が言っていたような気がする。


10月某日

電話の声がなんとなく気になりながら、ホームで電車を待っていた。
目の前の赤いレンガの壁は、かつての空襲の名残でところどころ破損して色も変っている。このホームで待っていた人も大勢死んだ。
100年前の話だ。
今は、誰ももう知らない。
老朽化した汚いレンガの壁など早く撤去されればいいのにと思っている人が大半だ。
歴史は屍の上に積み重なっている。
気にしたら、生きてはいけない。


10月某日

また利夏ちゃんのDV彼氏から電話が掛かって来た。
「どこに隠してるんだよ。いい加減に白状しろよ」
いくらブロックしても、次々に番号を変えてアタックしてくるからきりがないのだ。
「知りません。しつっこいなあ。そろそろ警察に言うよ」
「おう、言ってみろよ。その方が話が早い。利夏の居場所も分かるかもしれないからな」
アパートから自転車がなくなっているという。利夏ちゃんの自転車だ。メタリックのかっこいい奴。でも今更そんな後出しジャンケンみたいな情報を出されても困っちゃう。
電話が切れた後で、ひとりで空想してみた。
利夏ちゃんが狭い畦道をどこまでもどこまでも自転車で走って行く。何かの歌を歌っている。昨夜見たアニメのエンディングテーマだ。口の中には夕飯に食べたカレーの味がまだ残ってる。
鼻の奥まで、田んぼの臭いが入って来る。青臭い香ばしい臭い。
いつのまにか利夏ちゃんは、高校生の私になっていた。ダサい制服が引き千切れんばかりの勢いで自転車を漕いでいた。
逃げなくちゃ。
そんなことをずっと考えている。


10月某日

雨だ。
好きだった人の訃報を受け取った。
あーあ。身体じゅうの骨が軋むように痛い。


10月某日

以前行ってみていい感じだなあと思っていた御蕎麦屋さんを、また訪ねてみた。お盆の上に小振りなざるそばと小鉢がいっぱい並んだお得なランチメニューを、もう一度食べたいと思ったのだ。
でもメニューは一新されていた。
壁にでかでかと貼られた料理の写真。
大皿に大量の蕎麦が盛りつけられ、その上に大きなエビの天ぷらが2つ絡まり合って乗っかり、トップにはハイビスカスの花が飾られている。
「ランチはこれしかやってないよ」
厨房の奥で店長らしき男の声がした。
どうしてこんな事になったのか。
前にいた筈のほっそりとした店員さんの姿もない。
店内を流れるのはトロピカルミュージックだ。前は『春と海』じゃなかったですか。
いったいこの店に何があったのだろうか。


10月某日

猫の名前を決める。
今度からそう呼ぶことにする。
まだ姿を見たことがないけれど、今度から足音を聞いたらこの名前で呼ぶようにしよう。
「猫は忍び足でしょ。足音なんかしないんじゃないの」
実家の母はそう言うけど、確かに聞こえるから。
小刻みに階段を上がって来る可愛い音だ。
私の家に階段はないけど。


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