白クマ
子供の頃の記憶というものは、簡単に思いだせるものと
いくら思い出そうとしても思い出せないものがある。
すっかり忘れてしまったことを
誰かに言われて思い出すこともあるし、
何かがトリガーとなって記憶が鮮やかに蘇ることもある。
いままで何度も白くまの親子のかわいらしい姿を見ていた。
白くまは愛情深い生き物なのか、人間の子供のようにこぐまが母ぐまに甘えている写真などをよく見かける。
微笑ましくて、可愛らしい姿だ。
それまでは一度も思い出すことがなかった。
それが、広告に掲載された白くまのぬいぐるみを見た途端、
何かが弾けるように
自分が子供の頃に持っていたプラスティックの白くまを思い出した。
何故、ぬいぐるみではなくプラスティックなのかというと、
その白くまはあくまでもケースであり、
お腹の中には甘いミルク味のアメが入っていたからだ。
その白くまのおもちゃをくれた人は見ず知らずの通りがかりの女性で
若くてきれいな人だったと思う。
何せ当時は幼い子供で、もうだいぶ月日が経過している。
あの日は、暑くも無く、寒くも無いような時期だったと思う。
母と横並びに並んで、ラジオ体操のような運動をしていた。
母が腕を振るのに合わせて、自分の腕も左右に大きく振っていた。
たわいも無い遊びが楽しかった。
すると突然、2歳違いの妹が泣き出した。
いつの間にか、後ろ側から近づいてきたらしく、手がぶつかり、
妹は尻もちをついて大声で泣きはじめた。
妹は頻繁に泣く子だった。
親の気を引く為にオーバーに泣くことを覚えたのだろう。
そんなに強くぶつかった感じはなかったが、
大声で泣く妹を見て気が動転した母は
泣いて赤くなった目を
目から血が出たと勘違いして、激しくわたしを叱った。
楽しい遊びだったはずだ。
「あんたなんか要らない!出て行きなさい!
もう帰って来なくていいから!」
そういって無理やり玄関のドアから外に締め出された。
何かを言えるような状況ではない。
母は感情的になっていたし、妹はぎゃーぎゃー泣いていた。
子供だったけど、自分が何も悪いことをしていないのは分かっていた。
でも、母は要らないから出て行けという。
どこかにいくしかなかった。
玄関とは反対方面の南側に道路があって、
足下でじゃりじゃりとこすれながら音を立てる砂利石を踏みながら
道路に出たところで途方にくれた。
砂利道の私道の脇には駐車場があって、
フェンスの網目には碧い塗装が塗られている。
網目越しの町並みはオレンジ色に暮れかけていた。
外へ出れば、母の激しい叱咤などどこ吹く風で、
穏やかな空気が流れている。
遠いどこかへ行くのもいいかもしれない。
雲はこれから沈もうとする太陽の光を受けて
ところどころ金色に輝いていた。
早くしないと夜になってしまう。
夜になる前に住む場所を見つけなければ。
どこに行けばいいのだろう?
皆目見当もつかなかった。何せ4,5歳の子供だ。
わたしは住んでる町のことを何も知らない自分にも途方にくれていた。
頭の中の小さな地図を必死に再現する。
右側は少し下り坂になっていて、下がってからまた上り坂になっている。
住宅街だ。
左側は上り坂になっていて、
のぼった先の、さらに左側には、
小さな酒屋兼駄菓子やみたいなお店があって
わたしはときどき、おこづかいを握りしめて
駄菓子を買いに行ったことがある。
周辺は開発途中といった感じで、
道路の陸橋の下には区画整備された土地が
がらんとひろがっていた。
右側の方へはほとんどいったことがなく
あっちにいくと何があるのだろう?と思いを馳せた。
この坂をくだって、さらにのぼった先に向かえばどうにかなるだろうか?
もし、何も無かったら?
どっちに行くか迷っていると
知らないお姉さんが話しかけてきた。
「どうしたの?」
夕暮れに幼い子供が一人で立ってるのをみて不信に思ったのだろう。
わたしは母に追い出されて帰ってくるなと言われたことを伝えた。
お姉さんは、困った様子で少しの間、私と一緒にいてくれた。
待っててね。というと左側の坂の上の方に向かっていった。
わたしはまた一人になって
そうする間にも陽はどんどん暮れていく。
お姉さんは何しにいったのだろう?
涙は一粒も出てこなかった。
自分の境遇を受け入れる以外になかった。
自分の居場所がないのはそれ以前から知っていて
いつ、要らないといわれても大丈夫なように
心にはきっちり封印をしていたのだろうと思う。
母親に愛を期待するのはやめていた。
それに、理不尽に叱られることも以前から度々あって、
いつも突然、感情的になって打たれるので、
何で怒られてるのかが分からなかった。
知らない町の向こう側に行ってみようか・・
ぼんやりと考えているうちにさっきのお姉さんが戻ってきて
わたしに箱を差出した。
箱には白くまの絵が描かれていた。
わたしは渡された箱を受け取り、
おねえさんはお別れを言いそのままどこかに行ってしまった。
取り残されたわたしは、
手渡された箱に何が入っているのか
しげしげと見つめた。
その箱の中身は
わたしが置かれている状況とは、とてもかけ離れた次元のものにみえた。
自分ひとりのために与えられた自分だけのアメ。
兄弟が多かったせいもあって、
自分用のおもちゃをあまり買ってもらえていなかったのだ。
「帰っておいで。」と声がして、
振り返ると母が立っていた。
先ほどとは変わり、穏やかな表情になっている。
母は家に戻るまでの間、
血が出たと勘違いしたという話をわたしに訊かせた。
言い訳をしたかったのだろうと思う。
わたしからすれば、妹が大げさに騒いでるのは分かっていたし、
それにもし、本当に血が出ていたとしても
わたしに責められる理由があっただろうか?
たまたま、母のほうではなく、わたしの方にぶつかっただけだ。
その後、何事も無いように日々は通り過ぎ、忘れさられていた。
白いくまのぬいぐるみの写真を見た途端、
プラスティックの白くまを思い出したのはどういうわけだろう。
泣いた。
トクトクと涙が流れ出して止まらなくなった。
そして、あのお姉さんのことを思い出した。
もし、今生きていたら、
きっといい年齢になっている筈だ。
しあわせな人生を送ってくれただろうか?
願わくば、いっぱいしあわせであって欲しい。
もう二度と会うことはないだろうけど、
人生のうちのほんの数分に過ぎないけど
その数分に救われていた。
ちゃんとお礼を言えなかった。
時空を超えて感謝を届けたい。
ありがとう。
わたしは、あなたに救われました。
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