20歳で起業した僕が、うつ病とチーム崩壊を経験した話。
先日、個別育成ツール「Aruga(アルガ)」を公式リリースしました、Aruga代表の木村です。
2015年、19歳でトレーニング共有サイト「シェアトレ 」を思いつき、筑波大学在学中に起業。昨年社名を「Aruga(アルガ)」に変更。
サッカーしかしてこなかった学生が、ビジネスの世界に足を踏み入れてからの5年間、本当にたくさんのことがありました。
一番辛かった出来事は、自分がうつ病になりチームが崩壊したことです。正直、地獄のような日々を経験しました。
会社を立ち上げて、病気になり、現在に至るまで。
節目のタイミングだなと思いnoteを書いてみることにしました。
書き上げてみたら1万字と長くなってしまいましたが、何かに挑戦している人、今辛い思いをしている人に、1人でも届いてくれたら嬉しいです。
1/8.骨折のおかげで起業、ビジネスの世界へ。
2015年、夏。
「ボキッ!」
嫌な音がして、僕は悟りました。
筑波大学の体育会蹴球部(サッカー部)に入部し、初めての練習試合。
テンションが上がっていた僕は、ボールを追っかけた勢いで相手キーパーに突っ込み、相手の膝が肋骨にクリーンヒット。
開始3分でピッチを去ります。
これから始まる長い夏休みを前に、お医者さんから「うん、全治3ヶ月。安静にね」
と告げられ、頭を抱えていました。
「この期間、何しよう。。」
やることもなく、5畳しかない学生寮のベッドに寝っ転がり、筑波に来た理由を思い返していました。
高校時代にプロサッカー選手になる夢を諦めていた僕。挫折していた時、京セラやJALの再建で有名な経営者、稲盛和夫さんの本に出会い「経営者ってかっこいい。今まで自分がしてきたスポーツと絡めて、スポーツビジネスの会社を立てるんだ」と、夢が変わりました。
筑波大学はスポーツとビジネスを両方学べると知り、目指すことに。
「大学ではサッカーを続けて4年で卒業、企業で3年修行してから起業しよう!」これが当初の僕の人生プランでした。
(実際のところは、1休学1留年。なぜか4年生を3年間やっています。どうやら時空が歪んだようです)
「せっかく筑波に来たのに、ついてないな」
痛めた肋骨をさすりながら、天井を眺めていました。
そんな僕に転機が訪れます。
「木村、コーチやってみない?」
サッカー部は、昔から近くの少年サッカーチームに部員を派遣して、指導をおこなっていました。
怪我人が優先してコーチを行うことになっており、僕にもお声がかかったのでした。
やることもなかった僕は「やります!」と即答。現場に向かいました。
「15年もサッカーをやってるし指導なんて簡単だろう」
そんな軽いノリで参加した最初の練習は、散々な結果でした。
・練習が難しすぎて子供たちができない
・自分の言葉が難しすぎて伝わらない
・なぜか取っ組み合いの喧嘩が始まっている
「やばい、指導ってこんなに難しいんだ」
寮に帰り、一人で反省しました。
「隣で教えていた先輩コーチは手慣れた様子で指導していて、子供達も楽しそうだったなぁ」
「指導法とか練習メニューとか教えてくれないかなぁ」
そんなことを考えながら、一人で自炊をしていた時。
料理メニューを検索していた「クックパッド」が目に入ります。
その瞬間、閃きました。
「そうだ!クックパッドのように、指導者が練習メニューを投稿して、共有できるプラットフォームがあれば、自分のような初心者コーチの役に立てるのでは?!」
2/8.初めての仲間探し
そう思った僕は、早速仲間探しの旅に出かけます。
自分にはwebサービスを作る能力など、全く無かったからです。
まずは友達にアイデアを話し、協力者を募ることに。
しかし「いいアイデアだね!で、プログラミングってなに?」
と返され撃沈。
「体育系じゃなくて情報系の人を探さなければ!」
そんな決意をしている時、偶然にも学内のポスターに「起業家育成プログラム開講!やる気のある人集まれ!」の文字が。
「これは行くしか!」
と、ワクワクしながら会場に向かいました。
当日はアイデアを持っている人が発表。それを聞いて「協力したい」と思う人がいれば、チームが結成されるという会でした。
「シェアトレという、こういうサービスを作りたいんです!こういうサービスがあれば指導者の役に立てると思うんです!」
壇上で、熱く語りました。
発表後、祈るように待っていると、
3人の情報系の学生が「一緒にプロジェクトしたい」と声をかけてくれました。
その中の1人が、共同創業者の下園(しもぞの)です。
下園は沖縄の高専出身で、高校時代からアプリ開発やWeb開発をしていたエンジニアでした。高校時代にサッカー部のキャプテンもしており、いい監督に巡り会えなかったという原体験から、シェアトレの想いにも共感してくれたそうです。
(当時のメンバー。右から2番目が下園)
当時を振り返った下園曰く、「3ヶ月くらいだけ一緒にやる軽いノリだったのに、気づけば5年経とうとしている。恐ろしい」
とのこと。(彼の時空も歪ませてしまったようです
今振り返っても、下園との出会いが自分の人生最大のターニングポイントでした。
こうして僕は、念願のチーム結成を果たしたのでした。
3/8.シェアトレ完成、そしてビジコン荒らしに。
下園の活躍もあり、2016年に無事シェアトレをリリース。
「さあ、ここからもっと伸ばしていこう!」というタイミング。
しかし僕はプログラミングができないため、開発には貢献できません。
「自分にできることはなんだろう?」
そう考え、出た答えが以下の2つ。
①サービスを広く知ってもらうこと
②運営資金集め
「これだ。むしろこれしか俺にはできない!」
と、早速行動に移すことに。
ちょうどその時、知り合いの方から「資金も集められて話題にもなるから、ビジネスコンテストに出てみたら?」と誘われます。
「なにそれ、良さげ。でも自分みたいなビジネスもろくに知らない奴が、普通にプレゼンしても勝てるわけがないよな」
そう考え、取った作戦がこちら。
ユニフォーム出落ち作戦です。
見てください。審査員をしていた元LINE代表の森川さんもこの表情。
「印象に残るのであれば、なんでもやってやる」
そんな覚悟でプレゼンに臨みました。
その結果、ビジネスコンテストは連勝に次ぐ連勝。(ユニフォーム作戦が火を吹きました)
結果、日本一を3回獲得。
日本代表に選ばれ、海外でプレゼンすることも。
ある時は2000人の観客の前で1人、スポットライトを浴びながら話しました。
会場に颯爽とユニフォーム姿で現れ、賞金を掻っ攫っていく姿から、いつしか「ビジコン荒し」という異名をつけられました。(荒らしてごめんなさい
僕がビジコンと営業で飛び回っている間、下園たちは開発を進め、サービス改善を続けてくれました。そのおかげでシェアトレは月6万人の指導者が利用してくれるサービスに成長しました。
ここだけを切り取ると華々しいように見えますが、一方ビジネス面では、限界を感じていました。
シェアトレは広告掲載モデルで運営していました。
「有料で広告を掲載したい」と思ってもらえる企業からお金をいただくモデルです。しかし、そもそもサッカー指導者の数が少ないので広告費も伸び悩んでいました。
売り上げを増やすには他のスポーツに展開するか、海外に展開するしか道がありませんでした。
「他のスポーツの練習メニューをまとめたいとは思わないしなぁ」
そう悩む日々が続きました。
そんな時、お追い討ちをかけるように1件の電話が入ります。
「はい、もしもし」
「君がシェアトレを運営している木村君かい?」
「はいそうです」
「私は海外で指導している者です。シェアトレというサイトを見させてもらいました。」
「ありがとうございます!(おお、褒めてもらえるのかな?)」
「あのサイトはすぐ閉じなさい。」
「え」
「君のような指導歴が浅い指導者が、良い練習と悪い練習の区別ができると思うのか?練習メニューだけではダメなんだ。
確かに練習メニューを見れることで助かる指導者もいると思うが、それは本質ではない。君以上の指導者は、あのプラットフォームからは育たない」
と、1時間以上ダメ出しをされました。
言われたことがごもっともなので、何も反論できませんでした。
ただ、そんなことは百も承知でした。それでも良いものにしようと努力しているサービスに対して「これは悪だからすぐやめろ」と言われたことが、とても悔しかったです。
4/8.チームの解散、コーチングに出会う
電話の一件もあり、
「指導者のためにもビジネス的にも、このままじゃダメだ。」
と思い、新しいサービスを立ち上げてみることに。
しかし、試行錯誤してみるも、どれも失敗に終わりました。
最初は自分が「やってみたい!」と好奇心で作っていたサービスなのに、いつしか起業して、人前で話すようになってからは「他人の期待に応えなければ」と思うようになっていました。
ビジコンに多く出場した自分が悪いのですが、
①人前でサービスの展開を話す
②話したからには是が非でも達成しなければ
と、自分で自分の首を絞める結果になっていました。
そのせいか、好奇心ではなく義務感で動くようになっていた僕は、やりたいことがわからなくなってしまいました。
「僕は何がしたくて起業したんだっけ?」
あんなに楽しかった仕事が、一変。
毎日オフィスに向かうことすらも苦痛になっていきました。
そんな状態では、
とてもチームを率いることはできません。
「話すなら早い方がいい」と、正直にメンバーに打ち明けました。
「やりたいことがわからなくなってしまいました。本当に申し訳ないです」
話し合いの結果、僕が「やりたい」と思えるサービスを思いつくまでチームは解散。
「一緒にこんなサービスを届けよう!」と熱く自分から誘って協力してもらったメンバーに対して、裏切る形になってしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
「早く次の事業を見つけないと。」
そう焦る気持ちの中、1人で次の事業を探しました。
その中で1つ、僕が目をつけたのがコーチングという分野でした。
コーチングとは、相手に教え込むのではなく、質問をして相手の考えを引き出す手法のことです。
コーチングの重要性は筑波大学の小井土監督からも教わっていました。
「大学サッカーは全員がプロになるわけでは無いので、社会に出てからも活躍できる力を身に付けさせることが重要。そこで重要になっていくのがコーチングなんだ。自分で考えて改善できる力をみんなにつけて欲しい」
小井土監督はそんな想いで選手全員に目標達成シートを書かせ、手書きでフィードバックしていました。
「一人一人にコーチングするのって大変なんだよなぁ。木村、アプリとか作れるならこれIT化してくれよ笑」
冗談半分で言われた言葉を思い出した時、閃きました。
「1人の指導者が選手全員にコーチングをするのには大変。フィードバックするのも難しい。だから選手同士でコーチングをできて、そのデータを回収して指導者に見せられるアプリを作ればいいんじゃないか!」
(当時のアイデアの図)
「このサービスなら本気でやり切れる!」そう思った僕はすぐに下園さんに連絡しました。
「今からご飯行きたいです!」
「わかりました」
5/8.3000万円の資金調達、そして組織の拡大
2018年11月。
つくば駅の大戸屋で僕は、アイデアの資料を見せながら下園さんに言いました。
「この事業でまた下園さんと挑戦したいです。お願いします!」
すると
「木村くんのやりたいことにも合ってるし、また木村くんと仕事したい気持ちも正直あります。ただ、想いだけでは食べていけないのが現実です。今、企業から内定をもらっています。自分にとってお金もないベンチャーにまた飛び込むのはリスクすぎる。
なので、今年までに活動資金として3000万円集めてきてくれたら考えます」
との返答が。
「わかりました。あと1ヶ月で3000万集めてきたら一緒にやってくれるんですね?」
「はい」
そこからは自分の持てる人脈という人脈全てを使って、出資者を募りました。
正直、ダメ出しされることの方が多かったです。
「サービスもない、アイデア資料の段階でそんな大金出せるか」
そう言われることもありました。
それでも時間がなかった僕は、熱意だけで毎日休まず候補者に会い続けました。
その甲斐あって、徐々に共感してもらえる方に出会えるようになってきました。(この頃に元オリンピック選手の為末大さんにも出資していただけることに)
タイムリミットが迫った2018年の12月24日。
半分の1500万円は集め終わっていたものの「残り半分、ギリギリ間に合うかな、、」と不安でした。
その日も、いつものように出資の相談をしに投資家さんの元へ。
その日は僕以外に何人かの起業家もおり、その中に僕の友達でFULMA代表の齋藤涼太郎がいました。(Youtuberのオンライン育成講座を展開)
僕のプレゼン後、唐突に投資家さんが涼太郎に質問しました。
「涼太郎くん、君が投資する側だったら木村くんに投資するかい?」
涼太郎は少し考えてから言いました。
「木村は波もあって不安定な部分は確かにあります。ただ、今までの行動を見てきて、信頼できるやつだと思っています。なので僕は、今自分の貯金が少なくても、彼になら投資したいと思います。お金が戻ってこなくてもいいです」
友達からそんな事を言ってもらえると思っていなかった僕は、プレゼンの席で男泣き。
それを聞いた投資家さんは、
「よし、木村くん。あなたに1500万出資します。まだ経営者として君が良いかはわからないけれど、友達にここまで信頼されているのであれば、私もあなたを信頼できる」
こうしてクリスマスに僕は、友達からの最高の言葉と合計3000万円の資金を得ることができました。
その日の帰り道、「下園さん喜ぶだろうなぁ」とニヤニヤしながら彼に連絡を入れました。
「下園さん、お金集まりましたよ」
「え、まじ?」
(いや信じてなかったんかい)
6/8.再スタート。しかし最悪のタイミングでうつ病発症
こうして一度は解散した下園と、次の挑戦に出ることになりました。
(下園は2回目の休学を決断)
早速下園は、アイデア段階のサービスを形にするため、開発チームを組織してくれました。
「ようし、おれもやるぞ!」
「もうユニフォームでビジコン行ってる場合じゃない。←
他のことをやらなきゃ」と、考えた結果。
「サービスができた時に、素早く広めるための営業部隊を組織しておこう!」
と思いつき、行動に移すことに。
僕らのサービスは大学の部活向けでした。
「自分1人で営業するよりも、各大学に1人優秀な営業マンを配置できた方がいい」そう考えた僕は、早慶マーチ旧帝大はもちろん、上は東北大学、下は高知大学までアポを取り、インターン生を採用しまくりました。
1日7~8件のアポは当たり前。会った学生に熱意とサービスを話して、インターン生になってもらう。
この日々を繰り返し、1ヶ月でslackメンバーが10人から40人に膨れ上がりました。
(組織が拡大していた時の集合写真)
「このメンバーでやっていくぞ!」
と、音頭をとっていたとき、
パタリ。と体が動かなくなりました。
「あれ?おかしいな」
ある時、23時に寝て、起きたら、時計には「23:00」と表示されていました。
24時間寝ていたのです。スマホには心配したメンバーからの着信歴が。
「ごめんごめん、1日寝てたわ。笑
(普段、寝坊なんか滅多にしないんだけどな)」
メンバーの前では笑っていたものの、明らかに体はアラートを鳴らしていました。
思い返せば、下園と3000万の資金を得ることを約束してから3ヵ月間。休みなしで朝から夜中までずっと動き続けていました。
24時間睡眠事件を皮切りに、明らかにおかしい症状が出てきました。
パソコンの前に立つと手が震える。
人と目を合わせられなくなる。
あんなにいけると思っていたアイデアがどんどんダメな気がしてくる。
急に涙が出てくる。
極め付けは、大学の健康診断に参加した時。
お医者さんに止められて
「精神科に行きなさい」
と言われました。(見るからに相当やばかったみたいです)
病院に行ったら仕事に行けなくなると思った僕は
「大丈夫です、大丈夫です」
と抵抗しましたが、それも叶わず診察を受けることに。
「うつ病ですね。しばらく休養が必要です」
「、、え、うつ?うつってあの?
いやでも家からは出れてるし」
と言いたくても実際は
「ぁ、、、、ぅっ、、、ぃゃ、、ぃぇ。。」
みたいな感じでした。
ここから、僕にとって地獄の日々が始まりました。
会社のことを少しでも考えると、頭がガンガンと痛くなる。
何を見ても面白いと思えない。
全てに対してやる気がなくなる。
動かなきゃとアクセルを踏んでも、脳が強制ブレーキ。
エンストして煙を吐いている車のような状態でした。
メンバー達はそんな僕を見て「しばらく休みなよ。こっちは任せて!」
と、休養を快諾してくれました。
「とりあえず1ヵ月くらい休めば良くなるはず」
そう思い1ヵ月を過ごすも、仕事しかしてこなかった僕は、休み方がわかりませんでした。ついつい会社のことを考えて、自分でネガティブになることの繰り返し。
「せっかく休みをもらったのに、休むこともできないなんて自分はクズだ」
どんどん休暇は消費され、何も体調が良くならず、自分が嫌いになる。
負のループが続きました。
周りの友達も優しいので「なんでも相談してね」と言ってくれるのですが、普段の自分とうつ状態の自分が違いすぎて、相談できませんでした。加えて、相談するとしても「ただ毎日生きてるのが辛い」という感情だけだったので、解決策がありません。
「親切で差し伸べてくれた手も掴めないなんて、どこまで最低な奴なんだ。クズ。クズ。クズ」
出てくる言葉は自分への悪口ばかりでした。
「なんで、こんな大事な時に、俺は1人で休んでるんだ。クソ野郎。
本当は病気じゃなくて自分が逃げてるだけなんだ。ほんとクズだな。こいつ。死ねばいいのに。」
こんな文字が日記を埋め尽くしていました。
(当時の日記の1ページ)
何より、自分を信じてついてきてくれた仲間、投資家の方々に対して、裏切るようなことになってしまったことが死ぬほど苦しかったです。
「信じてくれた仲間を裏切ってしまうくらいなら、もう何もやろうとしない方がいいんじゃないか。そのほうが誰にも迷惑かけない。生きてて本当にごめんなさい」
そんな心境が、3ヵ月以上続きました。
「このままではダメだ」と思い、当時のメンバーには解散するように伝えました。
本当は一人一人の目をちゃんと見て「ごめんなさい」と謝りながら伝えたいところですが、誰の目も見ることができません。
オフィスの床を1点見つめながら「本当に申し訳ないけど、解散します。ごめんなさい。ごめんなさい」
そう伝えました。
7/8.どん底の中での苦渋の決断。
40人もいたメンバーは3人になりました。そんな中でも下園だけは継続してフルで仕事をしてくれていました。
「せめて下園さんの自由に働いて欲しい」そんな想いから
「僕がやろうとしていた事は白紙にして、下園さんが作りたいものを作ってください」
と伝え、休養を続けました。
うつ病は、良くなったり悪くなったりの繰り返しでした。
「少し良くなった!」と思って会社に行く予定を入れると、当日は最悪な体調になっている、なんてザラ。
その度に謝罪の連絡をいれ、自己嫌悪になり、どん底に突き落とされていました。
「もう一生このままなんじゃないか。
生きてるだけで迷惑かけてる。もう、消えてしまいたい」
正直、心が折れかけてました。
うつ病前は自殺を選んでしまう人の心理が、そこまで理解できませんでした。でも病気になって、痛いほどよくわかりました。
「死にたい」というよりも、「消えて無くなりたい」
サラサラと砂のように自分が消えて、存在自体がなかったことにできたらどんなに楽かと何回も考えました。
「自分が死ぬのは構わないけれど、その後の処理とか最初の発見者に申し訳ない」そんな気持ちで踏みとどまっていました。
ある日、僕は決断します。
「このまま待たせていても、誰も幸せにならない」
覚悟を決め、震える手で下園さんに電話しました。
「下園さん、もう、会社、畳もうと思います。今まで使ったお金は、僕が健康になったら働いて全部返します。だから、下園さんは内定先の企業に行ってください。もうこれ以上、僕のせいで下園さんに迷惑かけたくないんです」
就職を引き止め、自分のせいで2度も休学させた挙句、うつ病で離脱。迷惑しかかけていない彼への申し訳なさと、自分に対しての不甲斐なさで、僕は泣きながら話してました。
すると、
「自分を気遣ってくれる気持ちは嬉しいです。ありがとう。
でも、僕は、たとえ木村くんが戻ってこなくても、この会社は続けます。
だって、ここで僕が逃げたら、共同創業者だって胸張って言えなくなるじゃないですか。だから、いいんです。こっちのことは気にせず休んでてください」
そう言ってくれました。
「こんな状況が続いてるのに、それでも待ち続けてくれるのか」
そんな熱い感謝の気持ちと、申し訳ない気持ちで
「ありがとうございます。ごめんなさい。早く治します」と繰り返していました。
そして時は流れて2019年9月。
休養の甲斐あって体調が徐々に良くなってきた僕は、久しぶりにオフィスに顔を出すことに。(以前はオフィスの扉を手が震えて開けられなかった)
すると、下園さんから「今こんな事業をつくってるんです」と紹介を受けました。
「まだこれからですが、ようやく売れるものができました。今進めてるサービスのターゲットは、目標に向かって達成したい意欲がある人。そのような人は、壁にぶつかった時に落ち込んでしまうのが課題。
人間がカウンセリングなどでサポートしようとしても、毎日継続してサポートするのは難しい。
そこでチャットボットという自動返信機能を組み込んだAIのような機械が、1日の始まりと終わりに
「今日はどんなことを行いましたか?」
「そこから何を学びましたか?」
「今のメンタル疲労度は?」
と、その人の思考パターンと体調を聞いてくれる。そうして集まったデータを元に、人間がフィードバックする仕組み。まだ数名ですがお客さんもいます」
そして最後に一言。
「実はこのサービス『木村くんが二度と潰れないように、どんなサービスがあればよかったか?』と、考え始めて生まれたんですよ」
「」
感謝と驚きで言葉が出ませんでした。
ただ、課題があるらしく「個人向けだと広がりに限界があるので、このサービスをどうにか組織に導入したい」とのこと。
そう言われた時、蹴球部の小井土監督から言われたことを思い出しました。
(一人一人の振り返りのサポートをしたいんだけど手作業では大変なんだよね)
「下園さん、それ、スポーツチームで使えるかもしれません」
「え、まじ?」
こうして、現在のArugaが形になっていきました。
導入チームが初のインカレ優勝。個別育成ツール「Aruga(アルガ)」正式版の提供開始。Jリーグチームなど続々導入中。
8/8.Arugaの目指す世界
10月に入り体調も優れてきたので、様子を見ながら仕事に復帰することに。
「下園さん、今日から3度目のスタートですね。Arugaの出発点として記念に写真撮りましょ!」
そうして撮った1枚が、冒頭の写真です。2019年10月1日のことでした。
その後、蹴球部の後輩大谷と、京大卒凄腕エンジニアの中塚と岩井を加えて、現在は5名でAruga株式会社は活動しています。(2023年に下園が代表に就任)
最後に、Arugaの名前の由来をお伝えすると、
「あるがまま」の「あるが」からとりました。
今まで僕は他人からの期待に答えて、価値を出し続けることでしか自分は認めてもらえないと、無意識的に思っていました。偏差値などで比較される日本教育の仕組み上、仕方ないのかもしれません。
しかしその価値観だと、いつまで頑張っても終わりはありません。
頑張って結果を出したら、もっと上の結果を期待されて、また自分の首を絞めることになってしまいます。
いつか限界がきて、価値を出せなくなる時が来ます。
その時「価値を出せていない自分はクソだ」と自分を苦しめることになります。うつ病になり、その状態がどれだけ辛いか実感しました。
価値を出さなくていいとしたら?
結果を出し続けることが幸せじゃないとしたら?
自問自答の末、行き着いたのは、
人は誰しもそのままで価値があるということ。そこから上を目指そうが目指さまいが、価値に変わりはない。
言い換えると「あるがままの自分で価値がある」ということ。
そのことを認められると「こうしてみたい」「ああしてみたい」と、自分なりの好奇心、成長したい方向がきっとあるはずです。
それは他人との比較ではなく、なりたい自分になるため。
まだ見ぬ自分に出会うための行動です。
Arugaはそんな行動をする時に、ドラえもんのように常にその人のそばでサポートしてくれるAIを作りたいと思っています。
僕らが目指す最終目的地は、全ての人が自分らしく成長できる機会を提供することです。
そのために今はスポーツから、次は別の領域へと「自分らしい成長をしたい」という想いがある人にサービスを届けていきたいと思います。
ここまで長い文章を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
今までの5年間、たくさん迷惑をかけて、たくさん失敗してきました。そんな中でも、自分がここまで歩んでこれたのは周りの方のおかげです。本当にありがとうございました。
きっと、これからの5年間もいろんな失敗をするんだと思います。
「どうせ辛いことが待っているし、きっと楽しいことも待っている」
諦めの気持ちと、その中にある小さな希望も見つけながら、仲間と一緒に歩んでいこうと思います。
最後に、少しでも感じていただけるものがありましたら、是非シェアしていただけますと嬉しいです。
どん底の暗闇で苦しんでいる人に、1人でも届くことを願って。
(左からスーパーエンジニア中塚、CTO岩井、CEO木村、COO下園、LifeEasy大谷)
2020/10/11 Aruga共同創業者 木村友輔
会社概要:https://aruga.site/profile/
サービスURL:https://aruga.site/
P.S.今苦しんでいる人へ。
今もし、どうしようもなく、自分を責めることしかできない人が、このブログを読んでくれているのでれば、あと少しだけ付き合って欲しいです。
あなたの状況がどれだけ辛いかは、経験した人でないとわかってもらえないと思います。
経験したからと言って「きっと良くなるから大丈夫」なんて、口が裂けても言えません。
辛いものは辛い。どうしょうもないものはもうしようもない。僕も日々耐えるしかありませんでした。毎日が絶望。たまに希望が見えてもすぐ絶望。そんな日々でした。
頑張り過ぎて、限界を超えても頑張ろうとすると、脳が「これ以上は死んじゃうよ!」と強制シャットダウンしてくれるのが、うつ病だと教わりました。
「だから、今は休むのが仕事。休めなくてもやりたいことをしちゃっていい。だって、今まで無理して頑張ってきたんだから」
そうやって周りに言われても、どん底にいた時は「いや、俺は頑張ってなんかない。逃げてるだけ。クズ人間」と自己否定が辞めやれませんでした。
でも、自己否定したっていいんです。
今まで我慢してきた色んな感情を、あなたは優しいから、自分にしかぶつけられないんです。
そうすることでしか、感情を消化できないから。いいんです。
僕も何回「自分死ね」と口に出したかわかりません。
自己否定してもいい。わがまま言ってもいい。甘えてもいい。ダメな自分でもいい。
そうやって、少しでも自分に優しくなれたとき、闇が少し晴れた気がしました。
今も僕は治療中です。薬を飲み続けています。僕も来月はどうなっているか正直わかりません。前は「なんとかしてやろう」と躍起になっていました。でも、うつ病の経験で「頑張ってもどうにもならないことが、人生にはある」と学びました。
今は「気分の波はコントロールできないし、うつに戻ったらそれもまた人生だな」と諦めています。
だから、もう、一緒に諦めましょ。
「諦める」の語源は、「明らかにする」ことらしいです。
自分には、どうしようもないことを明らかにする。
その先に、自分にできることも明らかにする。
「あきらめる」ことができるようになって、僕はだいぶ生きるのが楽になりました。
最後に、自分が療養中に染みた曲を貼っておきます。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
追記:現在はうつ病ではなく、うつ状態と躁状態を繰り返す「双極性障害」と再診断され治療に当たっています。
p.s.
2023年にAruga株式会社代表を退任しました。