カラバウ

どうしても、忘れられない人のことを、今日もまたこうして、考えている。

もうこんな時間だ、と思ってシャワーを浴びているとき。
今日くらいいいよね、と思ってビールを飲んでいるとき。

ふとした時に、突然思い出す。
なんのきっかけもなく、唐突に。

そして、結局まだ、消化しきれていないことに、ちょっとだけ困惑する。

忘れられるわけがない。
消化できるわけもない。

何年経ったって、どんな経験したって、忘れられるわけがない。
マンゴーの種を、まるごと飲み込んで死んでしまったという、彼女のことを。

もう何年も前のことだ。
当時わたしはフィリピンに暮らしていて、
しかも、貧困地域で暮らすこどもの支援をする活動に携わっていたから、
出会う人のほとんどは、生活が苦しく困っているような人ばかりだった。

お母さんが、病気で死んでしまった。

なんてことは、よくある話だし、

1週間くらい前から、お母さんが、お父さんが、いなくなった。
なんてことも、しょっちゅうあった。

昨日まで一緒に笑ってごはんを食べていた人が、
急に遠くに行ってしまってもう戻ってこれないとか、
事故で亡くなったとか、そんなことも、日常のことだった。

ただ、その中でも、彼女の死に方は、稀だった。

その話を聞いたのは、現地のタガログ語だったから
「これは、聞き間違えてるな」
と、何度も、何度も、聞き返した。

だけど、誰に聞いても、何度聞いても、返ってくるのは、同じ答えだった。

マンゴーを食べて、種もまるごと食べちゃって、それで死んじゃったんだって。

わけが、わからない。
どうして、そんなことが起こり得たんだろう。

マンゴーの種なんて、大人の手のひらくらいの大きさはある。
しかも、固くて、ガリガリ食べるもんじゃない。
まして、飲み込めるようなものじゃない。

そりゃ、食べちゃったら、飲んじゃったら、死んでしまうことも、あるかもしれない。
なんで、そんなことに……。

その子はまだ10代で、すごく真面目で、勉強が大好きな子だった。
家は貧しくて、それこそ、3匹のこぶたに出てくるような、
フーっと吹けば飛んでしまうようなそんな家に、たくさんの兄弟と一緒に住んでいた。

お父さんとお母さんは毎日市場で卵を売って歩いて、
学校に行かない子どもたちは、両親を手伝って小銭を稼いだりもしていた。

貧しい家庭では、誰も学校に行けないこともある。

だけど、奨学金をもらったりしながら、なんとか高等教育を終えて、大学にも行けると、職業の選択肢はぐんと広がる。
その家族が、食べていける可能性が、高まってくる。

だから、年が上の子が優秀な場合は、期待が高まる。
なんとか、この子だけは学校に出そう。
それで、勉強してくれれば、きっといい仕事に就くことができる。

その子も、期待の星だった。
真面目で、優しくて、頭も良くて。
一生懸命勉強もしていたし、奨学金を受ける代わりに、奉仕活動にも参加したりしていた。

だけど。
ある時、すべてが崩れた。

暑いフィリピンの国で、毎日空腹とたたかいながら勉強を続けていくうちに、栄養が足りなくなり、精神を病むようになってしまった。

それまではおとなしくて、会っても微笑んで、はにかんでいるような子だったのに、ある時から急に、笑いが止まらなくなってしまった。

そこにいて、ずーっと笑っている。
話しかけたり質問をすると逃げてしまうけど、
一人になると、ずーっと、笑っている。

あぁ、そんなことって、あるんだな。
どう受け止めていいかわからないまま、現地の人たちから、いろいろ話を聞いて、自分なりにどう接したらいいか、考えていた。

笑ってるとこに近づいていって、一緒に笑ったら、ダッシュで逃げられたりもして。
視線を感じたから、ニコって微笑み返したら、また逃げられたりして。


そんなことをしていた時だった。

あの子が、亡くなった、ということを耳にした。

ショックだった。


そんな。
最後に会った時も、ずーっと笑っていたけど。
彼女は、しあわせだったんだろうか。

しかも。
マンゴーの種を丸呑みして、死んでしまったなんて。

どうやって?
笑いながら? 
痛いという意識もなかった?
だったらいいけど。いや、良いのか、わからないけど。

そんなの。
世界のびっくりニュースとか、漫画の世界の話で、
あんなに一生懸命だった子が、その登場人物になるなんて。

そんなこと、思いもしなかった。

むしろ、「そんなこともあるんだねー」って、テレビを観ながら言ってるくらいなら、こんなに覚えていることも、なかったかもしれない。

かと言って、わたしはただその子を知っていただけで、そういうことがあった、と、知っているだけだ。
他人であるわたしが、何かジャッジするようなことでも、とやかく言うようなことでもない。

ただ、出会って、知り合って、片言だけど気持ちを交わしたように思っていた、そんな子が、そんな死に方をすることがあるなんて。

記憶が、あの日受けた衝撃と同じ形で、まだフリーズしたままでいる。

生きている人間は、亡くなった人から、いろんなことを、学んだりする。
こんなこともあるから、毎日を大切にしようとか。
やるせないけれど、前を向いて生きていこうとか。

ただ、彼女の死に様は、どうにもこうにも、消化することが、できない。

最近観たヤスケンの映画では、人の死には、誰かの人生を動かす力がある、なんて言っていて、本当にそうだなーって、涙をボロボロこぼしながらうなずいていたけど。

だけど、彼女の死だけは、わたしの動きを、止める。
頭も、記憶も、風も。
思い出した瞬間に、すべてが、フッと、止まるんだ。

人生にも、死に方にも、答えなんてなくて、それはただ、生きている人が、自分が前を向いて生きていくために、考えて、用意していくものなのかもしれない。

だから別に、意味を見出す必要なんてないし、そんなこと、しなくても、いいんだと思う。

だけど、なんで?
そう、思わずには、いられない。
そうやって、ぐるぐるぐるぐる、思い出しては考え続けている。

きっと、わたしはこれからもずっと、彼女の生きていた日々のことと、そして、その死に様を、色褪せないまま、忘れないのだろう。
いや、忘れられないのだ。
だから今日もこうしてまた、
何か答えを見つけられるんじゃないかと希望を持ちながら、
これが、すべて私の記憶違いならいいのに、と思いながら。
風も時間もフリーズした状態で、一通りすべての記憶を眺めては、
「やっぱり、どうにもこうにもわからない」と、そのまま引き出しの中に、しまうことしか、できないんだ。

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