狭めてみたら解放感
しばらく、何をしたいかも、何をするかも、自由に決められる時間があった。
せっかくだから、何をしたいかじっくり考えてみよう。
せっかくだから学ぶ時間にしよう。
せっかくだから、いろんな人に会ってみよう。
そんな風に思ったけど、一見、楽しそうに思えたこの「自由」が、なかなか厄介なものだった。
今日何をするかも、これから先、数ヶ月後、1年後、5年後、10年後。
すべての予定がリセットされ、今決めていいと言われると、何をしたいか、何も浮かびやしなかった。
それよりも、全部を一から決めていかなきゃいけないという、不安とか、めんどくさいなーっていう重苦しさに、なんだか息が詰まりそうだった。
自由にしていいのに、やりたいことが浮かばない。
その状況が苦しくて。
じゃあ何か学んでみようと思っても、何を知りたいのかがわからない。
じゃあ人に会ってみようと思っても、語るべき素材がないことが心地悪い。
終わりのない余白を与えられたとき、
何を決断の指標にしたらいいのか、まったくわからなくなってしまった。
それからしばらくして、ようやく所属するところ、これからやることが決まったとき。
「もっとこれを知りたい!」
「もっとこれができるようになりたい!」
「誰かにこれを相談したい!」
狭めた瞬間に、あれもこれもとやりたいことがとめどなく溢れてきた。
所属した結果、できないことや、時間の制限も生まれたのに。
真っ白な余白より、ずっとずっと、解放された気分。
なんだか不思議。
でも、ノートも、真っ白な画用紙より、枠があったほうが書きやすいもんな。
この年になると、食べ放題よりも、同じ値段のちょうどいい量の美味しいものを食べた方が、満足度が高い。
制限は、不自由に思えてたけど、進むべき方向を教えてくれる道しるべにもなる。
定時があるから、それまでに終わらせよう! って思えるし、
先輩や上司がいるから、理解してもらおうって努力もするし、
競合がいるから、少しでも良くしようって、最後まで手を抜かずに向き合える。
行き詰まったとき。
そこから抜け出すんじゃなくて、あえて狭めてみることも、選択肢に入れてみよう。
何か、新しいことが浮かんでくるかもしれない。
狭めることで、解き放たれることも、あるんだな。
でもー、満員電車だけは勘弁だから、
がんばって早起きつづけよーー